1.いなくなった王太子
お読みくださりありがとうございます!
「出奔……!?」
マリアベルは理解ができなかった。
十二歳から始まった王妃教育。
毎日毎日、息の詰まるような講義と、針のむしろに座らされているかのような完璧なマナーの叩き込み。
学園の後はすぐに王宮へ。
放課後のおしゃべりも、カフェで流行りのスイーツをつつくことも、私にとってはおとぎ話の中の出来事だった。
けれど、私は未来の王妃。
王を支え、民を守る、立派な国母になるのだ、と。その一心で、すべてを我慢し、血の滲むような努力を続けてきた。
……それなのに。
「見つからないのですか?」
「はい……。国境近くまで捜索の手を広げていますが、今のところ手がかりもなく……」
「なにか事件に巻き込まれたのではなくって?」
「手紙が残されていました。こちら、マリアベル様に宛てたものです」
ーー
マリアベルへ
勝手なことをして、悪いと思っている。
だけど僕は王としての未来より、愛する人との慎ましやかな幸せを選ぶ。
婚約者として、長年僕を支えてくれてありがとう。
遠くから君の幸せを祈っているよ。
ライオネル
ーー
その字は間違いなく、我がレグナート王国の王太子、ライオネルのもので。
つまり彼が出奔したのは、彼の意思だということで。
――結婚式を三月後に控えたこの日。
私の婚約者である王太子殿下は、どこかの女と駆け落ちし、国と、王位と、そして私を捨てた。
「……ふ、ふふっ」
静まり返った部屋で、私の口から漏れたのは、悲鳴でも涙でもなく、乾いた笑い声だった。
出奔を知らせてきた、彼の乳兄弟であり側近でもあるアルベルトが、ぎょっとした目で私を見つめている。無理もない。婚約者に裏切られた令嬢が、壊れたように笑い出したのだから。
「マ、マリアベル様……? お気を確かに……」
彼は狼狽し顔を青くしているが、今の私に周囲を気遣っている余裕なんてなかった。
私の六年間は何だったの?
青春の全てを注ぎ込んだあの日々は?
そんな考えがぐるぐると頭をまわる。
特にこの二年ほどは寝る間を惜しむほどの忙しさだった。王太后様のお体の具合が芳しくないという理由で、王太后様が担っていた王太子妃の政務が、すでに私に回されていたからだ。
王妃教育と並行して王太子妃の政務をこなすことは、想像以上の激務で、ライオネルに会う時間はどんどん減っていった。
――だから、彼の心が離れてしまったのだろうか。
……いや、違う。元々私たちの間に、甘い恋愛感情なんて存在しなかった。
私たちを結びつけていたのは、同じ重責を背負い、共にこの国を支えていくのだという、強い絆だったはずだ。恋人というより、過酷な戦場で互いの背中を預けて歩む戦友として、私たちは未来を見据えていた。――そのはずだった。
けれど、どうやらそれは私の思い込みだったらしい。だって彼は逃げ出したのだ。たった一枚の手紙だけ残して。
(私はそんな人に背中を預けていたのね)
そう思うと、バカらしいやら情けないやらで笑うしかなかった。
確かにライオネルは、弱音を吐くことも多かった。けれど、どれだけ泣き言を言っても、途中で投げ出すことだけはしなかった。
だからきっと、時間はかかっても、いつか立派な王になる。そう信じていたのに。
だけどもしかすると――彼は、投げ出すことで周囲を失望させることを恐れていただけだったのかもしれない。
だから、『全て』捨てたのだ――。
「ふう」
私は一つ息を吐くと、すっと表情を消した。
「それで。殿下のお相手はどちらの方なのかしら?」
扇子で口元を隠しながら、冷ややかな視線だけでアルベルトを見据える。
「その……おそらく平民ではないかと……」
「は?」
「……殿下はここ一年ほど、お忍びで市井に視察に出ておられまして……」
「ふうん?」
私が短く促すと、アルベルトは額の汗を拭うことも忘れて、声を潜めた。
「そこで、パン屋で働く娘と懇意になられまして……。殿下曰く『身分に囚われず、自分をひとりの男として見てくれた。パンのように温かく、飾り気のない彼女の素朴さに癒される』と……」
「パン」
私の口から、本日何度目かの乾いた言葉がこぼれ落ちる。
「……アルベルト様はご存じでしたのね?」
「いえ……その……何度もお諌めしたのです! ですが殿下が『結婚するまでにはきちんと精算する。僕が唯一心を休められる時間を奪わないでくれ』と……。これほどの大事になるとは、私も予測できず……申し訳ありません!」
そう言うと、ばっと頭を下げた。
「結婚するまでには精算する、ね……」
私はその言葉を冷たく復唱し、机上にあるライオネルの手紙をじっと見つめた。
「そういえば、『視察が押して政務が間に合わない』と殿下に泣きつかれて、お手伝いしたことが何度かありましたけれど……まさかそれも?」
そっと頭を上げたライオネルは、答えることなく視線を逸らした。――それが何よりの答えだった。
扇子を握る指先に、自然と力がこもる。
忙しい中、彼のために身を削ったというのに、彼の言っていた『視察』はただの女遊びの口実だった。
他の女との逢瀬で遅れた政務の尻拭いをさせるだなんて、どこまで私を愚弄すれば気が済むのだろうか。
私はもう一度大きく息を吐くと、努めて落ち着いた声色で問いかけた。
「……それで。王家はどうされるおつもりかしら?」
「はい……ライオネル殿下は急病を患い離宮で療養となった、と発表するそうです。その後しばらく経ってから、回復の見込みが立たないという理由で、王太子を第二王子殿下に変更する、と」
そうでしょうね。王太子の出奔。この事実が公になれば、王家の威信は地に落ちる。
王家は是が非でも、この事実を公にはしないでしょう。
「……そう。では、私は私室の片付けに取り掛かりますわ」
王太子妃の政務を執り行うようになってから、私は王宮に私室を与えられていた。
けれど、もう婚約者でも未来の王太子妃でもなくなるのだ。与えられた部屋は、速やかに明け渡さなければならないだろう。
ところが――
「……それが……マリアベル様にはこのまま王宮に留まっていただきたいと……」
「なぜですの?」
首を傾げる私に、アルベルトは気まずそうに目を泳がせる。そして、意を決したように深く息を吸い込むと、声を絞り出した。
「マリアベル様には第二王子殿下の婚約者候補として、このまま王宮で政務を続けていただきたい、と言付かっております」
「は?」
パチン、と激しい音を立てて扇子を閉じる。
アルベルトの肩がびくりと跳ねた。
「第二王子殿下が、おいくつかご存じ?」
私は目を細め、扇子の先でアルベルトを差した。
「……十歳です」
「ええそうね。私はもう十八になりますの。八歳も年下の、これから国政を学ばれる段階の殿下をお支えしながら、何年『候補』のままで待てと仰るのかしら?」
あまりの虫の良さに、怒りを通り越して呆れが極まる。
「王家は、私を、ひいては我がグランフォード公爵家を、便利で都合の良い使い捨ての道具か何かと勘違いされているのかしら」
私が冷たく言い放つと、部室の空気が凍りついた。
「まさかそんなつもりは……」
「では八年後、第二王子殿下が成人されたとき、私は二十六歳ですわ。それで私が正妃に選ばれると、アルベルト様は本気で思われていますの?」
「……」
「――そして八年後、選ばれなかった私に、まともな縁談が舞い込んでくる可能性がありまして?」
アルベルトは口ごもると、またしても視線を逸らした。
「つまり王家は、私に女としての幸せを全て投げ打ってでも王家に尽くせ、と。そうおっしゃっているのね?」
私の静かな問いかけに、執務室には重苦しい沈黙だけが流れた。アルベルトの額から、たらりと冷たい汗が伝い落ちる。
二十六歳。この国において、未婚の女性としては完全に『行き遅れ』と揶揄される年齢だ。
おまけに高貴な身分に生まれた者にとってのもっとも重大な義務は、家を繋ぎ、健やかな世継ぎを産み育てること。王家のために身を粉にして働き、子供を産む義務を果たす猶予すら奪われた私に、一体どのような未来が残されているというのか。
王家はそれを百も承知で、私を都合のいい『使い捨ての道具』に仕立て上げようとしているのだ。
「父にも報告しなければなりません。本日はこれで失礼させていただきますわ」
返す言葉を持たないアルベルトを一瞥し、私は侍女を引き連れ王宮を後にした。
面白い!続きが気になる!と思われましたら、是非、星やリアクション、お気に入り登録で応援お願いします!




