第50章 灰色の眼差しの再来
ジャカルタの空は、ただ曇っているだけではなかった。
それは、明確な憤怒だった。
ピシャッ!
稲妻が走り、直後に凄まじい雷鳴が轟いた。
セノパティの街を真っ二つに引き裂くような衝撃に、私のホンダ・シビックの窓ガラスが激しく震える。
午後五時だというのに、外の世界は真夜中のように暗い。
雨はもはや粒ではなく、空から巨大なカーテンが崩れ落ちてきたかのようだった。
アスファルトを叩きつける音は、耳を聾するほどの轟音だ。
私は仕事鞄を頭に載せ、駐車場からカフェ・アークスの通用口へと小走りで向かった。
無駄な足掻きだった。
数秒のうちに、舗装路から跳ね返った水しぶきが、私のスカートとフラットシューズを無残に濡らしていく。
湿ったアスファルトの鋭い匂いと、立ち上る土の香り。
ペトリコール。
普段なら好きな香りなのに、今日に限ってはその匂いが濃すぎた。
胸が詰まるような、嫌な予感がした。
肩で扉を押し開ける。
カラン!
ドアベルの音が私を迎え、直後に焙煎されたコーヒー豆とシナモンの温かい空気が全身を包み込んだ。
「おかえりなさい、エララ先生!」
カウンターの向こうからディマスの声が響く。
彼は手にした布巾を放り投げ、私の方へ小走りでやってきた。
「ずぶ濡れじゃないですか! 傘はどうしたんですか?」
私は束になった髪を振り払い、顔についた滴を拭った。
「傘は車の中よ、ディマス。でも風が意地悪すぎて、私の傘、バクソの器みたいにひっくり返っちゃったわ」
ディマスは吹き出し、近くのテーブルからティッシュの束をひったくって私に差し出した。
「ほら、先生。拭いてください。風邪でも引いたら大変だ。ボスが心配で一晩中寝られなくなっちゃいますからね」
私は苦笑しながらティッシュを受け取った。
雨の日のカフェは静かだ。
隅の席でノートパソコンを広げ、雨宿りを決め込んでいる二組の客がいるだけ。
嵐は商売敵だが、私にとっては、ここが心地よい繭のように感じられた。
「エララ?」
低く響く、落ち着いた声。
奥からディオが、焙煎したてのコーヒー豆を載せたトレーを持って現れた。
白いTシャツの上に、お気に入りの黒いエプロンを締めている。
私の濡れた姿を見るなり、彼の瞳に心配の色が浮かんだ。
彼はトレーをバーカウンターに無造作に置くと、足早にこちらへ歩み寄ってきた。
「なぜ電話をしなかったんだ。大きな傘を持って駐車場まで迎えに行ったのに」
ディオが静かに、しかし咎めるように言った。
彼の指先が、湿った私の袖に触れる。
「ひどく冷えているな」
「たった十メートル走っただけよ、ディオ。低体温症になんてならないわ」
彼の過保護なモードをなだめるように、私は微笑んで見せた。
だが、ディオは聞く耳を持たなかった。
カウンターへ戻り、専用の引き出しから清潔なハンドタオルを取り出す。
そして、ごく自然な動作で、そのタオルを私の頭に載せた。
彼は私の髪を優しく拭き始めた。
その手つきは慎重で、まるでひび割れた磁器の人形を扱うかのようだった。
「カウンターに座って。特製のジンジャーラテを淹れる。体を温めるんだ」
彼の命令に従い、私はお気に入りの高い椅子に腰を下ろした。
隣でディマスがディオの腕を小突き、にやにやと笑っている。
「ヒューヒュー! そのタオル、いい匂いしませんか、先生? それ、特別な洗剤で洗ってるんですよ。愛の洗剤っていうんですけどね」
「ディマス、給料を一割カットだ」
ディオがこちらを向かずに無表情で答える。
彼はミルクを温める作業に没頭していた。
「ひどいな、ボス! 冗談ですよ! 従業員には厳しいくせに、先生にはカプチーノの泡みたいに甘いんだから」
ディマスの愚痴に、私は思わず声を上げて笑った。
この空気。
なんて温かいんだろう。
外では嵐が吹き荒れ、稲妻が火の鞭のように空を打っている。
けれど、この柔らかな明かりとコーヒーの香りの下で、私は守られていると感じる。
お調子者のディマスがいて、新しい家庭教師の仕事があって、そしてディオがいる。
ディオが私の前にラテを置いた。
立ち上る湯気が、ジンジャーとパームシュガーの安らぐ香りを運んでくる。
「ゆっくり飲むんだ」
彼はカウンターに両肘をつき、私をじっと見つめた。
湯気の向こう側で、私たちの顔はほんの少しの距離しかなかった。
「ライラは?」
一口飲んでから、私は尋ねた。
「二階だ。ヤニさんと遊んでいる。君のことをずっと気にしていたよ。新しい絵を見せたいんだそうだ」
「後で行くわ。今は少し、ここで一息つかせて」
ディオが微笑んだ。
彼は手を伸ばし、こめかみに張り付いた濡れた髪をそっと整えた。
彼の指が肌に触れる。
温かくて、少しだけざらりとした、男らしい手。
「ゆっくりしていればいい。ここは君の家でもあるんだから」
その言葉に、胸の奥が熱くなった。
家。
そうだ。ブラウィジャヤにあるあの豪華な屋敷よりも、この場所の方がずっと家のように感じられる。
私たちは今日一日の出来事を語り合った。
学校でガファが絵の具をこぼしたこと、ディオの新しい季節限定メニューの計画。
時折、小さな笑い声が弾ける。
ディマスも端の方でグラスを拭きながら、会話に茶々を入れてくる。
すべてが完璧だった。
あまりにも完璧すぎて、怖くなるほどに。
その時、再びドアベルが鳴った。
カラン!
その音は、いつになく鋭く響いた。
まるで無理やり押し開けられたかのような、悲鳴に近い響き。
外からの突風が店内に流れ込み、冷たい雨の粒が、カフェの温もりを乱暴にかき乱した。
天井のペンダントライトが小さく揺れる。
私は反射的に肩をすくめ、扉の方を振り返った。
一人の女性が、入り口に立っていた。
彼女は大きな黒い傘を、訓練された優雅な所作で閉じた。
傘の先から滴り落ちる雨水が、木製の床を濡らしていく。
その女性が、こちらを向いた。
息が止まった。
美しい。
恐ろしいほどに美しいが、同時に人を威圧するような美貌だった。
金色の髪は肩のあたりで切り揃えられ、鋭い輪郭を縁取っている。
高級そうなベージュのトレンチコートを纏い、ウエストをきつく絞ることで、そのしなやかな肢体を強調していた。
膝まである黒いレザーブーツが、彼女の足元を飾っている。
嵐の中をやってきたというのに、彼女には乱れも濡れた様子もなかった。
私のような惨めな姿とは正反対だ。
気品。
まるでファッション雑誌のモデルが、雨の中での撮影を終えて現れたかのようだった。
彼女が纏っているオーラは、異質だった。
エアコンの冷気とは違う、芯から凍りつくような冷気を纏っていた。
彼女が一歩踏み出す。
ヒールの音が、自信に満ちたリズムで床を叩いた。
タッ、タッ、タッ
カフェの中のすべての動きが止まった。
ディマスはグラスを拭く手を止め、口を半開きにしている。
隅の客もタイピングをやめた。
女性は、私を見なかった。
ディマスも、他の客も、彼女の視界には入っていない。
その瞳。
鋭く、透き通った灰色をしたその瞳は、ただ一点だけを射抜いていた。
ディオだ。
私はディオの方を見た。
この、ヨーロッパの貴族のような見知らぬ客が誰なのか、尋ねようとした。
だが、言葉が喉に張り付いた。
ディオの顔を見てしまったからだ。
ディオは、硬直していた。
先ほどまで穏やかに微笑んでいた彼の顔は、瞬時に血の気が引き、幽霊でも見たかのように青ざめている。
目を見開き、これまでに見たこともないような眼差しでその女性を凝視していた。
それは単なる驚きではない。
戦慄だ。
過去の亡霊が、墓場から這い出してきたのを目撃した者の表情だった。
ディオの手には、棚から取り出したばかりの空のグラスが握られていた。
その手が、激しく震えている。
「……ディオ?」
私は彼の腕に触れ、小さく声をかけた。
反応がない。
彼は瞬き一つせず、ただ立ち尽くしている。
女性はカウンターの目の前で足を止めた。
濡れた傘を床に置き、ディオに向かって薄く微笑んだ。
冷ややかな、瞳の奥までは届かない笑み。
「久しぶりね」
女性が口を開いた。
ハスキーで、独特の響きを持つ声。
強い訛り。
フランス語の響きだ。
次の瞬間、ガラスの砕ける音が店内に炸裂した。
ガシャンッ!
ディオの手からグラスが滑り落ちた。
カウンターの裏のタイルに叩きつけられ、無数の鋭い破片となって飛び散る。
その音があまりにも大きく、鋭かったため、私は椅子の上で飛び上がった。
ディマスも後ろに飛び退いた。
それでも、ディオは動かなかった。
足元に散らばる破片に視線を落とすことさえしなかった。
彼はただ、憑りつかれたように女性を見つめ続け、その呼吸は次第に荒くなっていった。
「……き……君が……」
ディオの声は掠れ、消え入りそうだった。
女性は首を少し傾け、自分が引き起こした衝撃を楽しんでいるかのようだった。
彼女はさらに一歩、カウンターに歩み寄り、革のハンドバッグを台の上に置いた。
彼女の香水の香りが漂ってくる。
重厚で高価な薔薇の香りが、コーヒーの香りを一瞬で支配した。
彼女はディオをじっと見つめ、その赤い唇を動かした。
私の血を凍らせるような、残酷な響きを伴って。
「ボンジュール、ディオ」
昨日まで一緒にいた友人へ挨拶するかのように、彼女は平然と言い放った。
「私の子を、迎えに来たわ」
私の子。
その言葉が、大槌のように私の頭を殴りつけた。
私はもう一度、その女性を凝視した。
穴が開くほどに、彼女の顔を見つめた。
その金色の髪。
高く通った鼻筋。
そして、何よりも恐ろしい……その瞳。
冷たく光る、あの灰色の瞳。
それは同じだった。
全く同じなのだ。
毎日、教室で私を真っ直ぐに見つめてくれる、あの瞳と。
二階で帰りを待っている、小さな女の子の瞳と。
ライラ。
この女性は……ライラをそのまま大人にしたような顔をしていた。
体が動かない。
カウンターの縁を掴む私の指先は、白くなるほどに強張っていた。
私はディオに視線を向けた。
否定してほしいと、この女を追い出してほしいと願った。
だが、ディオはただそこに立っていた。
砕け散ったガラスの破片の上で、同じように絶望に打ち砕かれたような表情を浮かべて。
外の嵐など、このカフェの中に踏み込んできた嵐に比べれば、比べるべくもなかった。
第 50 章をお読みいただき、ありがとうございます。
物語が新たな局面を迎え、ドキドキされた方も多いかと思います。
皆さんの感想や考察をコメントで聞かせていただけると、とても嬉しいです。
ブックマークしていただくと更新を見逃しません。
今後ともよろしくお願いします。




