第4話 割烹「ふじ半」開業
修二が旅修行に出てから丁度三年の歳月が経った或る日、「美濃利」の辰三親方から電話が架かって来た。
「隣町の繁華街に居抜きの店を見つけて置いたからな。其方の大将も、もう大丈夫だろうと言ってくれているし、そろそろ帰って来ねえか・・・」
辰三親方は修二が戻ると直ぐに、愛理をも伴って、わざわざ下見に連れて行ってくれた。
「この街は商いの難しい土地だ。昔からの商売人が居る。広い屋敷の旧家も多い。それに、小料理屋に通うのは、所詮は土地の人間だ。そこん処を考え違いしないようにな。味だけじゃ客は来ない、が、味が悪けりゃもっと来ない。丁寧に客を一人ずつ拾って行くことだ」
下見を終わった後の蕎麦屋で親方は二人を前にそう言った。
「ふじ半」と言う店の名も親方がつけてくれた。
「屋号をつけるのに何か希望か条件は在るか?」
相談に行って連れて行かれた馴染みの鮨屋で、親方は好物のヒラメのにぎりを頬張りながら訊ねた。
「はい。頼み事に来て、注文を付けるようで済みませんが・・・」
「なあに構うことは無いさ。何なりと言ってみな」
「出来れば、私ら二人の名前のどれか一文字でも入れて貰えれば・・・」
「よし、解った」
次の日、親方は女文字のような筆跡で「ふじ半」と書いた半紙を広げて言った。
「“ふじ半”だ。藤田の“藤”の字を取ったと思ってくれたら良い。“半”と言うのは、めでたいことも何もかも半分くらいが丁度良い、という意味だ。欲張らずに地道にコツコツ店をやって行け」
「はい、解りました」
「いや、解っちゃいめえ、そんなに簡単に解るもんじゃねえ。良いか、お前は未だ腕も人生経験も何もかも半人前だ。残りの半分は正直で足して行け。修二って人間がまだまだ修行中の半人前だと肝に銘じて仕事をしな」
「良い名前ですよ、あなた」
傍から声を出した愛理に親方は鋭い目つきで言った。
「お前たちは二人足して漸く一人前だろうから、何方かが欠けたら店は終わりだと思ってやって行けよ」
全くそうだな、と修二は今も思っている。
修二は出刃包丁を手に、口の中に水を入れ回しながら解体する「吊るし切り」で下処理したばかりの大魚と向き合っていた。半分は鍋に、半分は刺身や揚げ物や天ぷらにしよう、と彼は考えていた。
調理場の隅では、大鉢に大根おろしを拵えている愛理が額に浮いた汗を拭いながら横目で修二を見ていた。
修二は口を“へ”の字に結んで魚を見詰めている。夢中になって真剣に考えている時の表情である。
修二が唇を窄めてふぅ~っと息を吐いた。さあ仕事の始まりである。そうなると彼にはもう周囲のものが眼に入らなくなる。
上がり座敷の柱時計がボーンと鳴った。
修二は骨だけになった魚を持つ手を停めて時計を見た。二時半である。
「おい、銀ボールの大きい奴をくれ」
調理場の奥に居る愛理に声を掛けた。
「はい」
割烹着の下の赤いセーターを水に濡らしながら愛理が銀ボールを持って来た。
「隣の流しに置いてくれ」
「はい」
愛理は片方の流しに置いた銀ボールに入った魚の肝や胃袋を覗き込んだ。
「迫力あるわね、この肝。それにしても大きな魚だったわねえ。何人前くらいになるのかしら?」
「三十人くらいはいけるだろう」
「三十人じゃうちの店は溢れちゃうね」
愛理は目を丸くして魚を見ていた。
「あっ、いけない、南瓜が焦げちゃう」
舌を出して奥へ行こうとした。その時、床の簾の子に躓いて前のめりになった。修二が咄嗟に手を伸ばして愛理の二の腕を掴んだ。
「気を付けろ!」
修二の真剣な顔に、愛理は押さえていたお腹から慌てて手を放した。その仕草を修二はちらりと見た。愛理は首を竦めて奥へ入って行った。
あれは二ヶ月前の十月、定休日の前夜だった。
愛理がテレビの画面を見ながらぽつんと言った。
「子供を作ってはいけないかしら?」
修二は新聞を読んでいた眼を愛理の背中に向けた。
「何だって?」
「子供・・・」
愛理はじっとテレビを観ていたが、息を止めているようなその背中が彼女の真剣味を修二に伝えた。
「出来たのか?」
「違うの。私ももう直ぐ三十歳でしょう。もし産むとしたらそろそろ潮時だと思うの。でも、良いのよ、あなたが子供を欲しくないのなら・・・」
修二は黙って愛理の背中を見ていた。どう返事して良いのか判らなかった。
「子供が欲しいのか?」
修二は小さな声で訊いた。
「欲しいのかって言っても、私だけが欲しいんじゃ、産まれて来る子供が可哀相だもの」
愛理の返事の仕方は、何処か修二の返答を予期していたような感じがあった。




