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第48章 氷解の音色

挿絵(By みてみん)


 パタ、パタ、パタ。


 小さな足音が、冷え切ったブラウィジャヤ邸の静寂を小気味よく叩き割っていく。


 普段であれば、この家の空気は張り詰めた弦のように鋭く、息をするのさえ躊躇われるほど重苦しい。磨き上げられた大理石の床は、歩く者の影を冷ややかに映し出すだけの鏡だった。しかし今夜、その鏡の上を、熊のイラストが描かれた靴下が無邪気に駆けていく。


「おばあちゃん! 見て、ボール!」


 姉のアルナの息子、四歳になるプトラの甲高い笑い声が、高い天井に反響した。


 私は革張りのソファに深く身を沈め、手の中にあるカモミールティーの湯気を見つめた。立ち上る白い筋が、不規則に揺れては消えていく。乾燥した花弁の穏やかな香りが鼻腔をくすぐり、夕方から鋼鉄のように強張っていた首筋の緊張を、指先で解きほぐすように和らげてくれた。


 室温はいつも通り低いはずなのに、不思議と肌寒さは感じない。それは空調のせいではなく、この空間を支配していた絶対的な「拒絶」の空気が、溶け始めているからだろうか。


 プトラが、母の膝元で急停止した。


 私は息を止める。


 かつての母、インディラ・ドウィジャヤなら、即座に眉間に皺を寄せただろう。「汚い手で触らないで」と、その冷徹な声で孫を遠ざけたはずだ。彼女にとって、子供とは騒音と汚れの塊であり、完璧な装いを乱す異物に過ぎなかった。ましてや、勘当同然で家を出た姉の子供など、視界に入れる価値すらなかったはずだ。


 だが、今の母は違った。


 高級バッグを握りしめることだけに執着してきたその手が、震えながら彷徨うように伸び、プトラのふっくらとした頬に触れた。


 その動きはあまりに慎重で、まるで触れた瞬間に崩れ去ってしまう砂細工を扱うかのようだった。


「……そう。プトラ、上手ね」


 母の喉から漏れたのは、聞いたこともないほど掠れた、弱々しい声だった。


 分厚いファンデーションで塗り固められた頬を、一筋の雫が音もなく伝い落ちる。


 母が、泣いている。


 ヒステリックな金切り声も、悲劇のヒロインを演じるような大袈裟な嘆きもない。ただ、決壊したダムの後に訪れる静寂のような、静かな涙だった。これまで頑なに拒絶し、見ないふりをしてきた「家族」という体温が、彼女の冷たい仮面を内側から溶かしてしまったのだ。


 父は一人掛けのソファに深く腰掛け、その光景をただ呆然と見つめていた。言葉は発しない。けれど、膝の上で握りしめられたハンカチが、白くなるほど強く指に食い込んでいるのが見えた。父の最後の砦もまた、音を立てて崩れ落ちていた。


 壁に掛けられた古時計が、重々しい音で八時半を告げる。


 私たちは、リビングの中央にあるローテーブルを囲むようにして座り直した。姉のアルナがティーカップをソーサーに戻す。カチャリ、という陶器の音が、妙に大きく響いた。


 姉の隣には、義兄のナタンさんが座っている。彼は何も言わず、ただ姉の腰に手を回し、その体温で彼女を支え続けていた。その無言の「支柱」としての在り方が、今の姉にどれほどの勇気を与えているか、私には痛いほどよく分かった。


 姉が深く息を吸い込む。その瞳が、父と母を真っ直ぐに射抜いた。


「お父さん、お母さん。……実は今日、無理を言ってここに来た理由は、もう一つあるの」


 空気が一瞬にして凍りつく。


 私の隣で、ディオがわずかに身じろぎした。彼の表情は彫像のように動かないが、その纏う気配がカミソリのように鋭くなったのを肌で感じる。彼はいつだって、不測の事態に備えている。


 姉は母の手を取り、自身の腹部へと導いた。ゆったりとしたワンピースの下にある、まだ平らなその場所へ。


「プトラは、もうすぐ一人じゃなくなるわ」


 母の目が大きく見開かれる。


「二人目ができたの。いま、八週目に入ったところ」


 ボーン、ボーン。時計の音が、遠い世界のことのように聞こえた。


 最初に崩れたのは父だった。彼は両手で顔を覆い、肩を激しく震わせた。嗚咽が指の隙間から漏れ出し、抑えようとしても抑えきれない感情が溢れ出す。


「ああ……」


 母は、もう言葉にならなかった。ただ姉を抱き寄せ、その背中に顔を埋めた。かつて「恥さらし」と罵り、家から追い出した娘を、今は命綱のように強く抱きしめている。


「よかった……本当によかった……」


 母の震える背中を見ながら、私は胸の奥が熱くなるのを感じた。


 ブラウィジャヤ邸という名の、見栄と虚飾で塗り固められた氷の城。そこでこんな奇跡が起きるなんて、誰が想像できただろうか。新しい命の知らせが、腐り落ちていた家族の絆を、見えない糸で縫い合わせようとしている。


 嵐のような感情の奔流が過ぎ去ると、リビングには不思議な穏やかさが満ちた。


 母は涙を拭うと、まるで憑き物が落ちたように饒舌になった。ビタミンの摂取量、かかりつけの産婦人科の評判、ベビー服のブランド。かつては興味すら示さなかった些細な話題を、貪るように姉に問いかける。


 そして、ふと会話が途切れた瞬間、母の視線が私の隣に向けられた。


「ディオさん」


 その呼びかけには、以前のような値踏みするような響きも、見下すような冷たさもなかった。ただ、不器用なほど真摯な響きだけがあった。


「あなたのお子さん……ライラちゃん、でしたっけ」


 ディオが背筋を伸ばし、静かに頷く。


「はい。ライラです」


「今度……ここに連れていらっしゃい」


 母はナプキンの端を指で弄りながら、視線を少しだけ逸らした。自分の口から出た言葉に、自分自身が戸惑っているようだった。


「プトラも遊び相手がいれば喜ぶでしょうし。それに、私……その、会ってみたいの」


 私は息を呑んだ。


 母が、ライラを?


 血の繋がりのない、ディオの連れ子を。かつての母なら「どこの馬の骨とも知れない子供」と一蹴したであろう存在を、このブラウィジャヤ邸に招き入れようとしている。それは単なる許可ではない。私たちが積み上げてきた関係を、そしてディオという人間を、家族として受け入れるという完全な降伏宣言だった。


「ありがとうございます」


 ディオの声は、低く、落ち着いていた。


「ライラもきっと喜びます。彼女は賑やかな場所が好きですから」


 テーブルの下で、大きく温かい手が私の手を探り当てた。


 ディオの手だ。


 彼の指が私の指に絡まり、強く、痛いほどに握りしめる。その掌の熱が、皮膚を通して私の心臓へと直接流れ込んでくるようだった。「大丈夫だ」と、彼は無言で語りかけていた。「俺たちは間違っていなかった」と。


 私は母を見た。そこにいるのは、社交界の女王でも、冷徹な支配者でもない。ただの、少し疲れた、しかしどこか安らかな顔をした一人の初老の女性だった。


「嵐は、本当に過ぎ去ったみたいね」


 姉の囁き声に、私はハッとして顔を上げた。


 私たちはビュッフェ形式の軽食が並ぶサイドテーブルに立っていた。姉がクエ・ラピス(層になった伝統菓子)を皿に取りながら、柔らかく微笑んでいる。


「あそこを見て」


 姉が顎でしゃくった先には、信じられない光景があった。


 父がプトラを膝に乗せ、普段なら指紋一つつけることさえ許さないアンティークの腕時計を見せている。ナタンさんとディオは何かビジネスの話をしているらしく、時折真剣な表情で頷き合っていた。そして母は、その会話に加わりながら、ディオのカフェのメニューについて質問している。


 まるで、どこにでもある普通の家族の団欒。


 あまりに現実味がなくて、夢を見ているような気分だった。


「うん、お姉ちゃん……」


 私の声は震えていた。


「やっと、息ができる気がする」


 家を飛び出したこと。狭いアパートで爪に火を灯すような生活をしたこと。そして、ディオを信じ抜いたこと。そのすべての選択が、この瞬間のためにあったのだと思えた。私が求めていた「自由」とは、ただ逃げることではなく、壊れたものを自分の手で修復し、胸を張って帰ってくることだったのかもしれない。


「よし、みんな! 写真を撮ろう!」


 ナタンさんが明るい声を上げ、スマートフォンを即席の三脚にセットした。


 私たちはソファの周りに集まった。中央に父と母、そしてプトラ。右側に姉とナタンさん。左側に私とディオ。


「はい、チーズ!」


 カシャッ。


 フラッシュの白い光が、網膜に焼き付く。


 その一瞬、世界は完璧だった。長年バラバラに砕け散っていたパズルのピースが、奇跡的に噛み合った瞬間。写真の中の私は、きっと心からの笑顔を浮かべているはずだ。作り笑いではない、本当の笑顔を。


 撮影の興奮が冷め、再びソファで寛いでいた時だった。


 ブー、ブー、ブー。


 ディオのズボンのポケットから、低い振動音が漏れた。


 彼は何気ない動作でスマートフォンを取り出した。最初は、単なる業務連絡を確認するような無表情だった。


 しかし、画面に表示された文字列を目にした瞬間、彼の瞳から温度が消えた。


 ほんの一瞬の出来事だった。


 彼の顎が硬く強張り、柔和だった目尻が鋭く吊り上がる。それは、カフェのオーナーとしてのディオではなく、私の知らない「捕食者」としての顔だった。


 彼は画面を凝視したまま、微動だにしない。


「どうしたの?」


 私が顔を覗き込むと、ディオは弾かれたように画面を消し、素早くポケットにねじ込んだ。


「いや」


 彼が私に向けた笑顔は、完璧すぎた。目だけが笑っていない、精巧な仮面のような笑顔。


「店の方で少しトラブルがあっただけだ。大したことじゃない」


 嘘だ。


 コーヒー豆の在庫切れやシフトの調整で、あんな顔をするはずがない。


 平和な水面に、一滴の黒いインクを落としたような違和感。私の背筋に、冷たいものが走った。


 夜も更け、お開きになった後、私はディオをカフェまで送ることになった。彼の車はまだセノパティの店に置いたままだ。


 車内は静まり返っていた。


 流れる街灯のオレンジ色の光が、ディオの横顔を照らしては消えていく。彼は窓の外をじっと見つめ、一言も発しない。いつもなら私の手を握ってくるはずの左手は、固く拳を握ったまま膝の上に置かれている。


「ディオ、本当に大丈夫?」


 赤信号で停車した際、私は堪りかねて尋ねた。


 彼はゆっくりとこちらを向き、深い溜息をついた後、表情を緩めた。


「ああ、エララ。心配しないでくれ。今夜は完璧すぎたから、少し気が抜けただけだよ」


 彼は手を伸ばし、私の頬を指の背で優しく撫でた。その仕草は愛おしさに満ちていたが、どこか私を安心させるための演技のようにも感じられた。


 十分後、カフェ・アークスの前に到着した。


 店は既に閉まっており、バーエリアの常夜灯の明かりが薄暗く漏れている。


 ディオはすぐには車を降りなかった。シートベルトを外すと、身を乗り出して私との距離を詰めた。


「エララ」


 名前を呼ばれた瞬間、彼の唇が私の唇を塞いだ。


 それは挨拶代わりの軽いキスではなかった。貪るような、それでいて何かを確認するような、切迫した熱を帯びたキス。ミントとコーヒー、そして彼特有のムスクの香りが私を包み込み、思考を奪っていく。


 唇が離れると、彼は額を私の額に押し付けた。


「明日の朝、また連絡する」


 その声は低く、約束というよりは、自分自身への誓いのようだった。


「おやすみ」


 彼は車を降りると、一度だけ手を振り、裏口の闇の中へと消えていった。


 私はハンドルを握りしめたまま、しばらく動けなかった。唇にはまだ彼の体温が残っている。けれど、胸の中に広がる黒い予感は消えない。


 あのメッセージは誰からだったのか。


 そして、去り際の彼の背中が、なぜあんなにも孤独に見えたのか。


 私は震える手でシフトレバーを動かし、アクセルを踏んだ。バックミラーの中で、カフェ・アークスの看板が遠ざかっていく。


 平和な夜は終わった。


 直感が、けたたましく警鐘を鳴らしていた。

第 48 章をお読みいただき、ありがとうございます。

長年凍りついていた家族の関係が、ようやく溶け始めた章でした。そんな矢先、ディオに新たな影が落ち…。

皆さんがどう感じたか、感想をコメント欄で聞かせてくれるととても嬉しいです。

もしこの物語を気に入っていただけたら、ブックマークや評価もしていただけると執筆の励みになります。

それでは、次章でお会いしましょう。

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