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第12話 彼


 仙台駅を定刻に出発した路線バスは国道を西へ――秋津大滝あきつおおたき方面へと向かった。でも、東北自動車道の高架を潜ったあたりからスピードが遅くなって、県道に入る手前でノロノロ運転になる――これが、いわゆる「紅葉渋滞」の始まり。


『悪い予想は、いつも当たるんだから』


 麻耶は心の中でフッと溜息ためいきをつくと、首を横に振ったの。

 県道は一級河川・丹取川にとりがわが流れる渓谷に沿った道。山間やまあいを縫うように走っていて、急カーブがところどころにあるから制限速度は時速四十キロ。舗装はされているけれど道幅が広くなったり狭くなったりで、車がすれ違えないところもある。待避所が設けられているのはそのため。


 もともと地元の生活道路で平日はガラガラ。週末に秋津温泉へ向かう観光客で交通量が少し増える程度――でも、紅葉のシーズンになると話は別。車で秋津温泉へ行くにはここを通るしかなくて、たくさんの観光客で溢れ返る。

 あたり一面を鮮やかな紅葉が埋め尽くすとあって、どの車も紅葉狩りを楽しみながらのノロノロ運転。堂々と車を止めて写真を撮っている、不届き者なんかも現れる始末。結果として、県道は都市部の高速道路みたいな慢性渋滞に見舞われる。


 午後の遅い時間だったこともあって「渋滞がないこと」に一縷いちるの望みを抱いた麻耶だったけれど、そんな希望はもろくも崩れ去った。年に一度の「悪しき風物詩」はそんな甘いものじゃなかった。去年は土曜日の午前のバスに乗ったら二時間近くかかったから、自分なりに学習したつもりだったけれど、麻耶の学習は全然足りなかった。


『これから一時間以上、こんな状態が続くのね』


 心の中で麻耶はポツリと呟く。

 相変わらずのクールガールも、心の中は憂鬱以外の何物でもなかった。

 去年まではこんなこと全然思わなかった。「楽しいこと」が麻耶を待っているのがわかっていて、憂鬱よりも期待の方が圧倒的に大きかったから――「目の前にニンジンがぶら下がっていたら厳しい状況も乗り切れる」。よく耳にするフレーズだけれど、本当にその通り。今になってすごく理解できる。


 車内には、歌を歌ったり大声で騒いでいる子供や顔を近づけて話をするカップルの姿が目に付く。みんなすごく楽しそうで「渋滞なんか我関せず」といった感じ。きっと一年前の麻耶もみんなと同じだったと思う――「憂鬱だとわかっているなら、わざわざこんな時期を選んで行かなければいいのに」。そう言われると身もふたもないけれど、わかっていても麻耶は行きたいの。そして、見ておきたいの――二人で見た、秋津大滝の景色を。


★★


 壮行会が終わった後のことは、はっきりと憶えている。

 一つ一つのシーンは高感度のデジタルカメラで撮影した連続写真みたいにまぶたの裏にしっかりと焼き付いている――あまりにも衝撃的だったから。男とまともに話をしたこともない麻耶が、まさか手をつなぐことになるなんて思いも寄らなかったから。


 最後に男と手をつないだのは、確か中学のとき。林間学校へ出掛けてキャンプファイヤーを囲んでフォークダンスを踊らされたとき以来。汚い物にでも触れるように男子の手を指先でつまんでいたのを憶えている。

 普通だったら、男の手が触れた瞬間、条件反射みたいにその手を払いのけたと思う。でも、今岡さんのときはそうじゃなかった――つまり、麻耶は「普通じゃなかった」ってこと。あのときのことを考えると、今でも心臓が口から飛び出すんじゃないかって思うぐらいドキドキする。


 普段の麻耶は感情を表に出さないクールガール。

 でも、女性には明るい笑顔で接することができる――「できる」と言ったのは、ほとんどが作り笑いだから。こう見えて、少しは気を遣っているの。ただ、男に対しては気遣いなんか全くなし。盗人に追い銭を払う人がいないのと同じで、笑顔の代わりに憎悪や敵意を露わにする。


 ちなみに、麻耶のチャームポイントはパッチリした黒目がちの大きな瞳。

 今まで「可愛い」だとか「綺麗」だと言われたことがある。男に言われたときは「セクハラで訴える」とか「女を物みたいに見るな」なんて手厳しい言葉を浴びせたけれど、女性から言われたときは素直に喜んだ。

 ただ、無表情の女が大きな瞳で睨みつける姿は不気味以外の何物でもない。英語の「charm(チャーム)」には「魅力」以外に「魔力」っていう意味があるけれど、麻耶の場合はそっちの意味の方がシックリくる。


 麻耶が男に冷やかな態度を取るようになった原因は、お母さんと自分を捨てたお父さん(あの人)の存在が潜在意識の中で「悪」として根付いているから――最初は無意識のうちに思いが行動となって現れたけれど、お母さんのお店に来る男がどうしようもないのばかりだったことを知って意識するようになった。


 託児所に預けられていたときは、お母さんのお店で何があったのかは知る由もなかった。だから、その事実を知ったのはかなり後のこと。でも、聞いた瞬間、「男は最低」って思った――酔っ払って説教染みた話をするのは、まだ許せる。ただ、暴言を吐いたり侮辱したりするのは、あり得ない。さらに、「好きだ」とか「愛してる」といった台詞を軽々しく口にしながら一方的に身体を触ったりキスをしたりするのは、本能丸出しの動物と同じ。とても人間のすることとは思えない。挙句の果てに、当然の権利みたいにホテルに誘ってくる。あきれてものが言えない。


 話を聞く限り、「お客さまは神様です」なんて言葉を未だに口にする、時代錯誤を絵に描いたような連中や、「お金を払えば女は何でも言うことを聞く」なんて思っている、勘違い野郎ばかり。やんわりと断った瞬間、態度を豹変させて激怒する客もいたみたいで、「盗人猛々しい」というのは《《こういうとき》》のためにある言葉だって思った。


 会社に入って、嘘を漫然と正当化し酷い言葉で麻耶を罵倒したことで「「男(イコール)悪」といった図式が麻耶の脳裏に完全にインプットされたの。麻耶の中では、お父さん(あの人)だけでなく、男という生き物すべてが「いくら憎んでも憎み足りない存在」に変わっていたの。


 こんな話をすると、「麻耶にはコンビニの店員なんか務まらない」なんて言う人が結構いそう――でも、それは当然だと思う。お客さまの半分は男なんだから、凄い数のクレームが寄せられたっておかしくない。

 麻耶は販売職じゃなく事務職として採用された。「空前の売り手市場」なんて言われた時期だから採用されたけれど、今みたいな不景気で企業が採用を手控えていたらまず無理。事務職はデスクワークや裏方がメインで、レジの前に立って接客するようなことはほとんどない。ただ、入社当初の接客研修のときは冷や汗ものだったし、取引先の業者さんなんかと顔を突き合わせて話をするのは今も苦手。麻耶のことをわかっている業者さんは女性スタッフが対応してくれるけれど、初めての業者さんはいつも面喰らう。


★★★


 それにしても、あのときの今岡さん、ものすごく大胆だった。

 いきなり麻耶の手を取ってぐいぐい引っ張っていくんだもの――「これから桜木くんと顧客満足(CS)の打ち合わせをしてくるから」なんて言いながら。「荷物がロッカーに置いてありますから」って言ったら、手をつないだままいっしょに更衣室へ入っていきそうな勢いだったし。

 

 エレベーターに乗った後も、会社を出てからも、手はつないだまま。

 いつもの麻耶なら、思い切り手を振り払って「痴漢」とか「セクハラ」といったキーワードが入った罵詈雑言ばりぞうごんを浴びせるところだけれど、あのときの麻耶は何も言わなかった。麻耶にしてはお酒を飲んだ方だとは思うけれど、決して酔っていたわけじゃない。頭ははっきりしていた――だから、戸惑っていたの。


 つづく

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