2 テト/二つの欠けた月の夢
瞼を開けると、目の前には白く輝く無数の星が散りばめられた夜空が広がっていて、夜空には、なぜだか二つの大きな三日月が横並びになって浮かんでいた。どちらも、現実で見るよりずっと大きい。片方がもう片方を照らしているようにも見えるし、二つとも、ただそこにあるだけのようにも見える。
暑くもない。
寒くもない。
風が吹いているような感覚はあるのに、肌を撫でる空気の温度がない。
そんな、現実ではあり得ない感覚だった。
キラッ、と、アニメで流れてくるようなわざとらしい、夢のような音がして、一つの白い星が、二つの三日月の間を横切って、尾を引くように流れていった。
遠くから、波の音が聞こえる。
寄せては返す、静かな音。
星の煌めき以外には、それだけだった。
不思議なくらい、静かだった。
息をのんで、それからすぐにテトは上体を起こし、自分の掌を見つめる。自分の身体だ。
けれど、どこか現実感が薄い。
そしてあたりを見渡す。木々が生い茂っていて、波の音からさらにおそらくしばらく歩けば海があるのだろう。しかし、潮の香りはしなかった。
湿った土の匂いも、草の青臭さもない。
ただ、星と月と波の音だけが、そこにあった。
ここは、ググの精神世界ではないようだった。なんとなく、これまで見てきた誰の精神世界とも違う感覚がした。
精神世界には、それぞれの人間の感情や記憶が、どうしたって滲み出る。
もっと生々しくて、もっと不安定で、どこか息苦しい。
ここにはそれがない。
何もないのに、不思議と落ち着く。
では、一体ここはどこなのか。
「ググ」
疑問はさておき、隣に横たわって気を失ったかのように寝ているググに声をかける。彼は呼吸も穏やかで、苦しそうな様子はない。
声をかけただけでは起きなかったので、軽く彼をゆすると、ググは目を擦りながらまるで長らく眠っていたかのように「うーん」と声を漏らし、目を擦りながら上体を起こした。
「……テト」
虚な瞳のまま、それからググはあくびをした。涙の溜まった瞳でテトを見つめ、ググの表情は徐々に強張っていく。
「テト、ごめん、ぼく……おかしくなってた」ググは自分の両手を見つめた。指先を確かめるように手を握ったり開いたりする。「あの力も、よくわからないんだ……ぼくは何の力も使えないはずだし」
「いいんだ、わかってる」テトはそう答えた。「僕もおかしかった。力についてはまた後で。それよりも」
テトが周囲を見渡す。
ググもつられるように辺りを見回した。
「うん……ここはどこ?」
ググはそれから、頭上を見上げた。明らかに非現実的な空の光景を見て、ググは元々丸い目を更に丸くし、漆黒の瞳に白い星をちらつかせる。
「わからない。きみの精神世界に入るはずだったけど。誰かの全然違う精神世界と繋がってるみたいだ。精神世界なのかもわからない……いつものとまったく感覚が違うんだ……」テトはそのへんの木に寄りかかり、「どちらかというと、夢みたいだ。なんだか落ち着くし、不思議な気分。本来、精神世界だったらもうちょっと、不安なかんじがするんだよ」
自分でも説明しながら、違和感が増していく。
「うん」ググは、また出てくるあくびを噛み殺し、「たしかにここは落ち着く気がする……さっき変な気分だったから、余計に」
「とにかく、歩いてみよう。ここは僕の力とは無関係なはずだから、ここから出られるかはわからないけど」
テトは立ち上がり、ググに手を差し伸べる。
ググはその手を握り、立ち上がった。
テトが手を使わずに長く伸びた草をかき分けようとしたが、どうやらここは能力を行使できないように――というよりは、能力が存在しない世界な気がした――そんな風になっているらしく、草をかき分けるにはわざわざ手を使うしかなかった。
二人で手で草をかき分けながら、無言で数分適当に歩き進めていたところで、テトがふいに口を開いた。
「ソラには申し訳なかったな」
ググは返事をしなかった。何と言えばいいのかわからなかったのだ。
けれどテトは、そんなググの反応を待つことなく続けた。
「ソラはきみのことが本当に好きだと思う。だって、きみにとって、ソラはただのソラだろうから。僕はソラの奥でキリを見てたんだ、無意識に。それがソラにも伝わってた」
ググに表情を見られないように、テトはググよりも一歩先を歩くようにした。
足元の草を踏む。
柔らかな音がした。
「僕はキリしか見られないんだ……キリが唯一大事なんだ」
「それは……なんとなく、もう気づいてたよ」
「僕にはキリだけなんだ」
テトは戯言のように続ける。草をかき分ける音に混じって、また、「キラッ」と星が流れて消えてゆく音がした。二人の頭上を横切って、白い光が消えていく。
「僕をただの僕として見てくれて、愛してくれるのは、キリだけなんだ。僕も、キリをただのキリとして見てて、愛してる。僕は、もう他には何も要らない……」
テトは夜空を見上げることなく、前だけを見ていた。
この世界みたいに。
その言葉を最後に、草の道が途切れた。
目の前が、一気に開ける。
白い砂浜。
その向こうには、静かに波打つコバルトブルーの海。
夜の海なのに、暗くない。
二つの月が海面に細長い光の道を作り、その上を小さな波がゆっくりと滑っている。
空がやたら大きく感じた。
一人、脚を前に投げ出して砂浜に座っている黒髪の青年がいる。何をするわけでもなく、後ろに手をつき、ただ空と海を眺めているようだった。こちらに背を向けているので、顔は見えない。
「誰だろう」テトにしか聞こえない声の小ささで、ググがそっと言った。
「あの」
数メートル近いたところで、テトが青年に向かって声をかける。ググが向こうに聞こえないように気を使ったのに、だ。ググが思わずテトの肩を小突いた。
テトの声が聞こえたのか、あるいはたまたまなのか。
青年が気だるげに、こちらをゆっくりと振り返る。
その顔を見た瞬間、テトは呼吸を忘れた。
緩くうねった、癖っ毛の、濡れた鴉のような黒髪。ほんの少しつり上がった目尻に、涼しげな目元。美しいアーチを描く眉。不服そうにわずかに下がった口角。髪と同じく、光の無い漆黒の瞳。テトと同じくらいの歳に見える。いや。
年齢など、どうでもよかった。
テトの喉が小さく鳴った。
心臓が、一拍遅れて大きく跳ねる。
自分と瓜二つの男が、そこにいる。
自分とまったく同じ顔立ちに、同じ髪。
テトも元々癖っ毛だ。わざわざ数ヶ月に一回縮毛矯正をしているし、今の蜂蜜色のこの髪色は仕事の都合でこうなのであって、地毛はなかなか色が入りにくい黒髪だ。
「……テト?」
黒髪の青年とテトを見比べ、ググが声を上げる。テトだと思うのも無理はない。
「違う……僕じゃない」
ハニの精神世界で見た、あの仮面の男。
しかし、そこで見た時の恐怖感は、一切ない。
「……父さん……」
彼には自分たちが見えてるわけではないようで、たまたま何となくで後ろを振り返っただけのようだった。彼はまた、前に向き直り、口に手を当てずに空に向かって大きくあくびをする。声はださなかった。
あまりにも自然な仕草だった。
こんなに自分と瓜二つでも、自分の父である自信はなく、自信がないというよりは、信じたくない気持ちだった。
が、テトのそれは確証に変わる。
「ジン」
高らかに、楽しそうに青年を呼ぶ声がした。
ジン、と呼ばれた青年と、テトとググが一斉に声のする方へ顔をむける。
「どういうことなんだ……?」
声の主の姿を見て、ぽかんと口を開けて言ったのはググだった。
青年と同じくらいの歳の女性が、小走りで青年に駆け寄り、隣に座りこんだ。
胸くらいまで伸びた黒髪に、森のような深緑の瞳。この砂浜のような白い肌。蜜柑色の唇。凛とした顔立ちにアンバランスな、どことなくあどけない声。
「見て、これ、かわいいでしょ。落ちてたの」
彼女がジンに見せた手のひらの上には、原色の青や赤、黄、緑に輝く、トゲトゲとしたなにかのかけらのようなものが何個も載っていて、力を失いかけているかよようにぼんやりと輝いていた。
ジンが、その中の一つ、赤のかけらをそっと手に取り、何も言わずに眺める。
「星のかけらなんじゃないかな?」
ジンの顔を覗き込み、彼女が笑顔で目を輝かせてそう言ったが、ジンは答えなかった。
けれど、彼女を追い払うこともしない。
赤い欠片を眺めたまま、海へ視線を移す。
それから、彼女を見る。
また空を見る。
「ググ」
すでにテトの声は震えていた。この黒髪の青年が自分の父なのだとしたら――全く繋がりはわからないが――彼女には、見覚えがある。その瞳の色、あどけない声や口調、表情。
でも、どうして、父と?
「うん、見たことある……」そう、ググはすでに、自分の母、ミンヒが撮った写真の中で見たことがあった。「キリの、お母さんだ……」
テトが彼女を見るのは初めてだった。しかし、顔はそこまで似てはいないものの、キリの面影はあり、幼い仕草や声、髪、瞳の色はまさにキリと同じだった。
彼女は星のかけらを一つ一つつまみながら何やらジンに向かって小さな声でぺらぺらと何かを話し続けているようだったが、ジンはあまり聞いていないようで、海を見たり、かけらではなくたまに彼女を見たり、空を見たりしていた。
すると、彼女がいきなり振り返り、テトとググを見つけたかのように「だれ?」と声をあげる。ジンも即座に振り返った。
「……気のせいか」彼女は安堵し、
「気のせい」ジンの声は、テトと全く同じものだった。しかし感情を削ぎ落としたような声だった。テトよりは抑揚のない口調で、表情もなく、「誰か入ってくるなんてあり得ない……入ってこようとした段階で気失うはず」
「結界、張ったの?」彼女の声が、少しだけ曇る。
「当たり前」ジンが、赤い星のかけらを彼女の手のひらの上に戻した。
「ジン」彼女の目には涙が溜まっていた。「そこまでしなくても」
テト、それからググにはもちろん、その結界というものが具体的に何なのかはわからなかったが、彼女の反応からして、おそらく彼が何かを犠牲にしてここに誰も来なくさせるようにするためのことなのだとなんとなくはわかった。
彼女の目に溜まった涙が粒になって流れ落ちたところで、ジンは冷たい無表情のまま、彼女に声をかける。
「ギュリ」
彼女の頬を自分の手で優しく包み、
「愛してる」




