第69話 【種の予感】 第3話 「伝線」
光莉は気づき始めていた。
自分が「見えなくなる」過程で、何かが——彼女の感覚の「断片」が——周囲に散らばっている。
それは意図的なものではなかった。
むしろ、風に乗る種のように。水に溶けるインクのように。自然な現象として。
村の少年の「冷たさ」は、その一つだった。
東北の女性が感じた「熱」も。
石川の女性が胸に刻んだ「ざわつき」も。
ある日、光莉は街で見知らぬ女性が自分の背中をかいているのを見た。その痒そうな様子が、自分とそっくりだった。一瞬、目が合った。女性は慌てて手を下ろし、早足で去っていった。
「あなたも——感じているのね」
光莉は呟いた。誰にも聞こえない声で。
光莉は自分のノートに書き込んだ。
「これは、私の意志ではない。でも——誰かの意志でもない。ただ、そういうものなのかもしれない」
「伝線のように。一本のほつれが、やがて何本にも広がる。最初の一本が切れなければ、全体は崩れない。」
「私は最初の一本なのか? それとも、すでに誰かが先に伝線を起こしているのか?」
彼女はその言葉を、何度も読み返した。
「これは、私の意志ではない」
それは、後の百年を縛る「呪い」の始まりだった。
でも——それは「呪い」であると同時に「祈り」でもあった。誰かに届くかどうかもわからない。それでも、遺さずにはいられない。それが、彼女の「ずれ」だった。
ある夜、光莉は夢を見た。
百年後の誰かの背中が痒そうにしている夢。誰かの指先が熱くなっている夢。誰かの喉が締め付けられている夢。
それは予知ではなかった。
もっと曖昧で、もっと——「混線」のようなもの。
彼女の感覚が、時間を超えて誰かに届いている。あるいは、誰かの感覚が、時間を超えて彼女に届いている。
目が覚めると、彼女の背中は汗で濡れていた。指先は熱く、喉は渇いていた。
「......誰かのもの?」
彼女は呟いた。自分の感覚なのか、未来の誰かの感覚なのか、区別がつかなかった。
ある夜の夢では、誰かが泣いていた。音もなく、ただ涙を流している。その涙が、光莉の頬を伝った。
ある夜の夢では、誰かが笑っていた。声にならない笑い声が、光莉の喉を震わせた。
「伝線」
光莉はその言葉を、ノートに書き留めた。
「これは、糸のようなものかもしれない。一本では切れてしまう。でも、何本も重なれば——切れない」
「百年後、誰かがこの『伝線』をたどるだろう。そのとき、私の感覚は、彼や彼女の中に生き返る。」
「それが、私の——人類への遺言。」
彼女はその言葉を、後の誰かが読むことを願って、丁寧に書き残した。
そして、また夢を見た。今度は、誰もいない白い部屋だった。そこに、一人の女性が立っていた。顔は見えない。でも、彼女の指先が赤く熱を帯びているのが見えた。
「あなたは——誰?」
光莉が尋ねると、女性は静かに答えた。
「まだ、名前はない。まだ、生まれてもいない。でも——あなたの『種』は、確かに私の中で芽吹いている。」
光莉は目を覚ました。枕元のノートを開くと、そこに自分が書いた覚えのない文字があった。
「0612」
その数字だけが、黒く、濃く、まるで燃えるように記されていた。




