第100節 決戦 四合目 ~勝利への執念~
「ぬぅっ!」
躊躇なく突っ込んでくるわしの動きに気付いたトラひげの放った強烈な蹴りがわしを襲った。
「ふっ!」
颶風を纏ったヤツの脚がわしの頬を掠め、皮が裂けた。
しかし、それでも躱すことはできたのだ。あると分かっていれば避けられぬことはない。
わしは当たれば首が千切れ飛ぶのではないかというほどの死の気配を孕んだ骨砕の一撃を紙一重のところで躱すと、空振りに終わったことで姿勢の立て直しが間に合わなくなった奴の背後に回り込むことに成功した。
そしてすかさず奴の首筋に匕首を押し当てると次のように勧告した。
「クマ大王よ。もはやこれまでと心得――」
「っ!」
しかしトラひげは、わしの口上が終わらない内に、首に当てられた刃を躊躇いなく素手でつかんだかと思うとグイと強引に引き剥がし、間髪入れずに肘で我が脾腹を殴打した。
「ぐあっ!」
一度やられている箇所を再び打たれた痛みを堪え切れずにひざを着くと、トラひげはすかさずわしを蹴り飛ばす。
そうして両者の間合いが開いた。
(ぐく……これは!)
蹴り飛ばされた衝撃で頭が揺さぶられ、わしは吐き気を催していた。
しかし、蹴りを食らった顎もそうだが、やはり打ち据えられた脾腹の痛みの方だった。ここの痛みが妨げとなって息が詰まってしまい、どうしても体を起こすことができない。
(拙い……。)
早く起きねばと思うほどに目が回り痛みが走り、息が詰まって結局その場でのたうつぐらいしかできなかった。
そうやって転がったままのわしは、いつの間にか傍まで来ていたトラひげの奴にその剣先を突き付けられていた。
「終わりだ。」
そんな言葉を平然と言い放つトラひげの姿を見上げたわしは、その瞬間にともすれば頭の毛が抜け落ちるのではないかというほどの怖気を覚えた。
(異形……。)
自らわしの視界に入って来た奴の一つ眼は血走り、その口は歯を剥き出しにしてふーふーと激しく息を切らしていた。
そして何よりもわしを恐れさせたのは、奴の左手からおびただしい量の血が滴り落ちていること。
(貴様、その手……。もはや手当てしたとて無事では済まんぞ。)
なぜこやつはそんな状態になっても平然と勝ちに行くことができるのだ。
その悪鬼の如き形相にわしの心には奴に対する恐怖よりも、もっと別の感情を湧き始めていた。
「――放て!」
我が劣勢を見て取ったモリヤの号令一下、我が兵らの第三射がトラひげの背後を襲った。
「ぬぅん!」
今度の矢は先ほどのような温い牽制ではなかった。
威力も害意も十分に込められた矢が迫りくると、それに気付いたトラひげは振り返り様にそれらを薙ぎ払うが、次々と飛んで来る矢のすべてを躱すことは無理と見たのか、ためらうことなく左腕を盾にして矢を受け止めた。
当たった矢は左腕に数本、危うく急所を掠めた物もある。それでも見事に致命傷となる矢は避けている。
しかも、それだけの数の矢が当たっていても奴は怯む様子を全く見せていなかった。
(なんと恐るべき奴か……。)
わしは慄いた。
しかし、何も奴の鬼気迫る形相にいつまでも慄いているわけではない。
わしが感じていた恐ろしさとは、恐怖ではなく畏怖だった。
そう、真に畏れるべきは勝利のためなら自分の体を捨てることにわずかのためらいもない奴の凄まじいまでの執念。
わしはとんでもない豪傑を相手にしているのではないか。
相手の気迫に敬意を覚えるのは初めての事だった。
(ふふ、面白い……。しかし、それならばわしとて!)
わしはこの戦場にあって、もはや不要でしかない感情をかなぐり捨てるべく笑っていた。
確かに奴は世に憚るようなとんでもない豪傑のようだ。それは認めよう。
敵に回すべきではない男。その通りだ。
しかし、世に在る豪の者は何も奴だけではない。
ここにも居るのだ。かつて荒ぶる神をも弑し奉った無双の英雄が。
「そう!この!わしこそが!無双の!英雄っ!」
辺りに大音声が鳴り響いていた。
そのつもりはなかったのだが、気が付けばそのように大きな声で宣言していたのだ。
しかし、その心より産み出されて口から現世に現れた言葉がおのれの耳に入ると、それは再びわが心の内に還ってきてわしの弱気を勇気に変え、畏怖を闘気に変えた。
身体の芯から熱く滾ってゆく。
わしは素早く体勢を直すとその勢いのまま今度こそはと先手を取って奴に向かって斬りかかった。
「があっ!」
ケモノのような気合と共に振り回された奴の剣を潜り抜けると奴に向かって匕首を伸ばし、そして――
「ぐえっ!」
すかさずに繰り出された今宵三度目の蹴りを食らったわしは、蛙が潰されたかのようなみっともない悲鳴を伴って吹き飛ばされた。
ドスンと大きな音を立てて床に叩きつけられてそのままわしは動くのをやめる。
「……。」
わしは晴れ渡った夜空を見上げながら声もなく笑っていた。
(ふふ……またやられたか。)
これほど何度も景気よく飛ばされると、却って気分が良いものとすら思えてくる。
しかし、そのことは織り込み済み。
わしはえいっと勢いを付けて起き上がると、今までとは違ったトラひげの奴の様子を見てニヤリと笑い、そしてその成果に満足した。
「貴様……。」
そう言ってわしを睨みる奴の気迫は微塵も弱まってはいなかった。
しかし、奴はその場から動かず、屈みこんで脚をかばっている。
「もう自慢の蹴りは放てまい。」
唇から伝ってきた血を拭いながら、わしは勝利を確信した。
「もはやこれまで。降伏なされよ。」
「……。」
わしはそう言って手を差し伸べようと間合いを詰めると、奴はもはやその場から立ち上がることなく、迎え撃つ姿勢を取った。
(まだやる気なのか。)
トラひげの奴は脚を負傷した。
もう蹴りは撃てぬし、こうなっては間合いを制することも難しい。腕にも手にも傷を抱えていては剣を振るうのも困難だろう。
一方の、わしの方はと言えば脾腹などを強く打たれその損傷は骨にも達してはいるが、決して動けぬことはないのだ。
こうなっては彼我の優劣は誰の目にも明らかだろう。
(それでもまだ諦めぬのか。)
わしはある種の感動を覚えながらも、奴の意地に応えるべく匕首を構えた。
(これこそが英雄同士の戦いというものか。)
つまらぬことと知りながらも浸らずにはいられないその感傷に身を委ねながら。




