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愛の讃歌  作者: 石原裕
第一章 割烹「ふじ半」

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第3話 修二、旅修行に出る

 店の暖簾を下ろして洗い物も粗方片付いた頃合いを見計らって、「美濃利」の主人の辰三親方が修二を呼び止めた。

「修二、お前、此処へ来て何年になる?」

「はい。高校を卒後して直ぐにお世話になりましたから、もう丸六年になります」

「そうか、もう六年か・・・よし、じゃ、ちょっと旅に出て来い。旅に出てもう一度修業を積んで来い」

「旅修行ですか?」

「俺と二人でやって居たんじゃ互いに慣れ合っていけねえ。もう一度他人の飯を食って腕を磨き直して来い」

「今の自分の腕じゃ未だ未だ駄目ですか?」

「いや、そうじゃねえ。腕はそれなりに上がっている。だが、お前には、何処か人生を諦めて斜に構えているようなところが在る。どんな仕事でもそうだが、仕事をすると言うことは、これでやって行くんだ、と言う覚悟ってものが必要なんだ。それがお前には見えない」

修二は親方に腹の底を見透かされた気がした。

 修二は中学、高校と地元熊本では名の知れたピッチャーだった。中学の時には春秋の県大会で連覇を果たしたし、高校では夏の甲子園大会に二年連続で出場してプロのスカウトの眼にも停まった。修二自身もプロでやってみたいという強い思いを抱いていた。だが、ドラフト会議が間近に迫った残暑の九月に、バイクの運転を誤って転倒し、利き腕を複雑骨折した。ニュースを知り右肘の骨がバラバラになったレントゲン写真を見たスカウトたちは、これは駄目だ、と一様に選択候補から彼の名前を抹消した。爾来、修二は野球からは、観るのもするのも、一切遠ざかった。

「スターだったのか?」

「熊本の田舎の、その年だけの卵です」

「卵か?」

「はい。高校野球は毎年、卵を拵えるんです、何十個、何百個の数の・・・」

「スポーツでこさえた傷はなかなか消えないと言うわな。痛いとか辛いとか、身体が覚えているからだろうな。然し、過ぎてしまえば些細なことかも知れねえし、その頃は自分にとってはこれが全てだと思っていたものが、時間が過ぎると可笑しくて仕様が無いということもある。消せない、忘れられない、は一人で思い込んでいるだけかも知れ無ぇぞ」

「はい・・・」

「人間、どんなに実力があっても、実力だけじゃどうにもならないことも有るんじゃないのか?その時々の運とか星の巡り合わせとか、それは自分じゃどう仕様も無いものなんだな。そんなものをいつまで引き摺っていても、先が開ける訳でもないし前へ進める訳でもない。大事なのは今なんだな。今の自分、今在ることに全身全霊を注ぎ込む。そうすれば時として、キラキラ輝く、周りを明るくするオーラのようなものが出て来るんじゃないか?儂はそう思って今日までやって来た」

親方は其処で言葉を切って暫く黙った。

「なぁ修二、お前は今、割烹料理の板前だ。割烹料理ってのは、江戸前も京風も一人前でなきゃいけねえ。天秤にかけてどちらかが傾いちゃ駄目なんだ。東京の築地に俺の知り合いで腕の良い花板が居るから、其処へお前を頼んで置いた。三年か五年か、しっかり腕を磨き直してまた此処へ戻って来い、良いな」

否も応も無かった。修二は、解かりました、と頭を下げた。

「あっ、それからな、言い交わした女が居るんだったら、しっかり繋ぎ止めるか、後腐れ無く切れるか、はっきりしておけよ」

親方はそう言って片眼を瞑りにっと笑った。

 

 数日後の日曜日、愛理の携帯にメールが届いた。

「親方の言い付けで旅修行に出ることになった。午後七時に駅東の遊歩道で待っている」

愛理は夕暮れになって時間の来るのを待ちかねたように遊歩道へ急いだ。

駅東のロータリーから川に沿って続く遊歩道には夏草のむせかえるような匂いが立ち込めていた。その先に黒い影が立っていた。

「修二さん」

愛理は名前を呼んで影に近づいて行った。

「悪いな、こんな所へ呼び出して」

修二の声は低くて優しげだった。

「ねえ、どうしたの?何があったの?」

「メールに書いた通りだよ」

「旅修行って、何処へ行くの?ちゃんと話してよ、ね」

愛理は修二の上着の裾を掴んだ。何か言わないと此の侭修二が何処かへ消えてしまい、二度と自分の処へは戻って来ない気がした。

「ねえ、約束したじゃない」

「約束?」

「そうよ。二人の心が互いに真実に求め合うまで、それは大事に取っておこう、って」

修二がまじまじと愛理の顔を凝視した。

「今から私を抱いてよ、ね、抱いてよ、直ぐに!」

 事が終わった後、愛理は修二のマンションの浴槽の中で、自分が女に成ったことを感じた。部屋へ戻ると修二は壁に凭れて何かを考えている風だった。愛理は下着だけを着けてもう一度ベッドに入った。

修二もベッドに入って来ると仰向けになって天井を見つめた。

「あなたは何処で生まれたの?」

「熊本だよ」

「熊本の何処?」

「八代だ。晩白柚と塩トマトと、それから、辛子蓮根と日奈久竹輪で有名な町だよ」

「晩白柚って?」

「柑橘類では最大クラスで、直径は凡そ二五センチ、重い物は三十キロを超える、ギネスにも認定されている代物だ。香りも豊かで果汁がたっぷりなので贈答品としても喜ばれているよ」

「私は辛子蓮根が大好きなの。しゃきっとした蓮根の歯触りと辛子味噌が絶妙の味を醸し出すのね」

其処まで話した時、突然、修二の顔が近付いて愛理の視界を遮った。

キスを繰り返しながら修二が愛理の耳元で囁いた。

「旅から帰ったら、俺の田舎へ行こう。両親に俺の嫁として引き合わせるし、晩白柚も辛子蓮根もたっぷりと食べさせてやるよ、な」

「ほんとうに?待って居ても良いのね。約束よ」

「ああ、大丈夫だよ」

「わたし、一生あなたに従いて行くわ、真実よ!」

二人はまた唇を重ね合わせた。

 

 修二が東京へ旅立つ前、二人は連れ立って幸徳神社へお参りした。

「この人が早く立派な板前さんになって、きっと私の前に戻って来ますように」

愛理はそう言って長い間、手を合わせた。

「包丁一本を晒に巻いて旅へ出るのも板場の修業だ。腕を磨いて戻って来たら、必ずお前と所帯を持つから、それまで待って居てくれよ、な、愛理」

意地と恋とを包丁に賭けて修二は本尊に手を合わせて瞑目し続けた。

程無くして、修二は旅修行に出て町からいなくなった。


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