第96節 決戦 一合目
「むっ……ぬぅ。」
不意にチラチラとした光が目に入ってきた不快感に、わしの首を絞めるトラひげの腕が僅かに緩んだ。
(これでも喰らえっ!)
わしは奴がわずかに怯んだその隙を見逃すことなく、手にした鏡を奴目掛けてしたたかに打ち付けてやった。
「があっ!」
と、これには然しものトラひげもたまらなかったようで、わしを乱暴に解放すると打ち付けられた目を押さえて苦痛を露にして悶えた。
「ごほっ……。」
だが、わしとて無事ではない。
わしは辛くも危機から脱したとは言え、あと一息で絞め落とされるというところまで暗く狭まってしまったおのれの視界を取り戻すために、その場につくばってどうにか息を整えているという有様であり、にわかに訪れたこの逆転の好機を生かすなどという余裕はまったくなかった。
「むぐ……ぐうむ……。」
「げほっ……はあっ……。」
二人共がそれぞれに体勢を立て直すべく必死になっていた。
そうして気が付けば、いつの間にか囃子の音はうんともすんとも聞こえては来ず、周囲の視線が我ら二人の動向に集中している。
「おのれぇ……。この曲者があッ!」
わしに先んじて体勢を立て直したトラひげが片目を押さえて、その怒号を祭会場に普く響き渡らせた。
すると、それまでただ呆然と我らの戦いを傍観していた民が、奴の号声を聞いて我を取り戻した。
民らは蜘蛛の子を散らす様に一斉にこの戦禍から遠ざかろうとして、会場はたちまちのうちに大混乱に陥ってしまった。
方々から悲鳴が上がっては次々と連鎖拡大してゆくその様は、あたかもこだまのようでもあり、いつまでも消えることのない叫喚がこの祭り会場中に響き始めていた。
(いよいよか。)
わしは混乱が瞬く間に伝播してゆく様子を目端に捉えながらも、我が兵の到着が間に合わないままトラひげと対峙しなければならないことに焦りを感じ、それでも覚悟を決めていた。
多くの民が倒つ転びつしながら逃げ惑う混乱の渦。
そんな中にあっても、いささか違う動きを見せる連中がいた。
民たちをかき分けて武器を取りに走る者や、取る物もないがとりあえずこの麗しき曲者を取り囲んでやろうと宮殿下へ集結する者。
民とは違うとはいえ、銘銘が勝手に判断しててんでバラバラに統制の取れぬ動きをしている。
酒宴に興じていた中での突然の出来事に、対処できた者が誰もいないようだった。
(ふふ……それでこそ、甲斐があったというものよ。)
わしはクマ兵の混乱ぶりに満足し、策の決行日に祭り当日を選んだ我らの判断を賞賛すると、対峙するトラひげだけに意識を集中させた。
あらためて見やれば奴の片目が憎悪の火煙をユラリとくゆらせてわしのことを凝視していた。
「……殺す。」
その言葉を裏打ちするかのように放たれる奴の気はわしの肌を痛烈に突き刺してくる。
(むう……、これほどまでとは。)
気圧されまいと踏ん張る脚がわずかに退がる。
さらにはそのすさまじい気迫に押されて、じっとりとした嫌な汗が滲み出してくるのを感じ、大国クマ大王の肩書は飾りではなかったかと痛感させられていた。
奴は負傷した目を諦めて手を離すと、兵たちの包囲も待たずに腰に佩いた十拳剣をギラリと抜き放ち、いよいよメラメラと燃え盛るに至った殺意をわしに向けてきた。
一方でどうにか息を取り戻したわしは、速やかに懐から匕首を取り出して奴の殺気に対抗すべく構えをとった。
わしとトラひげ、双方の動きが止まる。
こうなっては眼下に広がる民の混乱もざわめきも、もはや我らには関係のない出来事となった。
混迷極まらんとしている祭り会場の中にあって、我ら二人の間にあるわずかな空間だけが凍り付いたようにピンと張りつめた空気に支配されている。
「殺す……。逃げられると思うな。」
そう強固に宣告したトラひげの開かない瞼からは血が滲み出ていた。
「……包囲を待たんでよいのか?」
宮殿の下では統制が取れぬなりにクマ兵が包囲の輪を作りつつあった。
もはやこの混乱に乗じて逃走することは難しいだろう。囲んでいるのは得物を持たぬ兵のみと言えども、あれだけの数を突破するのは容易なことではない。
ならば今は少しでも時を稼ぎたい。手順に多少の手違いがあったとはいえ、包囲されるまでは我が策の内なのだ。
そうしていくらかでも長引かせることができたならば、我が精兵がこの場に踏み込んでくるやも知れぬ。
「何だったら少しぐらい待ってやっても良いぞ。」
わしは腰を落として匕首を構えながら、激昂しているトラひげと対照的に余裕たっぷりに含みを持たせて、奴がたちまちのうちに斬りかかってくるのを牽制してやった。
(頼む、早く来てくれよ。我が精兵たち。)
過度に期待するつもりもないが、事ここに至ってもやはり頼みの綱は我が兵たち。
いかに我が腕には覚えがあると言っても、たった一人で一つのクニを制することができると思いあがるほどわしは愚かではない。
(む……それになあ。)
わしは己が手中にある得物の頼りなさを嘆いた。
わしの得物は匕首だ。
この匕首、いかに確かなる筋より戴いた霊剣の欠片より作られし物とは言えど所詮は匕首。短小な匕首と十拳長の剣とではどう考えてもこちらの分が悪い。
(しかし、奴は片目が使えぬ。)
そこに付け入れば勝機も見えるというものだ。
激情に駆られている割には冷静に間合いを測ろうとしているトラひげを見ながら、わしはそう考える。
だが、それは当然奴も承知のことだろう。
わしはジリッジリッと横に動いてあからさまに奴の死角に回り込みたい様子を見せつけて、さらに奴を牽制した。
それが分かっていればこそ、トラひげの方もそうはさせじと、わしの動きに合わせて正対を外さぬようにズ……ズ……と向きを変える。
ジリッ、ズ……とした間合いの変化につられて互いの気合が充実してゆく。
(かつて未曾有の存在をも弑逆せし我が霊剣の一撃。トラひげよ……貴様、受けてみるか。)
そして――
わしとトラひげ、双方が動いたのはほぼ同時だった。




