第29章 深淵の守護者
エンジンの停止と共に、ガレージは重苦しい静寂に包まれた。
ボンネットの奥で、熱を帯びた金属が収縮しながら微かな音を立てている。
キン、キン、キン……
俺はすぐには車を降りず、しばらくじっとしていた。
本革のシートに背を預け、ハンドルを握る手に力を込める。
センサーライトの鈍い光が、暗がりの隅をぼんやりと照らしていた。
密閉された車内には、目に見えない何かが漂っている。
それは物理的な衝撃以上に、俺の理性を激しく揺さぶった。
バニラの香りだ。
甘く、どこか幼さを残したその香りは、安っぽい洗剤の匂いと混ざり合っていた。
エララの香りだ。
助手席のシートに染み込み、空気に溶け出し、遠慮なく俺の肺の奥深くまで入り込んでくる。
俺は目を閉じ、深く息を吐き出した。
「……最悪だ」
独り言が、狭い車内に空虚に響く。
今日の午後、ライラとオレンジジュースをこぼして笑い合っていた彼女の声が耳の奥で蘇る。
手が触れ合った瞬間の、あの怯えたような、それでいて何かを期待するような眼差し。
心臓の鼓動が、プロ失格と言わざるを得ないほど早鐘を打っている。
馬鹿げている。俺はディオ・アトマンタだ。
数兆ルピアの資産を動かし、世界の金融市場に潜む鮫どもを相手にしてきた男だ。
オーバーサイズのフランネルシャツを着た、ただの小学校教師に動揺させられるはずがない。
俺は目を開け、ガレージの壁を無機質に見つめた。
「彼女はただの家庭教師だ。ライラのための、一時的な解決策に過ぎない」
自分に言い聞かせるように、低く呟く。
曖昧になりかけた境界線を、無理やり引き直すための言葉だった。
「愚かな真似はするな。同じ過ちを繰り返すな」
荒々しい動作でシートベルトを外し、車を降りた。
ドアを閉める音が、いつもより鋭く響く。
あのバニラの香りを車内に閉じ込め、家の中まで連れて行かないように。
バタン!
二階の廊下は静まり返っていた。
ライラの部屋の前を通り過ぎる際、足音を殺す。
少しだけ開いたドアの隙間から、ナイトランプの柔らかな光が漏れていた。
中を覗くと、娘はタオルケットを抱きしめて深い眠りについていた。
寝返りの仕方が俺にそっくりだ。
穏やかな寝息を聞いていると、強張っていた肩の力がわずかに抜ける。
すべては、この子のための計画だ。
エララがここにいるのも、ライラのため。
それ以上でも、それ以下でもない。
俺は自分の寝室へと向かった。
中に入り、内側から鍵をかける。
整然とした、冷徹なまでの男の空間。
ここでようやく、俺は「優しいシングルファザー」の仮面を脱ぎ捨て、本来の自分に戻ることができる。
クローゼットの横にあるチーク材のパネルの前に立った。
一見するとただのインテリアの一部だが、取っ手も鍵穴も存在しない。
俺はパネルの特定の位置をじっと見つめた。
ピッ
赤い光が網膜を瞬時にスキャンする。
カチッ、ウィーン。
油圧式のパネルが音もなく滑り出した。
オゾンとサーバーの排熱が混ざった無機質な空気が、寝室の温もりを塗り替える。
俺は一歩、その闇の中へと踏み込んだ。
「ザ・ノード(The Node)」。
ここは、この世界のあらゆる情報の終着点だ。
壁一面に敷き詰められた吸音材が、外部の音を完全に遮断している。
中央には、黒い強化ガラスで作られたミニマルなデスクが鎮座していた。
三枚の湾曲モニターが起動し、世界の金融市場の動きをリアルタイムで映し出す。
背後のパネルが閉じ、俺は外界から完全に隔離された。
エルゴノミクスチェアに深く身を沈める。
ここでは、ラテアートを描くカフェのオーナーではない。
食物連鎖の頂点から、生態系を観察する捕食者だ。
レーザーキーボードの上で指を走らせる。
モニターの青白い光が、俺の顔を冷酷に照らし出した。
本来なら、開場したばかりの欧州市場のポートフォリオをチェックすべきだった。
あるいは、レオンハートから届いているアフリカの鉱山買収に関する報告書を読むべきだ。
だが、指が止まった。
市場データを開く代わりに、俺の手はデスクに置いたスマートフォンを掴んでいた。
画面をスワイプし、ギャラリーを開く。
あの一枚の写真。
数日前、ライラが無理やり撮った不格好な自撮り写真だ。
俺たちの顔が狭い画面に押し込まれている。
俺とエララの頬に、ライラの小さな顔が挟まっていた。
写真の中のエララは、目を細めて三日月のような笑顔を浮かべていた。
そこには、偽ることのできない純粋な善意があった。
俺は彼女の顔を見つめた。
エララ・ドウィジャヤ。
崩壊寸前の家族を持つ娘。
無価値な資産として捨てられながらも、両親が持ち得ない「心の豊かさ」を持つ女。
胸の奥で、奇妙な疼きが走った。
危険な独占欲だ。
彼女をこの「ザ・ノード」の分厚い壁の向こうに隠してしまいたい。
誰にも傷つけられない場所へ。
残高不足に怯えることも、父親の脅しに震えることもない場所へ。
「……集中しろ、ディオ」
俺は自分を叱咤した。
画面を伏せ、その笑顔を視界から消す。
感情は、心の防壁に生じた綻びだ。
俺に、その亀裂は許されない。
メインモニターに視線を戻し、最近の俺のポートフォリオ以上に気にかかっている名前を打ち込んだ。
「ドウィジャヤ・トレーディング(DWIJAYA TRADING)」
データが次々と展開される。
鮮血のように赤い赤字のグラフ。
火の車となったキャッシュフロー。
そして、日増しに攻撃性を増す債権者のリスト。
最新の動きを読み取り、俺は目を細めた。
明確なパターンだ。
これは組織的な攻撃だ。
先月、ドウィジャヤの主要な仕入れ先が一斉に信用取引を停止している。
さらに、主要取引銀行がエララの個人資産を連帯保証として差し押さえようとしている。
本人の署名なしには違法なはずだが、内部に協力者がいれば容易なことだ。
そして、この糸を引いている黒幕は、一人の男に辿り着く。
ダルヴィアン・トレーディング。
レイ・ダルヴィアン。
俺は冷笑を浮かべた。
あの下劣な男は、あまりにも露骨で汚い遊びをしている。
競合他社を吸収するだけでなく、持ち主の精神を叩き折り、救世主の面をして現れるつもりだ。
条件は、娘を差し出すこと。
彼はエララを「担保」として扱っている。
ただの商品として。
奥歯を噛み締める音が、静かな部屋に響いた。
レイのような男は反吐が出る。
金で忠誠も愛も買えると思っている奴らだ。
それは、俺が貧乏人だと思い込んでライラを捨てたカミーユを思い出させた。
そして今、レイは同じことをエララにしようとしている。
「俺の目の届く場所で、そんな真似はさせない」
冷徹な声が漏れる。
脳が高速で回転し、正当な理由を探し出す。
エララを守ることは戦略的なステップだ。
もしレイに勝たせれば、彼は勢力を拡大し、俺のコモディティ市場における拡大計画の邪魔になる。
レイを叩き潰すことはビジネス上の優先事項だ。
エララは……たまたまその渦中にいるだけだ。
そうだ。それが論理的だ。
これはビジネスだ。感情ではない。
俺は暗号化コマンドを入力し、ニューヨークへの専用回線を開いた。
ピコン
モニターの右隅にメッセージが届く。
レオンハート・ヴェイルからだ。
「ヴェクター・ホールディングス、待機完了。銀行からのドウィジャヤ・トレーディングの債権買収書類は整っています。数時間以内に、我々が彼らの最大かつ唯一の債権者になることが可能です。閣下、射撃指示を」
俺は画面上で点滅するカーソルを見つめた。
俺が一つ命令を下せば、ドウィジャヤの借金はすべて俺のペーパーカンパニーであるヴェクター・ホールディングスの手に渡る。
俺はドウィジャヤ家にとっての新しい「神」になれる。
エララの資産差し押さえを、今この瞬間に止めることができる。
指先一つで、レイを盤上から排除することができるのだ。
指がエンターキーの上で止まった。
だが、今それをすれば、エララに気づかれる。
少なくとも、彼女は疑うだろう。
彼女は聡明な女だ。
あまりにも魔法のように問題が解決すれば、必ず裏を探る。
そして俺はまだ、正体を明かす準備ができていない。
それに……。
俺は伏せられたスマートフォンに目をやった。
あまりにも早くエララが安心を得てしまえば、彼女は自分の世界へ帰ってしまうかもしれない。
この家庭教師の仕事も、もう必要なくなる。
毎晩、ここへ来る理由がなくなるのだ。
俺の中の利己的な部分が、鎌首をもたげる。
彼女を繋ぎ止めておきたいという、暗い欲望。
「まだだ」
冷たいモニターに向かって、低く囁く。
「レイに、もう少しだけ勝っている気分を味わわせてやれ。調子に乗らせるんだ」
高く飛べば飛ぶほど、墜落した時の衝撃は大きい。
その瞬間が来た時、俺の隣でエララがその光景を見届けるように計らう。
俺はレオンハートに短い返信を打った。
「待機。差し押さえの予告通知が彼らの屋敷に届くのを待て。レイがどこまで踏み込んでくるか見極めたい」
「送信(SEND)」
モニターを消すと、部屋は再び暗闇に沈んだ。
サーバーのインジケーターランプだけが、闇の中で捕食者の目のように青く明滅している。
椅子に深くもたれかかり、闇に向かって体を回転させる。
まぶたの裏に浮かぶエララの笑顔は、今度は消そうとしても消えなかった。
「エララ、お前はもう大丈夫だ」
俺の声は吸音壁に吸い込まれ、誰に届くこともなく消えていった。
Thank you very much for reading to the end.
As this is written in a foreign language, there may be some unnatural expressions or word choice.
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