第2話 信子と高井、運動公園で出逢って親しくなる
時の移ろいは速かった。桜が散りチューリップが散り、黄金週間が過ぎて、つつじやライラックが咲く好季節がやって来た。
ある晴れた日曜日、信子は息子の信吾にせがまれて太陽が丘にある運動公園へやって来た。信吾は六歳になる小学一年生の一人息子だった。二人はマイカーの後ろに子供用の自転車を積んでその練習に出向いて来たのだった。
信吾がサドルに跨り後ろから信子が押すのだが、それはなかなか思うようには行かなかった。晴れた初夏の陽光は思いの外に強くて五回六回と繰り返しているうちに二人は汗ばんで来た。
「ちょっと、一服しようか?」
「うん」
二人が持参した水筒のお茶をコップに移して飲んで居ると、背後から声が掛かった。
「女将さんじゃないですか」
「あらっ、高井さん。どうして此処へ?」
「はあ、天気が良いもんで買い物がてらにちょっと・・・そちら、息子さんですか?」
「はい。一人息子の信吾です。信吾、おじさんにちゃんとご挨拶しなさい」
「僕、安達信吾です」
息子は恥ずかしそうに目を伏せ乍ら頭を下げた。
「おじさんは高井健二と言います、宜しくね」
高井はしゃがみ込んで子供の高さに目線を合わせ、それから右手を差し伸べた。信吾は上目遣いに母親を見遣り、母親が頷くのを見て、両手で高井の手を握った。
傍に立て掛けてある自転車を見た高井がしゃがんだ姿勢をその儘にして言った。
「自転車の練習をしているんだね。ようし、おじさんが押してやろう、良いかな?」
「うん」
高井は走りながら自転車の後ろを押した。それは信子が驚くほどのスピードだった。
今までに無いスピードで押された信吾は必死で懸命にペダルを漕いだ。はらはらしながら見守る信子を気に懸ける風も無く、高井は手を離さずに自転車を押し続けた。
そうして、何回目かに気が付くと、信吾は独りで乗ることが出来ていた。高井は最初だけ力強く押して直ぐに手を離していたのだった。身体が感覚を覚えると後は早かった。三十分も経つと信吾は一人で乗れるようになっていた。
「有難うございます。今日まで何回か練習に来ていたんですが、なかなか思うように行かなくて・・・」
「スピード感と平行感覚を身体が覚えるには、ある程度のスピードが必要なんです。まあ、これでもう少し練習すれば、道路でも乗れるようになるでしょう」
高井はそう言って信吾の頭を軽く撫でた。顔には例の口元を少し歪めた微笑が覗いて居た。
それは高井が信子に対して初めて見せた打ち解けた姿だった。
「やっぱり女親では駄目なんですねぇ・・・」
「ご主人は?・・・」
「亡くなりました、三年前に、癌で・・・」
「えっ!」
高井は暫く絶句した。言葉が出て来ない様子が信子にもありありと見て取れた。
「或る日、突然に食べ物が呑み込めなくなって、嘔吐を繰り返して・・・気が付けば食堂の半分が既に塞がって居て・・・診断の結果は末期の進行性の食堂癌でした。最後は胃瘻までして、十カ月余りの闘病の末に呆気無く死にました」
頭を垂れて信子の話を聴いていた高井が、徐に謝った。
「済みません、知らなかったものですから・・・軽はずみに余計なことを聞いて、あなたの心の中に土足で踏み込んでしまいました。許して下さい」
それは、心から信子の哀しみと痛みを思いやるもの言いだった。切れ長の鋭い眼が包み込むような優しい眼差しで信子を見詰めた。
信子は、店にやって来る寡黙で気難しそうな高井とは異なる別の一面を見た気がした。
この人は懐の深い優しい人なんだわ、きっと・・・信子はこれまでに無い親しみを高井に感じた。
気持ちを切り替えるように信子が言った。
「高井さん、お昼は未だですわね、ご一緒に如何です?」
高井が腕時計を見遣ると、なるほど、正午前だった。
「はあ、然し・・・」
「お弁当を作って来ていますの。と言っても、おにぎりですけどね」
「僕が戴くとお二人の分が・・・」
「大丈夫ですわ、二人では食べ切れないほど沢山ありますから。どうぞ、ご遠慮なさらずに、ね」
道路を隔てた向こう側は小高い丘になっていた。
「あの向うにテントを張ってありますの。テントの中にお弁当が有りますから、少し歩いて下さい」
信吾を促して信子は先に歩き出した。自転車は高井が運んだ。
開かれた折詰の弁当には大きなおにぎりと出汁巻と法蓮草のお浸し、それに芝漬けが添えられていた。
流石に「おばんざい屋」のおにぎり弁当だった。味は「超」が付くほどに美味だった。
和やかに談笑しながらの昼食で、信吾は直ぐに高井に打ち解けた。仮面ライダーゴーストを真似て変身の格好をしたり回し蹴りを披露したりした。更に、高井を指差して「お前は若い」「お前は若い」などとライダー宜しく台詞を吐くのだった。
高井も信子も笑い転げた。信子にとっても高井にとっても久し振りの腹からの笑いだった。
帰る間際になって信吾が高井に問いかけた。
「おじさんは野球出来る?」
「ああ、出来るよ。どうしたんだい?急に」
「出来るんだったら、僕、教えて欲しんだけど」
「そうか、よし、解った。毎週の土日というのは無理だけど、二週間に一回くらいなら大丈夫だ。それで良いかな?」
「うん。きっと、だよ」
翌週の日曜日、高井はバットとグラブとボールを車に積んで「あだち」の勝手口にやって来た。そして、信吾と信子を伴って運動公園に出向き、信吾に野球を教えた。そして、気が付けば、いつしか、信吾がボールの入ったグラブを枕に眠っているという事態も見られるほどになった。
信子は高井に心から感謝した。が、その気持は、高井に懐く信吾を見て複雑だった。父親を早くに亡くした息子が不憫ではあったが、然し、信吾が幾ら高井に懐いても、所詮は、高井は疑似父親でしかなかった。
このまま甘えさせていて良いものだろうか・・・・父親の居ない現実を早くからしっかりと認識させなければいけないのではなかろうか、その方が心の独り立ちが早いのではないのか?・・・
そんな信子の懸念を他所に、信吾は高井と野球に興じたばかりか、サイクリングや魚釣りにまで連れて行って貰った。




