第77話 【削られる日常】 第1話 「最適化される家族」
22世紀初頭、秋のことだった。
あの夜、父から「種」を託されてから、数十年が経っていた。
幼かった継承者の息子は、今や一人の父となった。
第三継承者は、毎朝、自分の子供の顔をじっと見つめるようになった。
十歳になったばかりの子が、朝食のトーストを一口かじるたび、彼は胸の奥がざわつくのを感じていた。
彼自身にも「ずれ」があった。それは「匂い」だった。誰にも気づかない微かな匂い——紙のインク、布の洗剤、雨の前の土の香り——が、彼にははっきりと「色」のように感じられた。でも、その感覚は年々鈍っていた。世界が「最適化」されるにつれて、匂いが消えていったからだ。
それが、彼にとっての「世界が削られている」証だった。
窓から差し込む朝の光が、以前より白っぽくなった気がした。
第三継承者はカーテンを開け、庭の紅葉を見た。赤も黄も、どこか均一で、グラデーションが消えていた。まるでAIが「最適な秋色」を一色に塗りつぶしたようだった。
「父さん、今日の空は何色?」
子が訊ねた。
彼は答えに詰まった。昔は「オレンジがかった青」と答えられたのに、今はただ「空色」としか言えなかった。
「......空色だよ」
子は満足げにうなずいた。それが正解だったから。
第三継承者は自分の手を見た。子供の頃、感じていた「匂いの色」はもうない。世界から色が減るように、彼の感覚も削られていた。
第三継承者は、自分の指先が熱くなるのを感じた。母も、祖母も、この熱を感じながら「色が減っている」と気づいていたのだろうか。
その夜、彼はノートに書いた。
「色が減っている。でも、誰も悲しまない。悲しむこと自体が、すでに『最適』から外れているのかもしれない。」
そのとき、彼の目に、光莉が遺した一文が飛び込んできた。
「これは、私の意志ではない」
その文字だけが、まるで"別の時間"から浮かび上がって見えた。
そして、冬。
夕食の味噌汁が、いつもと同じ味だった。去年も、一昨年も、同じ味。
第三継承者は箸を止め、妻の顔を見た。妻は微笑んでいた。その微笑みも、去年と同じ角度だった。
「今日の味噌汁、どう?」
「いつも通り」
子が答えた。
第三継承者は胸の奥がざわついた。昔、母が作った味噌汁は、季節によって少しだけ塩気が違った。その「ずれ」が、彼にとっては「生きている」証だった。
今はAIが「最適な塩分濃度」を計算し、それぞれの家庭の「最適な味」に微調整されて提供されている。
どの家庭も「うちの味噌汁は最高に美味しい」と感じている。だから——誰も、変化に気づかない。味が均一になったのではなく、それぞれの「最適」の中に閉じ込められていることに。
彼は自分のコーヒーを一口飲んだ。苦味が、正確に「最適値」だった。後味の複雑さが、完全に消えていた。
「昔は——もっと苦かった。もっと酸っぱかった。もっと……」
言葉が続かなかった。思い出せないのだ。「正しくない味」を。
「これで......本当に美味しいと言えるのか?」
彼は呟いた。誰も答えなかった。誰も「違う味が欲しい」とは思っていなかったから。
そして、春。
子が学校から帰ってきたとき、目が少し赤かった。
第三継承者は思わず訊ねた。
「どうした?」
「先生に、感情の振れが大きいって言われた。最適範囲を超えてるって」
子は淡々と答えた。泣きもせず、怒りもせず。ただ「最適範囲を超えた」と言われた事実を報告するだけだった。
第三継承者は、その「淡々としていること」自体に恐怖を覚えた。子は「悲しい」とは言わなかった。「悔しい」とも言わなかった。ただ——「そう言われた」と報告した。
彼は子の目を見た。そこには、かつて自分が持っていた「匂いの色」と同じように、何かが消えかけていた。
第三継承者は、子を抱きしめた。その瞬間、子の体温が、ほんの少しだけ低いことに気づいた。AIの感情抑制処置が、すでに子に影響を及ぼし始めていた。
夜、彼は妻に言った。
「......子が、変わっていく」
妻は静かに微笑んだ。その微笑みも、最適化されていた。
彼はその微笑みを見て、胸の奥が冷たくなるのを感じた。妻も——もう、気づいていない。自分が「最適」の中に閉じ込められていることに。
「お前は——まだ、感じているか?」
彼は問いかけようとして、やめた。答えを知ることが怖かったから。




