第106節 演説
それからしばし、無為の時間が流れた。
トラひげの治療が済み、モリヤから民たちの招集が完了したとの報告を受けると、わしはあらためてトラひげを従えて神殿の中央に敢然と立ちはだかって宣言した。
「聞け!このクマのクニに住まう、すべての者たちよ!そなたらの大王は、今宵、わたしに降ることを肯んじた!」
わしは大音声ではっきりとそう告げると、一歩後ろに控えるトラひげを指し示して見せた。
奴は今でこそわしに大人しく従がっていたが、未だ消えそうにない憎悪の火種を瞳の奥に燻ぶらせたまま、その足元を睨みつけていた。
しかし、わしはそんなトラひげに構うことなく続けた。
「そなたらのクマのクニは、我がクニの領地となった!これよりそなたらは、我がクニのために働くのだ!」
亡国の民は新たなる支配者に従えと言う屈辱でしかないはずのわしの宣告にも、しかし民らは静まり返ったままだった。
(むう。これは……。)
突然知らぬクニの属国になってしまった。自分たちのクニの在り方に対する理解が追い付かない者ばかりなのだと思われた。
しかし予想されたこととは言え、わしは実に遺憾であった。
「だが安心せよ、クマの民たちよ!我らは決して、そなたらをぞんざいに扱うことはない!」
そう。今となってはこのクニの民は我がクニの民。なればこそ、よもや彼らを虐げることなどあろうはずもないのだ。
それでも民の反応は薄い。
(やはりダメなのか……。)
できればこのような手段には訴えたくはないのだが。
わしは辺りの気配を肌に感じながら、どうにかならぬものかと思案しつつ演説を続けた。
「我がクニとクマのクニは、共に手を取り合い、共に栄え、共に生きるのだ!」
ここまでやっても、依然として民らにめぼしい反応は見られない。
彼らは決して呆けているわけではないが、然りとてわしの言葉を理解、納得できたというようにも見えなかった。
わしはそこで一度呼吸を置いた。
(もはや、止む無し。)
一向に歩み寄ろうとする気を持たない者に、これいつまでも猶予を与えてやるわけにもいかないのだ。
そして覚悟を決めたわしは、あたかも伸びをするがごとく何でもないことのように懐からスーと匕首を取り出して、更に続けた。
「わたしの名はタケハヤ!――」
わしは淡々とその名を民衆に明かした。
しかし、このクニに在っては知りようもない我が名に、驚く者など一人たりともいるはずがなかった。
わしは余人には分からぬほどにごく小さな動きで匕首を構える。
(さらば。もはや未練は残すまい。)
それから、わしは惜別の言を念じた。
これこそが我が温情に対する回答だというのならばこれ以上の躊躇は危険というものだった。
「このクマの地よりはるか東方のクニ――」
そこでわしは匕首を背後にあるはずの虚空に向かって勢いよく突き刺していた。
我が演説は一度そこで止まり、辺りの空気は凍り付いて何やら不穏なものに変じてゆく。
(貴様は露と消ゆることを選ぶのか。)
そこで脳裏に浮かんできたのはどういうわけか何とも詩情的な言葉だったが、勿論それを口に出すことはなかった。
辺りではこれだけの人が在りながら、誰もがわずかな音も立てようとはせぬおかしな時が流れる。そうして耳に入ってくるのは自然に暮らす物の息遣いと各所に設えられた焚き火の爆ぜる音だけ。
そして、それはしばしの間続き――背後の空気が揺らいだかと思うと足元に何かが落ちる音がした。
「……貴様……。」
続いて聞こえてきたのは男の声。
我が足下には先ほどまでなかったはずの小刀が転がっていた。
「残念じゃ。実に……。」
わしは分かっていたのだ。
この男は……トラひげは決してわしに膝を屈するような男ではないことを。
この一時だけでも大人しくわしに従ってくれれば、是非とも配下に加えたい逸材であったものを。
わしは稀代の豪傑と思しき男を失うことがあまりに口惜しく、表情を曇らせていた。
しかしトラひげは、おのれの生命が失われようかという時に一体何が可笑しいのか、くっくっと笑いはじめていた。
「何が可笑しいのだ?」
怪訝に思ったわしの問いにトラひげは答えた。
「……いや、可笑しいだろう。そうではないか……このような優男ごときにこのわしが……。」
「そうか……。」
おのれを負かした相手が認められない。ただそれだけのこと。そんなことが可笑しくて笑うトラひげが今となっては哀れに思えた。
それでも、わしの憐みなど知る由もない奴は止めることなく言葉を続けた。
「……いや、このわしを討ち取るとは、見事……と言ってやるべきか……。やはり貴様には、褒美を、くれてやらねば、なるまいな……。」
「褒美?」
その言葉にわしは匕首から手を放してトラひげの方を見た。
すると奴は気丈にも刺さったまま匕首を握り締めたかと思うと、何のためらいも見せず自らの手で引き抜いてしまった。
(何と!)
わしはどこまでも己が体の具合を顧みることをせぬトラひげに驚愕した。
奴から漏れた「ぐっ。」という声と共に流れ出たのはおびただしい量の血で、それは奴の衣をたちまち赤く染め上げてゆく。
「……これより貴様は、我が名を継げ……。タギリビコを、名乗るのだ……。」
「何?しかし、それは――」
トラひげが匕首を捨てながら言ったその言葉にわしは訝しんだ。
奴の名を襲うことについては以前にも提案され、その時は体よく断ったはずなのだ。
なぜ今また、それを打診しようというのか。
「断るなよ……。断れば、クマに在るすべての者が、我が仇敵として貴様に、牙を剥くことになるぞ……。」
そこについては理解できた。
確かに奴の名を継げば、クマ大王の正当なる後継を引き受けた者としてこのクニを支配するに足る正当な理由を得ることが適うと言ってよいだろう。
そうすれば、この後何かしらの形で発生するであろう暴動や反乱と言った血と荒塵の風を幾らかでも抑えることができる。
それは分かるのだが、しかしそれでは己がクニを己が仇敵に売り渡すのと同じこと。奴は何故それを認めるのか。
わしが疑問を口に出す暇も惜しむかのようにトラひげは続けていた。
「ヨシノタギリビコよ……。わしは、見ておるぞ……。貴様が……この先……何を、見て……何を……為すの、か……。」
トラひげはそれだけ言うと、わしを押し退けてふらふらと前に出た。そして目一杯に背を逸らして息を吸うと――
「よいか!この者、タギリビコに従えぇェェイ……!」
どこにそんな力が残されていたのか、トラひげは絶叫の如き命令を下すと前方の階段に前のめりになって倒れ転落してゆき――そしてついに地面まで止まることなく転げ落ちると、それきり動かなくなっていた。
わしはその様を黙って見ていることしかできなかった。
(トラひげ……いや、偉大なるクマノタギリビコ大王よ。その名に恥じない精気滾る見事な最期であった。)
わしをクニを託すに足る者として認めたのか、あるいは残された民の安全と安寧のためか、ついに分からぬままその名をわしに託してクマ国の英傑クマノタギリビコは逝った。
わしは動かなくなったトラひげを眼下に見下ろしながら、奴の不屈の魂を心の底から賞賛していた。
心ばかりの哀悼が済むとわしは民らの動揺が収まらぬ中、それでも構わず演説を再開した。
「皆の者!心して聞け!」
わしの一声に、ざわめいていた民らが一斉に押し黙り、その注目がわしに集まった。
今までとは違うその顕著な反応は、トラひげの遺志がわしに力を貸してくれているからだろう。
「そなたらも聞いての通りだ!そなたらの大王は、わたしにこのクニを託した!」
その一言が再び民衆を論騒へと駆り立てる。
それは勿論、賛成や服従の意味ばかりではなかったが、それでもどうやっても目ぼしい反応の見られなかった先ほどまでとは大違いだった。
民の動揺を尻目にわしは続けた。
「聞け!これは大王の遺命!よもや、否やという者はおるまいな!」
喧々囂々の民衆が再び黙り込んだ。
異論が上がれば受け入れるつもりであったが、否定の声が出てくる様子はなかった。
面白いほどに従順で顕著な反応にわしは満足した。
「よかろう!ならば、あらためて名乗ろう!わたしは――」
しかし――ここでわしは考えた。
ここでトラひげの名を使うことは正しい事なのだろうか。
先も述べた通り、今後の騒乱を恐れるのであれば奴の進言を受け入れるのが良策というものだが、つい先ほどまで敵であったクニの大王の名をそのまま受け取ってしまうと、やはり本国の我が君からわしに二心ありと疑われてしまうやも知れぬ。
ならばここは――
「わたしはオオヤマトタケリビコ!クマノタギリビコ大王よりこのクニを託されし、遥か東方の地、大ヤマト国より参りし皇国の皇子である!――」
わしは、トラひげの遺命にも負けぬほどの大音声を以って、その名を襲ったことを高らかに宣言していた。




