第91節 枯れ落ちた橘花(其の四)
祭囃子はすっかり元通りになりながらも、その盛り上がりはもう一つ何かが足りないと思われてならない祭りの最中にあって、何やら不穏な気配が降りかかってきたことをわたくしは察した。
チラと露台を見上げてみると、大王が嫌がる白面の舞娘に背後から抱き着いている。
(ああ、やはりこうなってしまいましたか……。)
わたくしはすぐさま視線を戻すとため息を吐いた。
予想していたこととは言え、それでもまさか祭りの最中に事に及ぶとはなんて破廉恥でご盛んなことか。
あれは義父か大王か。どちらにしてもあまりにも好き放題して分別のない行動をとっている男に嫌悪感を隠せない。
(しかしそれも、どうでもいいことです。)
わたくしは嫌悪の情をしまい込むと、そう達観して見せた。
散々に揺れ動いていたわたくしの心も、今では何事も傍観して関わるべきではないという意見が大勢を占めている。
この姿勢は、如何にもまたすぐに入れ替わりそうに見えて、それでも動くことはなかった。
(これがわたくしの本当の姿。)
嫌悪と失望を抱えたまま膝に視線を落とすと、そこに置かれていた盃の中にこれから彼女の身に起こるであろう悲運が垣間見えた気がして、わたくしは彼女を憐れんだ。
(ああ、憐れな娘。)
どんなに嫌がったところで、あの男に逆らうことはできない。
あの白面の舞娘が大王に逆らうこともできず、されるがままになっているのを見るのは嫌。
嫌なものは見たくない。
嫌なものは聞きたくない。
見たくないものからは目を背ければいい。
聞きたくないものからは耳を塞げばいい。
関わりたくないものからは逃げればいい。
関わらなければ傷つくこともない。
(そうすれば、そうすれば……。)
そこまで考えたその時、囃子の太鼓の音がトーンと一つ耳に入って来て、そしてその音はそのままわたくしの心の深いところまで響き渡った。
その音に射抜かれたような気になって、はっとして顔を上げるとそこにはあの白面の舞娘の後ではごく普通としか映らない舞いを披露する別の舞娘の姿があった。
(そうすれば、どうなると言うの?)
今まで悩みぬいていたことが何だったのか、忘れていた何かを思い出してみる。
失った物は誇り――
そう、失ってしまった。何物にも代え難いわたくしの宝物。
しかしだからこそ、この誇りを失った今のわたくしが何に怯えているというの?
これ以上失うものなんて何もないでしょうに。
守りたいものは誇り――
しかし、守りたい誇りはもうない。
ならば、そうしてここで見て見ぬふりをすることで一体何を守れるというの?
守れるものなんて何もないでしょうに。
得たいものは誇り――
失ったものを取り返したい。そうすればわたくしはまた大輪の橘の花に戻れる。
でも、そのためには何をしなければならないの?
失うものはなく、守りたいものもない。しかし、得られるものはある。
(それが分かっていながら、ここでじっとしているのが正しいことなのかしら。)
座の中央では平凡な舞娘が平凡に、しかしそれでも懸命に舞い踊っている。
あの流麗風雅な舞いを見せつけられた後では、自らの舞を披露するのもためらわれるだろうに。
(それがどんなに怖いことでも……。)
目の前の舞娘はどんなに舞を披露することが恐ろしいことでも逃げていない。
敢然と立ち向かい、舞い続けている。
大王は恐ろしい。その通り。
あの眼で睨みつけられた時の全身くまなく粟立ったあの恐怖。
(怖い。)
あの時大王から浴びせられた恐怖には打ち勝つことはどうしたって自分にはできない。
それでも囃子は変わらずに鳴り響く。舞に比べて囃子の主張が強く前に出過ぎている。
歓声も拍手も、もう少し寂しさが拭いきれない。それでも、舞娘は健気に舞い続けている。これを何と表現すべきか。
(勇、気……。)
そう、あの舞娘を突き動かしているのは勇気。
今のわたくしに足りない物。今のわたくしに最も必要な物。
ひざに置かれたままの手は、空になって久しい盃と共に今も変わらず震えている。
でも、だからと言ってわたくしが恐れ慄いていたら、今後あの大王の横暴な振舞いを誰が止めるられのか。
(怖い……。けど、やらなくては。)
もう手段を問うてはいられない。
正面からでなくてもいい。弱気でも弱腰でもいい。とにかく、大王を諫められる者がいる。
それが、それこそがこのわたくしに求められた、このクニのために必要なこと。
(さあ、頑張りなさい。奮い立つときは今ですよ。)
それでも本心では、もう少し時間が欲しいところ。
でもそれでいい。
この決意が折れない限りわたくしは何度でも返り咲いて見せる。




