第49章 偽りの静寂
レンテン・アグンの路地裏には、湿った夜風と共に独特の生活臭が漂っていた。下水と揚げ油、そして遠くから聞こえる野良猫の鳴き声。
カチャリッ。
錆びついた鍵穴が悲鳴を上げ、私は安アパートの薄い木製ドアを押し開けた。蝶番がきしむ音を立てないよう慎重に動かしたが、その努力は無駄に終わったようだ。
靴を脱いで顔を上げると、そこには奇妙な「白い怪人」が仁王立ちしていた。
サスキアだ。
顔全体に分厚く塗られたブンクアン(ヒカマ)のマスクは既に乾燥してひび割れ、豹柄のパジャマという出で立ちで私を睨みつけている。その姿は、ジャカルタの都市伝説に出てくる幽霊よりも滑稽で、愛おしかった。
「……ちょっと、エララ」
マスクのせいでくぐもった声が響く。
「こんな時間に帰ってきて、何そのニヤけた顔。まるで灯油を入れたばかりのペトロマックス・ランプみたいに輝いてるじゃない。宝くじでも当たった? それとも、プロポーズでもされたわけ?」
私は堪えきれずに吹き出した。それは、この一ヶ月間で初めて心の底から湧き上がった、純粋で軽やかな笑い声だった。
バッグを擦り切れたソファに放り投げ、私はその「白い怪人」に飛びついた。
「宝くじなんかより、ずっとすごいことよ、キア!」
「うわっ! ちょっと、マスクが割れる! 私の美肌計画が!」
サスキアは大げさに悲鳴を上げ、私の腕から逃れようともがいたが、最後には諦めたように力を抜いた。
「はいはい、わかったから。早く吐きなさいよ。気になってニキビが増えちゃう」
私は彼女を解放し、その白塗りの顔を真っ直ぐに見つめた。胸の奥から熱いものが込み上げてくる。
「お母さんが……折れたの。全てを受け入れてくれた」
サスキアの目が限界まで見開かれ、頬のマスクがパラパラと粉になって落ちた。
「はあ? あのインディラおばさんが? 口を開けば激辛セブラックのレベル5より辛辣な、あのおばさんが?」
「うん。今日、ブラウィジャヤの実家で夕食会があったの。お姉ちゃんも、ナタン義兄さんも、そして……ディオも一緒だった」
私は深く息を吸い込み、あの奇跡のような食卓の光景を反芻した。冷たい沈黙が支配していたダイニングルームに、初めて温かい空気が流れた瞬間を。
「お母さん、お姉ちゃんの子供を見て泣いてた。お父さんも、お母さんが皮肉を言った時にディオを庇ってくれたの。最後には……今度ライラちゃんを連れて遊びに来なさいって」
サスキアは口をポカンと開けたまま、言葉を失っていた。
「嘘でしょ……」
彼女は呟き、そして再び私を力強く抱きしめた。
「それ、世界八番目の不思議よ、ラ。鳥肌が立ったわ」
背中を叩く彼女の手のひらから、温もりが伝わってくる。
「本当によかった。あんたの人生劇場、『親不孝の天罰編』がついに最終回を迎えたのね。これからは『ハッピー・ロマンス』の始まりよ」
「ありがとう、キア。あなたがここに居させてくれなかったら、私、とっくに壊れてた」
「何言ってんの。徳を積んでるだけよ」
軽口を叩くサスキアの声が、少しだけ震えているのがわかった。
「ほら、さっさとシャワー浴びてきなさい。高級な香水と、排気ガスの臭いが混ざってすごいことになってるわよ。今夜はぐっすり眠りなさい、お姫様」
私は大きく頷き、狭いユニットバスへと向かった。重力から解放されたかのように、足取りは羽のように軽かった。
シャワーを浴びて部屋に戻ると、そこは相変わらずの狭く湿っぽい空間だった。床に敷かれた安物のマットレス、天井の雨漏りのシミ。けれど今夜の私には、この場所が五つ星ホテルのスイートルームのように感じられた。
マットレスに身を投げ出し、天井を見上げる。かつては絶望の地図に見えたあの茶色いシミが、今では夕焼け雲のように見える。
全てが完璧だった。
父の会社はベクター・ホールディングスの介入で最悪の事態を免れ、母の虚栄心という名の鎧も剥がれ落ちた。絶縁状態だった姉夫婦も戻ってきた。
そして、ディオ。
枕元のスマートフォンが震えた。
ブッ、ブッ。
画面が暗闇の中で柔らかく光る。
『ディオ:おやすみ、エララ。いい夢を。今日は君の世界に招いてくれてありがとう』
画面の文字を目で追うだけで、胸が甘く締め付けられる。私は指先を踊らせ、返信を打ち込んだ。
『私の方こそ。私の心の拠り所でいてくれてありがとう。また明日、学校で』
送信。
スマートフォンを胸に抱き、瞼を閉じる。
これほどの平穏が、かつて私の人生にあっただろうか。明日の朝が来るのが怖くない。レイ・ダルヴィアンの影に怯える必要もない。明日は自分の車で学校へ行き、子供たちに勉強を教え、夕方には愛しいライラとディオに会える。
人生のレールが、ようやく正しい方向へと繋がったのだ。
「神様、ありがとう……」
唇から漏れた感謝の言葉は、夜の静寂に溶けていった。意識が急速に遠のき、私はここ数ヶ月で最も深く、穏やかな眠りへと落ちていった。
――― ディオ ―――
カフェ・アークスの二階、ペントハウスのバルコニー。
ここを吹き抜ける夜風は、地上よりも幾分冷たく、鋭利だった。あるいは、私の肌がそう感じているだけかもしれない。
私は黒い鉄柵に背を預け、眼下に広がるジャカルタの夜景を見下ろしていた。右手に持ったコーヒーカップは既に冷めきり、黒い液体は鏡のように月明かりを反射している。
舌に残るコーヒーの苦味よりも、胃の底に沈殿した澱のような不安の方が、遥かに厄介だった。
思考は自然とエララへと向かう。
別れ際の彼女の輝くような笑顔。家族の問題が解決し、重荷から解放された安堵の表情。それは私がこれまでの人生で見たどんな芸術品よりも美しく、守るべき価値のあるものだった。
私は彼女を守り抜いた。レイという害虫を排除し、彼女が気づかない裏側から糸を引いて、彼女の尊厳を守った。
本来なら、私は勝利の美酒に酔いしれ、ライラの寝顔を確認して眠りにつくべきだ。
だが、ズボンのポケットで震えた無機質な振動が、その安らぎを粉々に砕いた。
カチャリ。
カップをサイドテーブルに置き、私はスマートフォンを取り出した。ダークモードの画面が、不吉な光を放っている。
通知画面には、登録されていない番号。
国番号は『+33』。フランスだ。
心臓が一度だけ大きく跳ね、そして重く沈んだ。
そのメッセージを開くのは十回目だったが、書かれている内容は変わらなかった。残酷なほど簡潔なアルファベットの羅列が、網膜に焼き付いて離れない。
『Unknown:娘を返して』
挨拶も、前置きもない。ただ、一方的な要求だけがそこにあった。七年もの間、音信不通だった人間が送る言葉ではない。
差出人が誰なのか、問うまでもない。
カミーユ。
その名前が脳裏をよぎった瞬間、古い傷口をナイフで抉られたような痛みが走った。
記憶の底から、あの女の顔が浮かび上がる。透き通るようなブロンドの髪、そしてライラに受け継がれた薄灰色の瞳。かつて私が愚かにも愛し、そして私を捨てた女。
パリの狭いアパートで、彼女は冷ややかな目で私を見下ろしていた。当時の私は、ただの貧しい留学生を装っていたからだ。
『貧乏な生活なんて無理よ、ディオ。あなたはいい人だけど、愛じゃエルメスのバッグは買えないもの』
そう言い捨てて、彼女は出て行った。ベビーベッドで眠る、まだ赤ん坊だったライラを一顧だにせず。
彼女が選んだのは私ではなく、オーヴァン・グローバルのオーナー、ティエリ・ドラクロワだった。ライラの生物学上の父親であり、巨万の富を持つ男。彼女は自分の腹を痛めて産んだ娘よりも、ダイヤモンドの輝きを選んだのだ。
それなのに、今更? 七年も経ってから?
「……ふざけるな」
夜風に向かって吐き捨てた言葉は、低く唸るような響きを帯びていた。握りしめた拳の中で、関節が白く浮き上がる。
なぜ今なんだ。私がエララという新しい光を見つけ、ライラが母親のいない寂しさを乗り越えようとしている、このタイミングで。
私は殺意を込めて画面を睨みつけた。
ただの脅しか?
カミーユは計算高い女だ。金に困っているのかもしれない。あるいはティエリとの結婚生活が破綻し、感情の掃き溜めとしてかつての「玩具」を思い出して連絡してきたのか。私がインドネシアに戻り、本来の地位を取り戻したことを嗅ぎつけた可能性もある。
「渡すものか」
私は自分自身に言い聞かせるように呟いた。
かつて彼女がサインした書類の内容を、私は一言一句覚えている。親権の完全放棄。彼女は手切れ金と引き換えに、ライラを私に「売った」のだ。当時の私が持っていた全財産、アトマンタ家の資産に手を付ける前の、血と汗の結晶だった金を。
法的に彼女が付け入る隙はない。
「ただの戯言だ」
私は削除ボタンを親指で強く押し込んだ。
メッセージが消え、画面は何事もなかったかのように静寂を取り戻す。
だが、胸のざわめきは消えなかった。ビジネスという戦場で私を生かし続けてきた野生の勘が、警鐘を鳴らし続けている。
今回は何かが違う。かつての彼女は金を求めた。だが今回は、「娘」を求めている。
私は踵を返し、バルコニーとリビングを隔てるガラス戸を見つめた。その向こうにはライラの部屋がある。私の小さな天使は今頃、ポニーの夢を見ているか、あるいはエララに教わった算数の問題を夢の中で解いているかもしれない。
あの中に、私の世界の全てがある。ライラと、エララ。
アトマンタの名にかけて誓う。私の世界に触れようとする者は、誰であろうと容赦はしない。たとえそれが、古傷を抉り、再び血を流すことになったとしても。
私は部屋の中へと足を踏み入れ、バルコニーの鍵をかけた。
ガチャンッ
重たい金属音が響く。
今夜のジャカルタは静かだ。だが、それは嵐の前の静けさに過ぎない。このガラス一枚隔てた外側で、金だけでは解決できない新たな嵐が、既に牙を剥いていることを私は知っている。
第 49 章をお読みいただき、ありがとうございます。
物語も佳境に入り、緊張感が増してきたかと思います。
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