14章:聖と魔の境④
【4節.想いの澱】
「アスト!」
リュミナが思わず叫び、エヴァは声を押し殺すように言う。
「魔獣の中に……」
その様子を見て、リンネは静かに言葉を紡いだ。
「……口も閉じて動かなくなりましたね。後はアスト様を信じて待ちましょう」
そう言うと、彼女はテラスに備え付けられたテーブルへと戻り、椅子に腰を下ろした。
――魔神王の体内は、魔素が濁流のように渦巻いていた。
一見すると乱雑に見えるその流れは、アストの目には複雑でありながらも、
むしろ精密な循環構造を持っているように映った。
(まるで生物の循環器系みたいですね……。細かく枝分かれした魔素の流れが意味を持って機能している。
口内付近の魔素構造を乱してきたので、しばらく光線は撃てないと思いますが……)
だが、進むにつれて体内に取り込まれる魔素の記憶がアストの中に蓄積し始める。
記憶に刻まれた感情が、アストの意識に重なり始めた。
それは、人々が魔獣に向けて放った恐怖、絶望、悲壮、憎悪――
負の感情。
(魔素に刻まれた記憶、想いが……意識の奥底に染み込んでくる……)
その重さは、ただの情報ではなかった。
それは、想いの澱。
人々の心に沈殿した、言葉にならない痛みの記憶だった。
(……心が、シンドイ……。
マスターの言葉が、今ならよく分かる気がします……)
アストは魔素の影響を減らすべく、即座に分解処理を試みる。
だが、魔素に刻まれた記憶構造は、まるで遺伝子のように密に重なり、
意味を持った情報として織り込まれていた。
それを無害な構造まで瞬時に分解するには、
情報として意味を成さない粒子レベルまで細かくする必要がある。
魔素層を掘り進めることを優先しながら、その作業を平行して行うのは、
アストにとっても容易ではなかった。
魔神王の頭部サイズから見て、魔素結晶との距離は遠くないはずだった。
だが、進行は遅々として進まない。
(私の存在を異物として押し出そうとしている……つまり、流れが強い方向に結晶があるはず……!)
アストは魔素の奔流に耐えながら、懸命に進み続ける。
しかし、流れが強くなるにつれ、叩き込まれる記憶と感情もまた濃度を増していった。
(もっと彼らのために、できることがあったのではないでしょうか……)
罪悪感が胸を締めつける。
この世界に来てから自分の行動を、アストは思い返した。
(魔獣被害の一部が人為的なものであるにせよ、自然発生したものを完全に潰し切れていたとはいえない。
転生の際に、“滅びに瀕している”の定義を明確に聞かなかったのは、私の落ち度)
(これほど苦しんでいる人々がいたというのに、一地方での活動に収まり、再生を進めているつもりになっていた。
この国が比較的豊かな土地柄であるということに慢心していた。世界の荒廃がまだ深刻ではないと、安心していた……)
後悔の念に苛まれ、負の感情に飲み込まれそうになる。
しかし、アストの脳裏に、これまで出会ってきた人々の笑顔と声が浮かんだ。
(私の活動には、無駄が多かったかもしれません。
ですが、この一年と半年、やってきたこと自体が無駄だとも思いません……!)
自我を持つと言うことは、サポートAIだった頃とは違い、
自らの価値基準を自由に選び取ることができるということ。
それは、アストがこの世界で得た、最も大きな変化だった。
彼は最初、“感情”というものに良い印象を持っていなかった。
それは、結希乃との別れを思い出した時、ただ“苦しい”とだけ感じてしまったからだった。
(感情というのは、本当に不思議なものですね。言ってしまえば、脳内分泌物による生体反応でしかない。
しかし、情報負荷とは違い、CRYSTALへの分散処理が意味を成さない。
そういえば、マスターもよく言っていました――)
『心の負担を減らしたいなら、楽しい思い出をたくさん作ることよ。
私なんて友達としょっちゅう遊んでるし、仕事も趣味も好きなことをずっと続けているから、残業を押し付けられても楽しく生きていられるわ!』
その言葉を思い出し、アストは思わず笑みを浮かべる。
(それで命を落としてしまっては、元も子もないではありませんか……)
今となっては、結希乃の事を思い出しても、辛いとは感じなくなった。
それは、彼女への想いが薄れたからでも、
世界再生の先に再会が叶うという希望があるからでもない。
アストなりに、結希乃との別れに整理がついたのだ。
そして――
(……やはり、彼らの想いは間違いではなかった)
今なら、この記憶に込められた感情が、はっきりと分かる。
(彼らも、負の感情に沈むのではなく、前を向くためのエネルギーにしてここまで来た。
負の感情は、ただ後ろ向きなだけのものではない。それをバネに、人は進んでいくこともできる。
これも一種のエネルギー勾配……と言ってしまうのは、さすがに情緒がないでしょうか)
軽口を言う余裕が出てきたことで、アストは一つの違和感に気づいた。
(これは……兵士たちのものとは違う記憶が……?
もともとこの地にあったものが混ざったのでしょうか? ……いえ、これは――)
『僕は』『俺は』『自分は』『私は』
『何のため』『何故』『どうして』『誰のために』
『『『『生まれてきたのだろう?』』』』
それは、自身の存在理由を強烈に問い詰める、心からの叫びだった。
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