父親と鼠
━現在━
「鶴谷、英人……?」
僕は思わず聞き返していた。
なぜなら、その名は僕がずっと追い求めてきた名前だからだ。
目の前の老人もそれを察したようだ。
「ああ。お前の父親と言った方が分かりやすいだろう。お前によく似ているよ」
「父さんが…」
「お前の父親もあの作戦に参加していたんだ。少しひねくれていたが、あの時代にしては珍しく、現実を直視していた男だったよ」
「父は?父は、一体どうなったんですか?」
老人はそれに答えず、手で制した。
「それも、必ず話す。話には順序と言うものがあるからな」
━???━
ビルの中はさらに凄惨な様子だった。
何かを引きずったような赤色が床中にペイントされている。
手すりからは奇妙な赤い何かがぶら下がっていたが、それが何かを考えることなんてしようとしなかった。
俺は銃のグリップを引きちぎれんばかりに握り締める。
『散開する。作戦前のブリーフィング通りにやれ』
ヘッドセットを通して、班長の声が聞こえる。
大丈夫、大丈夫と自分に言い聞かせながら、一階の掃討に向かう。
このビルは、オフィスビルのようで、事務所だったと思われるスペースには、大量の机や椅子が置いてあった。
この手の場所は戦いづらい。
室内戦だから、当然銃の取り回しがしづらくなるし、安易に撃てば跳弾の危険がある。
そして、視界が遮られているため、這いずってきたゾンビに足を噛まれる可能性がある。
各々が、小銃を仕舞い、腰にぶら下げてあった鈍器を持つ。
この鈍器は自衛隊から支給されたものではないので、人によって物が違うが、俺が持ってきたのは大きいバールだった。
この部屋は綺麗なもので、血痕などはなかったし、死体が転がっていることも、歩いていることもなかった。
安堵して、次の階に行こうとしたとき、無線を通して悲鳴が聞こえた。
『うわっ! こいつ、離れろ! ぐっ、うわああああああ!』
銃の乱射音に続いて聞こえてくるのは、何かを噛み千切るような音。
食い破られたのは喉だろうか。
ひゅー、ひゅーと息が洩れたような音が続く。
その声が、隊長の物であることは、すぐにわかった。同時に、俺の鼓膜が破れそうになる。
簡単な話だ。
全員が恐怖心にかられて叫びだしたのだ。
精神的支柱だった隊長があっさりと死んだ今、彼らを恐怖から救うものはなにもない。
俺はヘッドセットを外し、仕舞った。
正直なところ、もう使うことはないような気がしていた。
まともな会話が出来るように回復しているときには、大方食われているだろうからだ。
もっとも、自分自身も足がすくんでいる。
なまじ無線を常に開けていたがために混乱が広がるのは皮肉だ。
俺は自分自身の顔面を思いっきり殴って、恐慌状態から回復し、改めて鈍器を構えた。
今自分が出来ることは、自分の身を守ることだ。
先程の叫び声で、付近のゾンビは人の存在を確認して、早く食事にありつこうと躍起になっているだろう。
俺は素早く辺りを見回し、出入り口付近からゾンビがやって来ていないことを確認すると、このビルから脱出するために、この部屋から出ようとした。
扉に差し掛かった途端に、人が飛び込んできたことで、俺の心臓は破裂寸前になった。
もし飛び込んでいたのがゾンビだったら、一瞬で噛み付かれていたに違いない。
しかし、部屋に入ってきたのは、ビルに入る前に俺に話しかけてきたあの男だった。
男は荒い呼吸を繰り返しながら、自分が今入ってきた扉の方を見つめている。
まるで俺には気付いていないようだ。
「おい、大丈夫か…?」
俺はそいつに声をかけたが、その時にあることに気がついた。
男は顔面から出血していた。
それも、何かに引っ掻かれたような痕だ。
感染するルートはたくさんあるが、引っ掻かれただけでも感染することがある。
俺は無意識の内に、男から距離をとる。
そこで、ようやく俺の事に気が付いたようで、こちらを向いた。
「おい、何で逃げるんだよ」
「お、お前は…」
「俺は大丈夫だって…。班長はまだ犠牲者を出してないんだよ…」
「でも、お前は感染してるんじゃないのか?」
「感染なんかしてない! 生きて帰るんだ、俺は絶対に生きて帰るんだ! こんなところで死なない、ゾンビになんかならない!」
狂ったように叫ぶと、こちらに向かって歩き始めた。
ぼとぼとと血が落下する。
よくみると、男の首から夥しい量の出血が確認できた。
丁度死角になっていたから分からなかったが、男はもうゾンビに噛み付かれた後だったのだ。
ゆらゆらと揺れながら、男は問う。
「なあ、生きれるよな? 俺は、大丈夫だよな?」
俺は無言で銃を構える。
音を出さないのが基本だが、狂人を相手に近接戦をして撲殺されては元も子もない。
それに、こいつが叫んだ時点で音を出さないもへったくれもない。
間も無くゾンビが押し寄せてくるだろう。
「答えてくれよ…。 今、俺は人間だよな?」
「ああ…。今は、な」
俺が出来ることは、男を人間のうちに死なせてやること、そして歩く死者とならないように、頭を潰してやることだ。
俺は引き金を引き、男の命を絶った。
そのまま、鈍器で頭を潰す。
男の頭が柘榴のように割れる。
血が飛び散る。
脳がはみ出る。
「くそっ…」
俺は手に付着した赤い何かを振り払って、歩き出す。
―過去―
俺は部下の面々を引き連れ、東側ゲートに向かっていた。
暫く案内役をしていた長田とはあそこで別れ、今は完全に俺の部隊のメンバーだけで歩いている。
東側ゲートは、その名の通り、県庁の東に位置している。
市街地から最も近く、ここに来るゾンビの数も他のゲートより多いらしい。
それ故に、昼夜を問わず銃声が鳴るために、自衛隊員内では『不静門』と呼ばれるらしい。
東側ゲートに付くと、東側ゲートの最高責任者と言う男が現れた。
「どうもどうも。ここの管理をしている、孤鼠粕男です」
男の顔は、一言で形容するなら━一言で形容しようとしなくても、この感想が出てくることは想像に難くない━鼠だった。
それも、声の甲高い、不健康な鼠。
逆三角形のような顔の形に、目の下の隈が印象的だ。
髭も、手入れをしているのかいないのか、泥鰌の様に横に伸びているところも鼠のようだ。
「いやぁ、これはこれは、英雄殿ではありませんか。英雄殿が東側ゲートにいらっしゃるとは、祝着至極」
……こいつにドレッシングを作らせたら、ゴマの風味が効いて最高だろう。
「御世辞はノーセンキューだ。俺たちが求めてるのは、何処で働くかの情報だけなんでね」
「では、どうぞこちらへ」
粕男が幾分かむっとした様子で――鼠が頬を膨らませている様子を想像して貰えばよくわかる――俺たちをゲートの上に案内した。
ゲートの上に上ってみると、基地の構造がもっとよくわかった。
「この基地には東西南北にゲートがありますが、それぞれでゲートの防御力に差があります」
「それは、どういう?」
「そうですね…。例えば、この基地の立地場所を見ていただくと、西側に山があるのがわかると思います。山は、ゾンビの侵入を防ぐ天然のバリケードになっていますから、分厚いゲートを作る必要がないのです」
「なるほど」
俺は改めて辺りを見渡し、あまり想像したくないことに気がついた。
「なあ、もしかしてとは思うが、東側が一番市街地に接してないか?」
「その通り、ご明察です」
「Shit!」
ちなみに、この場合のShitは畜生という意味ではなく、最大級の悪意を込めて、おまけに中指を立てたくなるほどの『クソったれ!』だった。
英人を見ると、ニヤッと少し悪戯っぽい笑みを浮かべた。
地獄の一丁目とはこういう事だったのか。
その俺の『Shit』の意味を悟ってか、粕男が慌てて付け加える。
「ご安心を。その分、ここのゲートは何処のゲートよりも堅牢になっていますし、隊員も選りすぐりですから」
「ああ、ゲートが『クソ』堅牢で『クソ』優秀な隊員が揃っていることを祈ってるよ」
「これは手厳しいですな」
粕男が嘆息して頭を掻く。
まるで、餌を取ってこれなかった鼠が仲間に叱責されたかのようだ。
「まあまあ、隊長。そう皮肉るなって。やっこさんも大変なんだ」
悟郎が助け船を出したことで、この話は一旦区切りがついた。