屠れメロス
メロスはちょっと殺意が湧いた。確定であいつ、あのムカつく有力者をぶっころしてやろうと思った。メロスには道徳がわからぬ。
メロスは本名、高橋メロスである。ムカつく奴は相対し次第、全員一人残らずみんなまとめて鏖にしてきた。
山賊も、ぼったくってきた商店の店主も、噛みついてきた羊も、先代の有力者も、みんな殺した。
でも大丈夫。いつもやばくなったら十里くらい離れた故郷に猛ダッシュで逃げ帰った。
おかげで周りからは「走るメロス」とか言われた。
ちなみに逃げた故郷は共謀を疑われて堪忍袋の緒が切れた有力者に村焼きにあってみなごろし。あいつも俺もあんまかわらん。
まぁいいよ。俺の本当の故郷じゃないし。本当の故郷はもっと遠いところさ。
ただ今回は許せぬ。俺の友達の芹云丁主を人質にとって俺を呼び出し、処刑しようとしている。俺が有力者、出井尾の妻をちょっと殺したくらいで。頭をボール、足をバットに見立てて遊んだくらいで。
俺はすぐさま出井尾の邸宅に行き、そこにいる庭師をとっちめた。
「特別に殺さないでやるから、出井尾がなぜ俺を殺そうとしているか答えろ」と言った。
そうすると庭師は低い声で僅かに答えた。
「貴方が出井尾さんの妻を殺したからでしょう…?」
「だからって俺を処刑するのか?驚いた。出井尾はご乱心か?」
庭師は顔を歪める。
「乱心はおめーだろ…」
それを聞いてメロスは激怒した。
「なんだと庭師ごときが、生かしておけぬ」
メロスは庭師からハサミをひったくり、庭師の口に詰め込む。ノドを刃が貫通してゴボゴボと血で溺れている庭師をあとに、本館へ向かう。予備のハサミを持って。
メロスは、サイコな男であった。
出井尾は俺を見るなりすぐに衛兵に命じて、俺を押さえさせた。そして懐どころか普通に手に持ってるハサミを取り上げて俺を怒鳴った。
「これで何をするつもりか、いや、これでわしを殺すつもりだったのだろう?」
「いやぁ、そんなつもりは全く。」
衛兵もちょっと引いてた。この期に及んでなにをぬけぬけとって顔してた。
「ただちょっと、おれを処刑?はちょっとね?やりすぎじゃない?冷静になりなよ、今の時代処刑って聞く?今は令和だよ。いくら俺が出井尾の妻を弄んで殺したからってさ。だから抗議でもしようって訳。」
俺は後ろで拘束されている指をクネクネさせながら言う。
「わしの妻を殺したお前がか?お前には妻を亡くしたわしの孤独がわからぬ。」
「言うな!」俺はちょっと分が悪くなってきたので大声でかき消した。
二人の間に気まずい空気が流れる。
「お前、まじで頭おかしいよ…」出井尾はすっかり呆れた声で言う。
分かった。と息を整える。
「お前の妻を蘇らせよう。それで俺を許してくれるか?」
「ばかな、そんな事どうやってできる。死んだ人間を生き返らせるなんてできない。」
「オリンポス山にある蓬莱の玉の枝を一振すれば可能さ。あいにく遺体は俺がコレクションとして保存してあるし。三日くれれば探してもってきてあげよう。もし俺が逃げたり、持ってきても生き返らなかったら捕らえている芹云を殺しちゃって構わないですから。」
「さらっとわしの妻を保存してるとか言った異常性にはもう触れまい。それはそうとして、どうせお前は逃げるのだろう?変な単語を並べて、煙に巻いて。お前の心は分かっておるぞ。いいさ、やってみろ。わしは憂さ晴らしで芹云とやらを酷い殺し方で殺すことにするさ。ちょっと遅れてくるがよいぞ。」
「なに、なに、なに、何何何をおっしゃる。」なんで俺の心がわかっている。メロスはびびった。
「そんなわけないじゃないですかぁ」
「はいはい、分かったからさっさといけ。」
俺は気まずさのあまり、芹云には会わずに邸宅を飛び出した。
俺はたしかに逃げるつもりだった。あの出井尾にあっかんべーして、芹云も見捨てて、どこか遠い、それこそ故郷にでも帰ってのんびり妹に養ってもらいながら暮らそうと思った。
だけれども、出井尾に見透かされて、そしてその上で逃された。無性にむかついた。
あいにく、オリンポス山も蓬莱の玉の枝も本当の話だ。芹云の弟子が言ってた。ちょっと遠いところにあるが。
俺は意思を固め、本当に取りに言って出井尾の妻を生き返らせてやろうとおもった。あいつを見返してやろうと思った
俺は通りがかったタクシーに乗り込み、「オリンポス山まで」と短く告げた。
タクシー運転手は草臥れた顔をして、分かりました、と言って、オリンポス山へ向けて車を走らせた。
「お客さん、なかなかどうして、あんな山に?」
「取りに行くものがある。あの邪智暴虐野郎から友を取り返す為にな!」ちょっとかっこつけて言った。
「まぁ何でもいいんですけどねぇ、オリンポス山には危険がいっぱいです。気をつけてくださいね。」
「何が危険なんだ?確か、高い山ではあるが、麓に樹海もなければ急斜面もない。ちゃっと目的のものを取ってくるだけだ。」
「貴方の言ってるオリンポス山って、どっちのオリンポス山のことですか?」
「むろん、蓬莱の玉の枝があるオリンポス山だが。」
「なら早くそう言ってくださいよぉ。やっぱり違うじゃないですかあ。」草臥れた声で言った。
運転手はぐるっとハンドルを七百二十度ひねり、急旋回、その回転でメロスは三半規管をやられてしまい、くるくると螺旋の渦に飲み込まれて、ぐるぐると意識も混濁してしまって、もうよく分からなくなってしまって、危険運転にムカついて殺そうと思ったところで、とうとう気を失ってしまった。
「お客さん、つきましたぜ」
鋭い声と車のエンジン音が止まった違和感で目覚めた。声をかけてきた運転手は、さっきまで運転していた運転手とは全くの別人になっていた。鋭い声とは反対に丸い顔面。
能面男バージョン2.3っぽい。頬は真紫。あんまり健康とは言えなさそう。
「ここは?」寝ぼけ眼で聞く。
「お客さんの要望通り、ここは筑波山のふもとだぜ。」
「おれ、オリンポス山って言ったはずだよね?」
「そういったじゃないか。だからここに連れてきたってワケよ。」
「まるでよく分からないな、殺すぞ。」
「まぁ落ち着けって。お前さん。筑波山の麓の森の中に大穴があって、その穴に飛び込めばオリンポス山に出るってワケよ。」ハキハキという。
「そうなのか…?」「なら向かうとするか…」
不承不承にタクシーを出ようとする。手持ちがあまりなかったので、なんやかんやと理由をつけて運賃をごまかそうとしたが、気がついたらタクシーはどこにもなく、俺は地べたに座り込んでいた。
タクシーは左右どこを見てもいない。ひょっとしたらこれは夢なんじゃないかとおもった。
試しに筑波山いっぱいに響くくらいの力で頬を思い切り殴ってみた。
ちゃんと痛い。
これは現実。でも寝ぼけてはいたみたいだった。
ちょっとふらふらした。
文字通り気を取り直して筑波山に乗り込んだ。
麓を探すこと2時間、木々の間をくぐり抜けた先にでかい穴を見つけた。大きな黒い口をあんぐりと開けて、底は見えなさそう。低温のずーんとした音がかすかに聞こえてくる。冷たいにおいがした。
タクシー運転手の話によるとこの穴に入ればいいらしいが、どうも信じられなかった。だからといって他に行くあてもないし思い切って飛び込むことにした。
意思を固めて踏み出す。
瞬間、穴の反対側には芹云がいた。
お前逃げられたのかと言おうとしたがその前におれはしゅるるるると穴の中に落ちていってしまった。
また気を失ってしまっていた。周りを見渡すが、思ったよりは暗くなかった。うすぐらいかんじ。落ちてきた穴を見上げるが、光が見えないほどだった。かなり深いところまで落ちてきたのだろう。這い上がって出ようかと思ったが、そもそもの目的は蓬莱の玉の枝だったことを思い出したがでも芹云が逃げれたのならその必要もないのかとも思ったが、もし幻だったなら助ける必要と思ったので玉の枝が必要だと思った。
丁度前方の横穴が奥につながっていそうなほど大きく、かすかに風が吹いていたので出口につながると信じて進むことにした。
手を壁につけて進んでいく。ごつごつとした岩で手を切らないように注意をはらいながら、それでもって足を滑らさないようにしっかりと岩をつかむ。
大穴の中はすこしジメジメとしていて、足元には一センチくらいの水たまりができている。
ピチャピチャしててムカムカしてきた。
そうだ。もし芹云が逃げれていたのなら俺が代わりに玉の枝を食って不老不死になって、ムカつく出井尾の野郎を無敵状態で殺しに行くのも面白いと思った。
だーってあの野郎ムカつくんだもん。俺をこんな地の底に送りやがって、ってか全然オリンポス「山」じゃないし。
ムカムカしながらてくてくしていった。ピチャピチャしながらぐんぐん進んでいくと、洞窟の壁の右側にはドアがあった。木製の。
さわってみるとすべすべしてた。匂いを嗅いでみると、ヒノキのにおいがした。
ドアノブは鉄。
まだまだ洞窟は奥まで続いていたが、ドアが気になってしまって仕方ながなかった。
ドアノブを握り、開けてみる。
どーじゃーどーん!
という体の芯を震わせる音が全身を包んだ。
鼓膜がビリリと震えてついにはビリビリに破けてしまった。
ドアの先をよく見ると、静謐そうなホールが広がっていて、その壇上ではミジンコたちがオーケストラをしていた。
「んん?」よくわからなかった。
ミジンコ達は手足を器用に使っていやそもそもどこからが手でどこからが足かも分からないが、楽器を演奏していた。
頭に生えてる触覚っぽいやつでヴァイオリンをひいていたり、ホルンを吹いていたりしている。
頭で棒っぽいのを持ってティンパニを叩き、リズムを刻んでいるミジンコもいた。
ドアを開けられたことに気がついたミジンコが、頭の手足で握っていた指揮棒をピタリと止めた。演奏も止まる。
そしてぴょこぴょこ尻ではねながらこっちに近づいてくる、
「 」何も言っていない。
「え?なんて?」
「 」
ミジンコは手足をわなわなさせている。
「 」
まるでわからなかった。あ、そうか、おれの鼓膜が破れているから聞こえないのか。納得してポケットに入れておいた予備の鼓膜をセットする。
「ごめんごめん、もう聞こえる」
「オーケストラの邪魔しないでよ」
指揮者ミジンコの後ろのミジンコたちも体を左右に振り、こっちに訴えてくる。
「悪かったよ、ドアがあって、気になって開けてみただけなんだ。」
「だとしても。ここは私たちが借りてるところだから。かってに開けてもらっても困るんだよね。コンテストに向けてみんな張り切ってるんだから。」
ほら出てって出てってと、手足で追い返される。
そして乱暴にドアを閉められてしまった…。
あっけにとられていたが、冷静になると鼓膜を破られているわけだ。ムカついてきた。
せめて鼓膜代を払ってもらおう。払わないならぶちっと潰してやる。
こちらもドアを乱暴に開ける。
そしたら中からは湯気が漂ってきた。前が見えないほどホヤホヤしている。ミジンコ達は何をやっているのだ。
そして水っぽい音。ウォーターオーケストラでもやろうとしているのか?それともミジンコ達の水分補給?わからない。
湯気はドアからどんどん逃げていき、やっと見えるようになってきた。
いつの間にか銭湯みたいなところにつながっていて、そこにはシャワーを浴びているネコとリスがいた。
ネコはリンスしているし、リスはシャンプーしてる。
二匹ともしっかり椅子に座って、リスはしっかりと両手でシャンプーを泡立たせて汚れを落としているし、ネコもしっかりと毛の一本一本にリンスを馴染ませてツヤを出そうと頑張っている。
ネコリンス、リスシャンプー。
「どういうことかな…?」おれは理解できずに立ち尽くすことしかできなかった。
状況が分からない。
ミジンコたちがどこへ行ったのかも、なぜ行儀よく二匹とも椅子に座っているのかも、なぜシャンプーとリンスをしているのかも、なぜ水嫌いのネコが水浴びしているのかも、なぜシャンプーとリンス中もシャワーを流しっぱなしにして水を無駄にしているのかも、
なぜネコシャンプー、リスリンスの方がゴロが良いのに逆になってしまっているのかも、
語呂と風呂って似てるなとかも、もうまったくもってわからない。
リスが頭を泡立たせながら歩いてくる。
「ねぇ、風呂中は開けないでほしいんだけども?」リスが喋った。喋れるのか。
確かにごもっともだけどおれは風呂中ってしらないし。
「あの、ねぇ、ミジンコたちはどこいったんだ?さっきまでここにいたはずなんだけど。でも一回締め出されて、また開けたら君たちがシャンプーとリンスしてて。」ちぐはぐになりながらもなんとか聞いてみた。
「あー」と、ネコもこっちにやって来てリンスしながら説明した。
「オリンポス山は初めて?」
「はい。」
「オリンポス山ではね、奇想天外、常識はずれ、自分が絶対ないだろうなって思ったことが起きるんだよ。だってほら、ドア開けたらシャワー中のネコとリスがいたって想像できたかい?」
「いいや、まったく。」なるほど?そういう意味では筋が通らないわりに筋は通っていると思った。
確かに想定はしていなかった。ネコリンス、リスシャンプー。
もしネコシャンプー、リスリンスならば語呂がよくて想定してしまっていたかもしれない。だからこその「逆」か。
「なるほど。」
「分かったのはいいんだけどさ?こっち、今風呂中。もうさっさとでてってくれるかな?説明もしてあげたじゃん?毛皮があるとはいえ、裸を見られるのはあまりいい気分じゃないからさ?」ネコはリンスしながら言った。
「じゃあ最後に一ついいかな?」
「なにさ」
「想定しないことが起きるって言っても、君たちは生物じゃないか。ってことは想定外に対応した生物が生れるってわけ?ええと、つまり、おれに想定が言って思わせる為だけにミジンコたちも君たちも出現してきたってこと?」
「あー」リスはシャンプーしながら考えている。
「その辺は僕たちもくわしくないんだ。ここに詳しいヤツならわかるかもね。」
「そうなんだ…」メロスはもしメロスがドアを開けたり閉めたりするたびに生物が自らの意思とは関係なく生まれたり消えたりしてしていたらとても気の毒だと思った。罪もない生き物を殺してしまったのかと思うと気が気じゃなかった。おれはいまままでたくさんの人間を殺してきたがそれとはなんだか心地が違う。罪悪感というものか?
「あ、最後にもう一ついいかな?」
「さっきもそういってたじゃん」
「ホントに最後。蓬莱の玉の枝って知ってる?」
「それはしらないなぁ」リスはシャンプーしながら言う。
「なるほどありがとう。お邪魔しました」
パタン、と扉を丁寧に閉めた。
どうしよう、おれはドアの前で考える。この不思議な扉を開け続けることで出てきた生き物に玉の枝のヒントをもらうか、それとも扉を無視して洞窟の先に進むか。しかしどうしても扉が気になる。次はどんな生き物がでてくるのだろうか。逃れられない魅力のようなものがこの扉にはある。
もう一度だけ開けてみようと思った。あいにく、まだ鼓膜のスペアはあった。爆音が来ても大丈夫。
ドアノブを捻る。
爆音、衝撃、湯気、何がきてもいいよう覚悟しておく。次はどんな奇怪な生き物がいて、どんな空間が広がっているのだろう。そしてそれはきっとおれには想像できないのだろう。
が、何も来ない。
そろりと扉の隙間から顔を覗かせる。
だだっ広い白い部屋。
その部屋の真ん中には二人の人間がいて囲碁を打っている。
「ンー?」おれはこう言うしかなかった。
その声を聞いて二人がこっちを見る。
あ。タクシー運転手の二人だ。くたびれた顔をしたおれを気絶させたやつと、目覚めた後にいつの間にか入れ替わっていた能面っぽい顔をした頬が真紫色の奴。
おじゃましますと小さく一礼してから部屋に入る。
「あのう、オリンポス山にある蓬莱の玉の枝を探してるんですけどなにか知ってることはありますかね…」おれはこの特殊な環境にすっかり辟易してしまっていて気弱になってた。
おれを気絶させた運転手に仕返しする気も起きない。
「アー。君はオリンポス山までのお客さんか。」能面の方が頬の色を藍色にして言った。
色変わるのかよ…
「無事に着けたようで、良かったですぅ。」
くたびれが、くたびれながら言った。
「玉の枝なら、たぶんこの洞窟の奥に行けばあると思うよ。まぁその奥にいる奴のものだから、交渉次第で譲ってもらえるんじゃないか?」能面は頬を青くして言った。丁寧に教えながら頬は青くなっていった。
ただ一つだけ疑問があった。
タクシー運転手が二人いるのは、まったくの想定外ではない、ということだ。
流石に真っ白な部屋や、囲碁を打っているのは想像つかなかったが、ミジンコオーケストラやネコリンス、リスシャンプーほど想定外じゃない。だってタクシー運転手二人にはあったことがある。想定できてしまう。
「あのー、答えてくれてありがたいんですけど、ここ、オリンポス山では想定外の事が起きるんですよね?」ここまで言って気が付いたが、オリンポス「山」なのに洞窟というのも確かに想定外だ。
「いかにも、その通りですよ。」今度はくたびれが頬を青色にして答えた。
お前も色を変えられるのか。目がチカチカした。
「でも二人と会うのは想定外と言うほどでもないですよね?いや確かに不思議ではあるんですけど、想定外を想定すれば想定内と言うか。想定できなくはないですよ。」
「うーむ」と能面は顎に手を当てて考えた。
「そうか、なるほど。そういうことか。」とくたびれの方が頬を真緑にして答える。
「もしかしたら、絶対ないだろう、と思ったからかも。だって想定できなくはないから。来ないと想定してそれが想定外だったんじゃないうですか?」
また頭がぐるぐるして三半規管がやられてしまいそうになるが何とか耐えた。
「ああ、つまりこういうことじゃないか」能面も頬を黄色にしながらいう。
「想定外が起きる、というのは想定していることは起きない、と言い換えられるわけで、それはつまり、想定をどこかしているから起きない、と思い込んでいることが起きる、と言うのは想定外ということだ。」
おれはもうよく分からなくなってしまって、ぐるぐる、いらいら、ムカムカ、ピチャピチャしていろんな気持ちがミキサーにかけられてそのまま口に流し込まれたような気持ちがした。
「しかしだ、これをお前が聞いてしまったからには想定外の幅がぐっと広がってしまったということだ。だからこれからはより想定外の事が起きるだろう。」
のうみそが熱くなってくすぐったかった。
例えばもしいま想定外にゾウが大量に降ってきたらどうしよう。でもそう憂いているうちは想定しているから起きないのか?でも起きないと思っていると起きてしまうのか?起きるか、起きないか、何が来るのか、それとも来ないのか、全くわからなくなってしまっている。今ならどんなことも起きる気がするし、何も起きない気もする。
「どんどんお前の中での想定は加速していく。すべては想定外だし、すべてが想定内。すべては起きるし、それと同時にすべては起きない。もう想定とかの域はとうにこえてしまっているのかもしれないな。混沌、カオス、渦巻き、くたびれ、ぐるぐる、オルタネイト、交錯、秒針、ぐるぐる、時間、早回し、空き缶はつぶれた、カランコンコ、カバ、飢え死に、電柱、キャンディ、なめこ、月桃、花、難しい、筆箱、濡れ、軟膏、生クリーム、文学、香水、ブラックボックス、A4、ヒカリ、ナキ、セカイ。」
能面の頬は夕日に染まったように橙色だった。気が付けばくたびれ顔の運転手はどこにもいない。いや、もともと一人だったのかもしれない。思い返してみれば二人いた記憶に自信がなかった。
何かマズいことが起きてるような気がして、おれは今すぐにオリンポス山を出るべきだと思った。
でも出ようとすると永遠に出れないような気もした。でも出れてしまうと蓬莱の玉の枝は手に入らない。
無我の境地とかいうやつになるしかないのかもしれない。が、到底無理そうだった。
とにかく、この部屋を出る。
「ありがとう、もうここを出ることにします。」とタクシー運転手に声をかける。
タクシー運転手はいつの間にか小太りのマネキン人形になってしまっていた。そしてその口をパかっと開き、
「インパルスって加速しがちですよね。」と滑るように言った。
「え?」
「インパルスって加速しがちですよね。」
「どういうことですか?」
「最後の色はおまえだよ。」
おれはまったくの想定外の返答に困惑してしまった。
ちなみにドアは、どこにでも行けそうなピンク色のドアになっている。
ドアを開けると、でかいモグラと目が合った。おれくらいある。鋭い爪を以って、ベレー帽を被ったモグラ。モグラが何かを被るとなったらなんとなくヘルメットのような気がしなくもないが、もう何が正しいのか分からない。
自分の中の常識はとうにゆさぶられていて、不安定だった。
「ちょっといいかな?」モグラに話しかける。目が合ったモグラに話しかけるのはおかしいことなのだろうか?
「なぁに?」モグラは爪二本でピースした。気さくなもぐらだった。
おれは今一度、深呼吸をして落ち着く。短い時間でいろいろなことが起きすぎている。
「蓬莱の玉の枝って知ってる?」
「知ってるにょ。ウチの家宝のことだろ?」はなをひくひくさせる。
「その、それって食べると不老不死になれたりするやつかな?」
「んーわかんないなぁ。でも、想定外の事が起きる枝だからね。不老不死になるかもしれないよね。でも逆に、不老不死以外のすべてになるかもね。」
ここでも想定か。うんざりしているが、でもまだここはオリンポス山なのだからそれもそうか。
「それが必要なんだけど、譲ってもらえたりするかな」だめもとで言った。
「いいよ。おいもさんくれたらね。」
「おいもさん。」無意識のうちに復唱していた。
「そう。でも、おいもさんでもね、むらさきいろのやつ。」
「ええと…」
さつまいものことだろうか。でもここに限ってそんなこともないような気がする。きっと名前も聞いたことのないような芋だろう。
不意にズボンが膨らんだ。ポケットの中に何かが発生したような感覚。
ポケットに手を突っ込んでみると、小さな玉ころが二つ入っていた。
まさか蓬莱か、と思って急いで取り出してみると、全然違かった。二十日大根が二つ、我が物顔で入ってた。
「なんだ、持ってるじゃん」モグラは目を輝かせた。
「え、これあげれば玉の枝くれるの?」
「もちろん。」
なんて幸運。棚からぼた餅ならぬ、ポケットから二十日大根からの玉の枝。
こんなに簡単に手に入るとは。まさかの想定外。「はい」と手渡す。モグラはしゃくり、と二十日大根を齧る。
そうえば、最初に鼓膜を破られた事以外、想定外による不利益がない。何が起きるか分からないとかいって怯えていたが、存外きにしなくていいのかもしれない。
「よし、案内するよ」モグラは地面を掘り始めた。
洞窟の固い岩も鋭い爪でマーガリンのようにサクサク掘り進めていく。
普通のモグラの大きさならおれは穴をくぐれないが、生憎でかいので、おれも後ろをついていくことができる。
「あの、」モグラが掘るのをやめた。
まさか二十日大根がたりないとかいいはじめるんじゃないだろうな?
もうポケッにはしかない。
「な、なんだ」
「ベレー帽もっててくれる?」
「な、何だそんなことか。」帽子を預かる。
「そ。」再びサクサク掘り進める。
物事もサクサク進む。想定外だとかは考えないようにした。
もうどれくらいたっただろうか。一向に着く様子がない。おれ腹が減ってしまっていた。体も堀った細かい砂や土でざらざらしている。
それに四つ這いでついていかなくちゃいけないから腕が疲れた。股から顔を覗かせて後ろを見てみるが、光なんて全く見えない程深くまできたようだ。
「あのー」
「あぁ。そろそろだよ。」
「そうか。」
ぼこっと目の前の土が崩れた。差の先にはちょっとした空間があった。
「教室?」
「そうさ。モグラの学び舎さ。」
「へぇ。地中にこんな場所があるなんて。」
「そりゃね?メダカの学校が川の中なら、モグラの学校は土の中ってこと。」
「メダカって何?」
「まぁそんなことよりさ、ベレー帽返して。」
メダカって何だろうって思いながら帽子を返す。
前の教卓には虹色に輝く気の枝が置いてあった。
「いかにもって感じのがおいてあるな。」
「あれはちがうよ。あれはゲーミング枝。」
「んん。」聞いたことがない。
「あれは囮だよ。いかにもって感じでしょ。」
モグラはてちてちと歩いて行って後ろの方の机の引き出しをあけた。
「はい、これ。」古びた小さな枝。五センチくらい。
「これが…?玉の枝?」
「うん。あげる。おいもさんくれたし。」
なんだかあまりにあっけなく手にはいってしまったのでおれは動揺した。
まさか、夢じゃあるまいな…?おれは疑った。夢オチは想定外だ。
おれは思いきり頬を殴る。全く痛くなかった。
モグラは不審な目で俺を見ている。
居たくない、恐ろしい。どこからが夢だ?わからない。分からないというのは、怖い。
どうか夢ではありませんように、とおれは頬を殴り続けた。何度も何発も。何千発も何万発も。
気が遠くなるほど殴ったのちに、意識まで遠くへ行ってしまっていた。
気を失う直前に、芹云が教壇に立っている姿が見えたような気がした。
目を覚ましたら、あの憎き出井尾の庭で寝ていた。
空は綺麗で、太陽はまぶしかった。
長く寝てしまっていたようで、べっとりと汗をかいていた。
「夢だったのか…」と小さな落胆をした。
南無三、と言う気はまるで起きなかった。
しばらく空を眺めていると、「こんなところでなにしてるんですか」と声をかけられた。
起き上がり見てみると、確かに俺が殺したはずの庭師がこちらを不思議そうに見ていた。
俺も同じく不思議そうに庭師を見る。口にハサミを詰め込み、その刃は確実にノドを貫いたはずだったが、庭師のノドには絆創膏が一枚貼ってあるだけだった。
「手に握っているのはなんですか?」
と言われて気が付く。おれの手には、蓬莱の玉の枝が握られていた。
夢ではなかったのだろうか?夢だったとしても途中から、または一部分だけだったのか?どうやって帰ってきたのかも記憶がない。
とにかく出井尾の元まで行かなくては。
三日どころか、何日たっているのかはわからない。
体はもう疲れ切っていた。
やっとの思いで出井尾の家の大広間の扉まで来た。
衛兵に声をかけて通してもらう。
「戻ったぞ…」折角の勇者の凱旋なのだから堂々としていたかった。
けどこっちはなんせへとへと。コンビニ帰りみたいな感じになってしまった。
「芹云は殺すな!このメロスが蓬莱の玉の枝を持ってきたぞ!」
気合を入れなおして扉を力強く開けて入場。
するとものすごい臭気がむわっとおれを包んだ。
「ヌハハハハハ!このわしが裏切るとはおもっていなかっただろう?」
そこには血塗れの芹云がうつ伏せで倒れていた。出井尾に殺されたのだ。
そして出井尾の上には空飛ぶギロチンの刃。しかも六枚。
メロスは激怒した。「何で殺した!」
出井尾は簡単そうに答える。
「お前はたくさんの人間を殺してきた。商人も、道行く人、も、わしの妻も。ならば、玉の枝を持ってきたフリをしてわしの事も殺すに決まっている。だからわしも、お前に殺されるまえに芹云を殺したのだ。どうせころされるなら、みんな道連れだ!」
ヌハハハハハ!ヌハハハ、ヌハハ…
「でも、」と、出井尾は笑いを止める。
「でも、それらは全て虚構、虚実だったのだ…」出井尾は涙を流す。
「おまえも、わしも、誰も殺してなどいなかったのだ。」膝から崩れる。
おれはまたもやわからなくなっていた。
おれは確かに出井尾の妻を殺した。庭師も殺した。その他大勢の人間、それにミジンコ、ネコリンス達も殺してしまったかもしれない。それに現に、出井尾も芹云を殺しただろう。
と思って死体を見るが、芹云の死体どころか、血も、何も、無い。
そもそも芹云などいたのだろうか。おれはよくよく思い返すと芹云の顔を一度も見たことがないような気がする。
「ほらな」出井尾は言った。
「でも、だって、おれはお前の妻を殺しただろ?」
出井尾はさらりと言う。
「あぁ。妻、妻ね。わしの頭がおかしくなって、居もしない妻を居ると思い込んでいたんだ。そして今居ないのはお前に殺されたからだと。そうでないと説明がつかないよ。まったく。想定外だろ?」六枚のギロチンの刃はくるくる加速していって、出井尾はそのまま飛んでいきそうだった。
「でも、え?想定外と言うのはオリンポス山での話ではないのか?」おれは動揺した。
「お前はオリンポス山でしか想定外が起きないと想定しただろう?つまり、そう想定している時点で、想定外となるのだ。もはや想定外というのは全世界で起きるし、すでにそれは想定内だ。つまりどうなると思う?」
「い、いや全く想像ができない。」
「お前にとっての想定外は誰かにとっての想定内。逆も然り。この世界はもう飽和してしまって、想定は次の次元へ行く。そうしたら、もうこの世界に想定様は興味がないのだ。」
「想定に自我があるのか?」
「想定外だろう?」出井尾は吐きそうな顔で続ける。
「もうこの世に生きているのはお前とわし、二人だけだ。それもすぐにいなくなる。わしもお前も、全生命、想定様に屠られる。想定外だっただろう!」
ぐるぐる回っていたギロチンの刃はすっぱりと出井尾の首を刎ね飛ばす。首からは鮮血が吹き出す。
と思ったらその次の瞬間にはもう出井尾の死体はどこにもない。
おれもすぐにそうなるのだろうなと知覚した。
刃が首にかかる。まるでマーガリンのように。
想定というどこまでも不明瞭な、ものに翻弄された愚者の顔は、血でひどく真赤に染まってしまっていた。




