第153話 深海の竜宮城
カイト兄さんたちに研究室から追い出された俺は、大学のキャンパスを抜け、誰もいない海岸へとやってきていた。
「よし、シラユキ。頼むぞ」
『御意に。我が王よ』
俺の影からふわりと姿を現したシラユキは、そのままスゥッと空へ舞い上がり、彼女の本来の姿――巨大な『羽根の生えた白蛇』へと姿を変えた。
純白の美しい鱗と、光を反射して輝く翼。俺がそのしなやかな背中に跨ると、シラユキは音もなく大空へと飛翔した。
フレアの爆発的な推進力に比べれば速度は落ちるが、それでも十分すぎるスピードだ。
しばらく空を飛んで太平洋の上空に出ると、シラユキは高度を下げ、今度は巨大な白蛇の胴体を水面に這わせるようにして、海の上を滑るように突き進んでいった。
『王よ。ここから深海へと潜ります』
見渡す限りの水平線のど真ん中で、シラユキがふと速度を落とした。
「水の中に入るってことは、息ができないよな。精神体になって召喚空間から行った方がいいのか?」
『いいえ。王にはぜひ、生身で我らの世界を味わっていただきたいのです』
シラユキが少し首を傾げると、俺の体の周囲に、シャボン玉のような透明な『泡』の球体が形成された。
『この特製の泡は、水中の酸素を自動で取り込んで供給する仕組みになっております。数日は余裕で滞在できますので、海の中では、決してこの泡の中から出ないでくださいね』
「おお、すげえ。完全な水中シェルターってわけか。わかった」
俺が頷いたのを確認すると、シラユキは頭からザブンッ!と太平洋の海中へとダイブした。
海面から、浅瀬、そして深海へ。
空の移動とは全く違う景色が広がる。最初は太陽の光を反射するエメラルドグリーンの海と、色鮮やかな熱帯魚の群れ。やがて青はどんどん濃くなり、巨大なクジラのシルエットが悠然と横切っていく。
さらに潜ると、光は完全に届かなくなり、発光する深海魚たちが星空のように瞬く『暗黒の世界』へと突入した。
「……っ」
泡の中は息も吸えるし、水に濡れることもない。安全そのものだ。
しかし、視界のすべてを押し潰すような漆黒の海と、何万トンという『水圧』の気配に、俺の肺がキュッと本能的に締め付けられるような息苦しさを覚えた。これが、大自然の――海の底知れぬ恐怖。
『見えてまいりましたよ』
恐怖で身を固くしていた俺の視界が、不意に、真昼のように明るく照らされた。
暗闇の海底に、そこだけ光を放つ巨大な城郭が現れたのだ。
色とりどりの巨大なサンゴ、真珠の柱、そして透き通る結晶でできたその姿は、まさにおとぎ話で見た『竜宮城』そのものだった。
「うわぁ……すっげえ……!」
俺が目を輝かせていると、城の巨大な門の前に立っていた、半人半魚の逞しい『マーマン』の門番たちが、シラユキと俺を見るなりサッと道を開け、深く平伏した。
『この星は「水の惑星」と呼ばれるほど、水が豊富な世界です』
シラユキが誇らしげに語る。
『ゆえに、我ら水属性の精霊は独自の発展を遂げ、ヒューイたち風の精霊に次ぐ「一大勢力」となっております』
門をくぐり、竜宮城の内部へと足を踏み入れた瞬間。
俺を包んでいた泡がパチンと弾けた。
「おっ? 息ができる。水もないぞ?」
『ええ。この城全体が、巨大な結界で海水を弾き、地上と同じ環境を保っているのです』
そのまま、竜宮城の奥の広間へと案内されると、そこには水の精霊たちの『長』が待ち構えていた。
プレシオサウルスとウツボを足して、神々しい装飾を施したような、巨大で威厳ある『海竜』だ。
『おおっ! 王よ、よくぞお越しくださいました!』
海竜の長は、見た目の威厳とは裏腹に、めちゃくちゃ陽気な声で笑った。
『魔法の理屈などという難しい話は抜きにしましょう! さあ野郎ども、宴の始まりじゃあ! 食えや踊れ!』
長の号令と共に、竜宮城の広間は一瞬にして『どんちゃん騒ぎ』の宴会場と化した。
一大勢力というだけあって、集まっている精霊の個性はバラバラだ。巨大なシャチ型の精霊が「王! よく来たな! がっはっは!」と豪快に笑いながらヒレで俺の肩を叩き、頭上では無数のクラゲの精霊たちが、海中の音楽に合わせてフワフワと幻想的なダンスを踊っている。
そして、宴のメインイベント。
美しい人魚たちの艶やかな踊りが始まった。
……が。俺の視線は、彼女たちの『服装』に釘付けになってしまった。
「(な、なんだあれ……!)」
下半身は美しい魚だが、上半身は貝殻のビキニ、あるいは『豊かな長い髪の毛だけで胸を隠しているだけ』という、あまりにも過激なスタイルなのだ。動くたびに、見えそうで見えない。いや、たまに見えてる気がする。
年頃の男子である俺の煩悩は、一瞬で限界を突破した。
「(すげえ……深海すげえ……)」
顔を真っ赤にして、食い入るように人魚の踊りを凝視する俺。
すると、隣に控えていたシラユキが、ジト目で俺を見下ろした。
『……王はエッチですね。そんなに鼻の下を伸ばして』
「ち、ちげーよ! 俺は精霊王として、水棲精霊の生態系を真剣に観察をだな……」
『あとでフレアに怒られますよ。消し炭にされます』
「ごめんなさいもう見ません」
俺が慌てて視線を逸らすと、ちょうどタイミング良く、マーマンたちが巨大な氷の船に乗った『特上の舟盛り』を運んできた。
深海だからといって、奇怪な深海魚ばかりではない。大トロが輝くマグロ、脂がこれでもかと乗ったブリ、そして手のひらほどもある巨大なウニやアワビが山のように盛られている。
『さあさあ、王も一杯! もっと食え!』
シャチの精霊に運ばれてきた山のような舟盛りに、俺はゴクリと生唾を飲み込んだ。
「めちゃくちゃ美味そう! ……って、この尋常じゃない量、みんなで食べるんだよな? もうパスは通ってるし、パパッと再召喚して仮の肉体を創ろうか?」
『がっはっは! お気遣いなく! 我らは精神体のままで十分! これらはすべて、生身で来られた王への献上品よ!』
「えっ、これ全部俺への……?」
ドン引きする俺の隣で、コトッ、と小皿の鳴る音がした。
見れば、俺の魔力で『実体化(召喚)』しているシラユキが、当たり前のような顔をして器用に白蛇の姿で、特上のウニをパクパクとつまみ食いしているではないか。
「……(えぇ、もう食ってるし)」
『私は今、王の魔力によって物理的な肉体を得ておりますから。……モグモグ。海の幸、大変美味でございます』
「涼しい顔して食ってないで、本気で手伝ってくれ! 俺一人じゃ絶対に食いきれない!」
俺が抗議すると、シラユキはいたずらっぽく視線を逸らした。
「でもめちゃくちゃ美味そうだな! ん……待てよ。海の中に『醤油』なんてないよな?」
『ショウユ……とはなんでしょう? 』
「刺身に醤油がないなんて、日本人としてはあり得ないぜ。ふっふっふ、俺を誰だと思っている」
俺はニヤリと笑い、収納空間から一本の小瓶を取り出した。ドロリとした、黒褐色の液体だ。
『……王の空間には、なんでも入っているのですね。なぜそのような調味料まで?』
呆れるシラユキに、俺はドヤ顔で答えた。
「前に長崎の五島列島に行った時にさ! 魚をくれた漁師のおっちゃんから『刺身食うなら、絶対にこっちの醤油ば使わんば!』って言って、強引に持たされたんだよ!(笑)」
九州特有の、濃厚な甘口醤油。まさか太平洋の深海で役に立つ日が来るとは、あのおっちゃんも夢にも思うまい。
俺は小皿に甘口醤油を注ぎ、脂の乗ったブリの刺身を一切れ浸して、口の中へと放り込んだ。
「…………っ!!」
海で獲れたての極上の刺身に、九州の甘口醤油が完璧に絡み合う。
脳がとろけるほどの美味しさに、俺は両手で顔を覆い、本気で感動の涙を流した。
「う、うますぎる……! 最高だ……!」
理屈も魔法の修行もない、ただひたすらにチヤホヤされて美味しいものを食べるだけの空間。
踊る人魚たちと、笑うシャチ。五島列島の醤油と、深海の竜宮城。
俺は海の幸を無心で胃袋に詰め込みながら、心の中で固く決意した。
「(……ここ、居心地良すぎる。絶対に帰りたくない。数日はここに引きこもろう……!)」
兄さんたち研究チームの修羅場などすっかり忘れ去り、俺の最高にハッピーな深海バカンスは、こうして盛大に幕を開けたのだった。




