その3
全身に感じる奇妙な浮遊感が納まって、恐る恐る目を開ける。
肌に触れる空気はひんやりと冷たい。
ぴちょん、と水たまりに水滴が落ちる音が響く。
ゴツゴツした岩肌にうっすらと光を放つ紫色の苔が生えている。
頭上には氷柱のように、いくつもの細長い乳白色の結晶がぶら下がっている。
細部は違うが、日本で言うところの鍾乳洞らしき場所に私達は立っていた。
「ここは…?」
「ここは『響奏の洞窟』。
音楽を愛する民のための洞窟だよ。
中に魔界で一番人口が多い街があるんだ。
個人の住宅もたくさんあるから、参考になるんじゃないかな」
喋り声が反響して何重にも重なって聞こえる。
魔王の言う『音楽を愛する民』というのはどんな人たちだろうか。
なんとなく南の島でウクレレを弾く陽気なオジサンみたいな存在を思い浮かべる。
私は昔吹奏楽部に所属していたこともあり、今は楽器を弾くことはないが人の歌や演奏を聴くことはけっこう好きだ。
どんな人が住んでいるのか、少し楽しみになってきた。
しかし、洞窟内は前も後ろも同じような景色の道が続いているだけで、人影や建物がある様子はない。
その場にとどまっても仕方がないので、とりあえず魔王が歩く後ろをついていく。
「もう、すぐそこだよ」
そう言われて注意深く見渡してみるが、街どころか生き物の存在すら見当たらない。
どこに街があるのかと魔王に問いかけようとしたその時、どこから微かに風が通り抜けるような音が聞こえた。
少しして、それが風ではなく音程を伴った歌声であることに気づく。
「ラ〜ラララ〜ラ〜」
謎の声を気にする様子のない魔王の後を続いて、岩壁が張り出して少し狭くなった部分をくぐる。
するとそこには、光が飛び交うドーム状の大空間が広がっていた。
東京ドームがそのまま入りそうな広大な空間は、紫色のカーペットのように地面一面に光る苔が生えている。
空中には蛍のような小さな白い光が無数に飛び交っていて、よく見ると岩肌にあいた直径3cm程の小さな穴から出入りしている。
魔王がおもむろに指を上に向けてクルクルと回すと、飛び交う白い光のうちの1つがそっと指先にとまった。
見えやすいように、指をそっと私の顔の前に動かしてくれる。
その光をよく見ると人のカタチをしていて、背中にトンボのような薄い羽根が生えていた。
まるで、おとぎ話に出てくる妖精のようだ。
魔王は反対の手のひらを指先の妖精に向け、私に紹介してくれる。
「サクラ、彼がこの街の代表だよ。ここには彼の約15万人の仲間が暮らしているんだ」
妖精は小さな体を私に向かって深く曲げる。
お辞儀をしてくれたのだと気づき、慌てて同じようにお辞儀を返す。
「えっと、はじめまして。お邪魔してます。
とっても綺麗で、すてきな街ですね…?」
挨拶をしてみるが、返事はなく無表情だ。
これは…嫌がられている……?
心配になって魔王の顔を見たその時、小さな歌声が聞こえてきた。
「ララ〜ラ〜ラララ〜」
目の前の妖精から発せられたその歌に、近くにいる別の妖精の声が重なって、次第に大きな音になっていく。
歌の波は最後にはこの街全体に広がり、オーケストラのように壮大なハーモニーを奏で始めた。
「すごい……!」
「この街の住民は、音楽に全てをかけているから言葉を持ってないんだ。
これは歓迎の歌だね。街を褒めてくれて嬉しかったみたい」
歌に聴き入っていると魔王が説明してくれた。
無視されていたわけじゃないようで安心する。
言葉を持たないというのは不便そうだが、奏でられるハーモニーが美しすぎて、この壮大な素晴らしい音色の前では些細な問題かもしれないと思えた。
空気そのものがビリビリと振動し、胸の奥まで音が直接響いてくるような圧倒的な音圧。
「素敵ですね……。街全体がコンサートホールみたい……」
「この街は歌声が綺麗に響くことだけを考えて、少しずつこの形に進化してきたんだよ。
ほら見て。
この小さな穴は一つ一つが彼らの家なんだよ」
魔王は先程から妖精が出入りしている穴の1つを手で指し示す。
「なるほど……建物が見当たらないのは、壁に穴を掘って暮らしているからなんですね」
「うん。
ここの住民は全員、体のサイズぴったりの小さな穴を住処にしているんだ。
面白いでしょう?」
覗き込んでみると確かに奥行きも小さく、妖精1人が眠るだけのスペースしかなさそうだ。
この最小限の空間を果たして家と呼んでいいのだろうか。
「ずいぶん小さいですね。
あ、もしかしてどこかに共用のキッチンとか、集会場みたいな大穴があるとか」
「ないよ。
彼らは眠るとき以外は常に歌っているからね。
食事だって歌の合間に苔を食べるだけだから、これで充分なんだよ」
「それはまた、極端ですね……」
あらためて街を見渡すと、無数の…おそらく約15万の穴が岩壁に等間隔で並んでいる。
その様子はなんだか小学校の音楽室に使われている穴あきの吸音ボードを思い出させた。
穴を開けて表面積を増やすことで、音の反射を抑え、室内の音の響きを調整するための材料だ。
最初に訪れた空間と比べてこのホールの音の響は過不足なく美しい。
彼らの家は穴あきボードと同様、この空間の音環境を整えるために存在しているように感じられる。
……だとしたら、この街の住人は本当に全てを歌に捧げているようだ。
「ここには余計なものなんて一切なくて、ただ美しい音楽があるだけなんだ。
昔から、何か悩んだ時にはよくここに来たよ。
そうすると、なんだか気持ちがリセットできる気がするんだよね」
「それは、わかる気がします」
魔王が目を閉じて響き渡る音楽に耳を傾ける様子を見て、私も同じように目を閉じてみる。
優雅で洗練された音の重なりは、乱れなく1つの音楽の形を作っている。
天井から落ちる水滴すら一定のリズムと音程を保ち、まるで伴奏しているかのようだ。
川の流れに身を任せるように、この美しい音楽に浸っているだけで多幸感すら感じられた。
確かに、細かいことなんてどうでも良くなってくる。
ここに来るまでに抱えていた悩みも、今はもうどうでもいいような……
「……って、流されてはいけません!」
壮大な演奏に心が流されそうになるのを、振り切るようにきっぱりと言う。
「私は、急いでアイデアを出さなきゃいけないんです。
こんな風に癒されてる暇はありません!」
私には早急に解決すべき具体的な課題がある。
こんな所で現実逃避している場合ではない。
魔王は目をあけて、不思議そうに首を傾げた。
「そう?気持ちを切り替えるのも大切だと思うけどなあ。
でもほら、ここには15万戸もの住宅があるんだ。参考になったでしょう?」
「参考に……、うーん。
なったようなならないような……」
ニッコリと笑顔で聞かれるが、そもそも数の問題ではないし、家というか穴だ。
しかし私が思いつかないような奇抜なアイデアという意味では、参考になった…のか?
言葉に詰まっていると、魔王が私の右手を握り、引っ張るように歩き始めた。
「じゃあ、次に行こうか。
サクラに見せたい場所はまだまだあるからね」
「え?また?ちょっと、心の準備が…!」
ぐにゃりと視界が歪み、胃のあたりがふわっと浮き上がる悪心に思わず呻く。
次に転移するときは、何かしら対策を考えないと胃が持たないかもしれない……!




