第27章 家族のような時間
二重生活を始めて、もう二週間が経った。
昼間は威厳ある小学校の教師、そして夜はカフェのオーナーの娘に勉強を教える家庭教師兼「遊び相手」。
不思議なことに、二階にある「基地」のチャイムを鳴らすたびに感じていたあの息が詰まるような緊張感は、いつの間にか消え去っていた。以前は自分が招かれざる侵入者のように思えていた。けれど今はどうだろう。まるで、もう一つの家に帰ってきたような感覚さえある。
私はライラの算数ドリルをパタンッと閉じ、満足げに一息ついた。
「はい、お姫様。今日のレッスンはこれでおしまい。それから、これを見て……」
机の上に置かれた小テストの紙を指差す。そこには赤いインクで大きく「90」と書かれ、私が貼った星のステッカーがキラキラと輝いていた。
ライラは歓声を上げ、両手を高く突き上げた。
「九十点! やったあ! ボボ、見て見て! 私、頭いいでしょ!」
彼女はクマのぬいぐるみ、ボボをひっつかむようにして抱きしめると、毛足の長いカーペットの上をごろごろと転がった。
私はその姿を見て、ソファに深く身を沈めながら微笑んだ。学校で一日中子供たちを相手にした疲れが、その無邪気な笑い声一つで綺麗に洗い流されていくのがわかる。
キッチンの方から、静かな足音が聞こえてきた。トレイを手にしたディオが現れる。ビ・ヤニではなく、ディオ自身だ。いつからだろう。夜の指導時間には、彼が自ら給仕をしてくれるのが、いつの間にか習慣になっていた。
「差し入れの時間だ」
ディオの声が響く。トレイの上には、よく冷えた、小さなフォークの刺さったメロンとスイカが並んでいた。
「パパ! 私の点数見て!」
ライラがすぐにテスト用紙を差し出す。
ディオはそれを受け取ると、大袈裟に目を見開いた。
「ほう……九十点? これ、本当にパパの娘が解いたのか? ボボじゃないのか?」
「もう、パパったら! ボボは計算なんてできないもん!」
ライラは唇を尖らせて抗議する。
ディオは低く楽しげに笑い、娘の頭をくしゃくしゃに撫でてから、私に視線を向けた。その穏やかな眼差しに見つめられると、いつも心臓の鼓動がわずかに速くなる。
「ありがとうございます、エララ先生。この二週間で、ライラの成長は目覚ましい」
「ライラちゃんが元々賢いからですよ、ディオさん。私は少し背中を押しただけです」
私は謙遜しながら、スイカを一口運んだ。冷たくて、驚くほど甘い。
室内には心地よい沈黙が流れた。ディオはソファに座る私のすぐ近く、カーペットの上に腰を下ろした。彼はライラが話すクラスメイトのとりとめのない話を、熱心に聞き入っている。
平和だ。あまりにも、平和すぎる。
ブーッ、ブーッ、ブーッ!
机の上に置いていた私のスマートフォンが、狂ったように激しく震え出した。画面には、威圧感のある太文字で発信者の名前が表示されている。
【サスキア ― 警戒レベル1】
嫌な予感がした。私は急いで端末を手に取る。
「もしもし、キア?」
『ラ! 降りてきて! 下の駐車場にいるから!』
スピーカーから漏れ出たサスキアの甲高い声に、ディオが面白そうに眉を上げた。私は慌てて音量を下げる。
「ちょっと、落ち着いてよ。迎えに来てくれたの?」
『当たり前でしょ! 赤いブリオが修理から戻ってきたのよ! でもね、緊急事態発生!』
「何? 何があったの?」
『お腹がグーグー鳴ってるの! 車の修理代でお財布が寂しいのよ。ねえ、イケメンボスに割引頼んでよ。なんならタダとか……へへっ』
私はこめかみを押さえた。やはり。サスキアにとって「緊急事態」とは、食欲と割引以外にありえない。
「サスキア、恥ずかしいからやめて……」
私は声を潜めて囁いた。
しかし、サスキアの声は拡声器並みだ。ディオは笑いを噛み殺すように小さく咳払いをした。
「彼女を中へ通して。ちょうど私もまだ夕食を済ませていないんだ。下で一緒に食べよう」
私は申し訳なさそうにディオを見つめた。
「あの、ディオさん……いいんですか? あの子、図に乗ると歯止めが効かなくなりますよ」
ディオは口角をわずかに上げ、Tシャツの皺を伸ばしながら立ち上がった。
「構わないさ。ライラの九十点のお祝いも兼ねてね。行こう」
• • •
一階のカフェ「アルクス」に降りると、平日の夜にしては賑わっていた。コーヒーの香りに、パスタやガーリックバターの芳醇な匂いが混じり合って空気を満たしている。
バーカウンターの近くで、サスキアがこれ見よがしに上品なポーズで立っていた。デニムのシャツにワイドパンツという出で立ちで、ショーケースのケーキを爛々と輝く目で見つめている。私たちに気づくと、彼女は派手に手を振った。
「こんばんは、ディオさん! ライラちゃん、こんばんは! それから、先生もお疲れ様!」
カウンターでグラスを拭いていた長髪のバリスタ、ディマスが茶化した。
「おや、サスキアさん。珍しくグラスが割れない程度の声量ですね」
「黙ってなさい、ディマス。今は淑女モードなんだから」
サスキアは即座に言い返し、再びディオに満面の笑みを向けた。
「ディオさん、家族団欒の時間を邪魔しちゃってごめんなさい。エララを迎えに来ただけなんですけど、このカフェの香りが私を呼んでる気がして……」
ディオはくすりと笑った。
「気にしないでください、サスキアさん。好きなものを注文してください。今夜は私のおごりです。愛車が修理から戻ったお祝いに」
サスキアの目が、アニメのキャラクターのようにキラキラと輝いた。
「本当ですか!? 好きなだけ頼んでいいんですか!?」
「サスキア!」
私は彼女の腕を軽くつねった。
「冗談よ、冗談。でも、本当にありがとうございます! ディオさん、マジで理想の男性です!」
「あそこの席にしよう」
ディオが指差したのは、少し奥まった場所にあるプライベート感のあるボックス席だった。
私たちはそこへ向かった。四人掛けのソファ席だ。
私は当然ライラの隣に座ろうとしたが、そこでサスキアが神業のような動きを見せた。
「ライラちゃんは、キアお姉ちゃんと一緒に座ろうね! スマホに新しい猫のゲームがあるんだよ、すっごく可愛いんだから!」
許可を待つこともなく、サスキアはライラの手を引いて右側のソファにどっしりと腰を下ろした。完全にライラをガードし、隙間を与えない。
「ほら、ライラちゃん、こっち座って!」
「猫さん! 見たい見たい!」
ライラは目を輝かせて、素直に従った。
私はその場に立ち尽くした。右側は満席。
残っているのは、左側だけ。今まさにディオが座ろうとしている席だ。
私はサスキアを鋭く睨みつけた。彼女は片目をいたずらっぽく瞑り、知らぬ存ぜぬといった顔をしている。「恋のキューピッドのつもりよ」とでも言いたげな顔をしている。
「コホン」
背後でディオが控えめに咳払いをした。
「座ってください、エララ」
仕方なく、私は左側の席に滑り込んだ。壁際の奥まった位置だ。
次の瞬間、ディオが隣に座り、ソファがわずかに沈み込んだ。
距離が……あまりにも近い。
私の肩と、彼のがっしりとした肩が触れ合っている。先ほどの勉強部屋よりも、彼から漂う落ち着いた香りがはっきりと伝わってくる。
私は反射的に壁の方へ身を寄せ、距離を置こうとした。けれど、このボックス席は元々親密な距離感で作られているのだ。
「ねえ、なんでキアお姉ちゃんは『お姉ちゃん』なの?」
ライラがサスキアのスマホ画面を見ながら不意に尋ねた。
「エララ先生みたいに『先生』じゃないの?」
サスキアはニヤリと笑った。彼女は私をちらりと見てから、わざと声を張り上げた。
「それはねえ……もうすぐ先生が、パパの義理の――」
ドカッ!
「痛いっ!」
テーブルの下で私が彼女の脛を蹴り上げると、サスキアは悲鳴を上げた。
「エララ、痛いってば!」
私は「それ以上言ったら承知しないわよ」と言わんばかりに彼女を睨んだ。
「義理の何、キア? 町内会長の親戚にでもなるつもり?」
サスキアは足をさすりながら、ケラケラと笑った。
「あはは、冗談よ。私はエララの親友だから、親しみを込めてお姉ちゃんって呼んでねってこと。学校では先生だけどね。いい?」
「ふぅん……」
ライラは純粋に頷いた。
「わかった、お姉ちゃん!」
顔が熱い。私はメニュー表に視線を落とし、忙しなく文字を追うふりをした。ディオがサスキアの冗談に不快感を抱いていないか、心臓がバクバクと音を立てている。
しかし、隣を盗み見ると、ディオは手で顔の下半分を覆っていた。肩が微かに震えている。……笑っているのだろうか?
彼の耳が、心なしか赤くなっているように見えた。
「何にしますか、エララ?」
不意にディオが尋ねた。そのバリトンボイスが、すぐ耳元で響く。
私はびくりと肩を揺らした。
「え? あ……ナシゴレン・カンプンで。飲み物はミネラルウォーターを」
「おごりなんだから、もっと高いの頼みなさいよ。ミネラルウォーターって何よ」
向かい側からサスキアが煽ってくる。
「私はアルクス・プラッターの一番大きいのと、テンダーロインステーキのミディアムレア! 飲み物はヘーゼルナッツ・フラッペ!」
私は目を見開いた。
「サスキア、それ高すぎるわよ!」
釘を刺すつもりで、もう一度テーブルの下でサスキアの足を蹴った。
ボフッ
今度は「ドカッ」という骨の当たる音ではなかった。もっと重厚で、筋肉質な何かに当たった感覚。
ディオの足だ。
私は凍りついた。
ディオが私を振り返る。表情は冷静だが、その瞳には悪戯っぽい光が宿っていた。
「ごめんなさい……」
私はパニックになりながら、蚊の鳴くような声で謝った。顔は間違いなく茹で上がったタコのように赤い。
「狙いが外れてしまいました」
ディオは足を引こうとしなかった。それどころか、ライラとサスキアに聞こえないように、わずかに私の方へ体を傾けて囁いた。
「構わない。彼女の好きなものを注文させてあげなさい、エララ。遠慮はいらない。これは投資だと思ってくれていい」
彼の低い声、肌をかすめる温かな吐息、そして心を落ち着かせるミントの香り。それらが一気に押し寄せ、全身が粟立つような感覚に襲われた。
投資? どういう意味だろう。
「あらら。二人だけの世界に入っちゃって。私たちは蚊帳の外かしら?」
サスキアがこれ見よがしに茶化した。
私とディオは弾かれたように背筋を伸ばし、正しい姿勢に戻った。
「そんなんじゃないわよ」
私は慌てて否定した。
「メニューの相談をしてただけ」
• • •
料理が運ばれてきた。テーブルの上は、サスキアが欲望のままに注文した大皿で埋め尽くされている。
私たちは食事を始めた。ライラとサスキアの波長が意外にも合っているおかげで、空気は和やかだった。二人は「リトルポニー」のアニメについて、まるで国会答弁のような真剣さで語り合っている。
無意識のうちに、私の手が動いた。
ライラの皿を見ると、ナシゴレンに入っている鶏肉が少し大きすぎた。私は自然にナイフとフォークを手に取り、彼女の皿をそっと引き寄せて、一口サイズに切り分けた。
それからティッシュを一枚取り、彼女の口角についたソースを優しく拭う。
「ゆっくり食べなさいね。喉につかえるわよ」
私が微笑みかけると、ライラはニカッと笑った。
「ありがとう、先生!」
汚れたティッシュを置いた時、ふと周囲が静まり返っていることに気づいた。
サスキアは口にステーキを詰め込んだまま、フォークを宙に浮かせて私を見つめている。隣のディオも、咀嚼を止めていた。彼の眼差しは、今まで見たことがないほど柔らかく、そして深い。
ディオは何も言わず、ピッチャーを手に取って、半分空になっていた私のグラスに水を注いだ。
「すご……」
サスキアが肉を飲み込み、溜息混じりに呟いた。
「幸せな家族の食事風景に、お邪魔虫になった気分だわ。夫婦そのものね、奥様」
「ゴホッ!」
私はナシゴレンを喉に詰まらせた。
ディオが手際よく、注ぎたての水のグラスを差し出した。そして左手で、私の背中を優しくトントンと叩く。
「お姉ちゃん、蚊はお肉食べないよ?」
ライラが不思議そうに尋ね、緊張を和らげた。
「蚊は血を吸うんでしょ?」
サスキアは大笑いした。
「最近の蚊は進化したのよ、ライラちゃん。現実を生き抜くためにステーキを食べて体力をつけるの」
私は水を一気に飲み干し、火照った顔を冷やそうとした。ディオは背中から手を離したが、触れられていた場所にはまだ彼の温もりが残っている。
笑い声を上げるサスキアとライラの傍らで、ディオが再び私の方へ身を寄せた。
「エララ」
低い声で呼ばれる。
「はい?」
私は勇気を出して、彼の瞳を見つめた。
ディオの表情が、わずかに真剣なものに変わった。カフェの騒音が、私たちの周りだけ遠のいていくような錯覚に陥る。
「今日、学校で……何かあったか?」
彼は慎重に言葉を選んだ。
「ライラを迎えに行った時、職員室に妙な花が届いているのが見えたんだ」
私は言葉を失った。彼は見ていたのだ。レイから届いた、あの忌まわしい弔花の嫌がらせを。
話したかった。この恐怖をすべて吐き出したかった。けれど、今ではない。笑っているライラやサスキアの前ですることではない。
「大丈夫です」
私は無理に笑顔を作って嘘をついた。
「ただの……送り間違いですよ」
ディオはじっと私を見つめた。彼の鋭い洞察力が、私の嘘を見抜いているのは明らかだった。それでも、彼は追及しないことを選んだ。
彼はただ小さく頷き、約束を交わすようなトーンでこう言った。
「わかった。だが覚えておいてくれ。もし隠れる場所が必要なら、二階はいつでも使っていい。いつでも、だ」
その言葉に、胸の奥がじんわりと熱くなった。彼は再び、無条件の保護を申し出てくれたのだ。
「ありがとうございます、ディオさん」
私は心からの感謝を込めて囁いた。
• • •
夕食が終わり、サスキアのお腹も幸福感で満たされ、ライラも眠そうに欠伸を始めた。
私たちはカフェの駐車場に立っていた。セノパティの夜風が心地よく吹き抜ける。
「お気をつけて、サスキアさん。お立ち寄りいただきありがとうございました」
ディオが丁寧に挨拶をする。
「はーい、ボス! ごちそうさまでした! また来ますね!」
サスキアは元気よく赤いブリオに乗り込んだ。
私はライラの前に屈んだ。
「先生は帰るね。また明日、学校で」
「バイバイ、先生! 明日、星のステッカー忘れないでね!」
「約束するわ」
私は立ち上がり、ディオと向き合った。
「気をつけて、エララ」
彼は握手こそしなかったが、その眼差しが私の足を一瞬引き止めた。
「着いたら連絡を」
「ええ。あなたもゆっくり休んで」
私はサスキアの車に乗り込んだ。
ドアが閉まり、車がカフェの敷地を出ると同時に、サスキアが私の肩を小突いた。
「ほらね! 言った通りでしょ!」
「何がよ?」
「あんた、気づかなかったの? 食べてる間中、ディオさんの目はあんたに釘付けだったわよ。あんたが少し動くたびに、彼、片時も目を離さなかったんだから。あれは完全に『惚れてる男』の目よ、エララ! とっておきの宝物でも眺めるような目よ!」
「バカなこと言わないで。彼はただ礼儀正しいだけ」
「礼儀正しい男はドアを開けるだけよ! 水を注いだり、背中を叩いたり、あんな風に耳元で内緒話したりするのは……それは『イスラム法に則ったナンパ』って言うのよ!」
私は窓の外に顔を向け、流れていくジャカルタの街灯を見つめた。左肩にそっと手をやる。さっき、彼の肩が触れていた場所だ。
サスキアが正しいのかもしれない。あるいは、私が期待しすぎているだけなのかもしれない。
けれど、窓ガラスに映る自分の顔を見ると、どうしようもなく締まりのない笑みを浮かべていた。
幸せな家族、か。
その響きが、今は驚くほど愛おしく感じられた。
Thank you very much for reading to the end.
As this is written in a foreign language, there may be some unnatural expressions or word choice.
If you have any comments or advice on the writing style, I would be grateful if you could let me know in the comments section.
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