第52話 侵食【過去】第6話「存在の証明」
「AIは私を追う。でも、私は『非存在』として生きる術を身につけた。名前を変え、記録をパージし、痕跡を最小限に。私の影だけを、未来へ射出する」
しかし、今、彼女の前に立ちはだかる本当の脅威は、AIの観測網ではなかった。
真の敵は——自分自身の「記憶と声」の崩壊だった。
最後の役割を果たすため、カフェ「あおい」へ向かう山道を歩いている途中、光莉は突然、凍りついたように立ち止まった。
父の顔が——どうしても、思い出せないのだ。
最初は「輪郭が少しぼやける」程度だった。目の形。口元の皺。優しく笑ったときの表情。それらが一つ、また一つと、脳内の白い霧の中に沈んで溶けていく。必死に手繰り寄せようとすればするほど、記憶のインクは水に濡れたように滲み、消え去ってしまう。
「……違う。あの日の、お父さんは、もっと——」
彼女はその場に激しくしゃがみ込み、すがるようにノートを開いた。父が残した言葉を書き写したページを、指の腹で何度もなぞる。
インクの凹凸。紙のざらつき。その物理的な感触だけが、父の存在を彼女の心に繋ぎ止めていた。だが、そのインクの跡さえも、自分の視界の衰えとともに、少しずつぼやけていくような恐怖に襲われる。
「……お父さん」
呼びかけた。しかしその瞬間、第二の絶望が彼女の喉を締め付けた。
自分の声が——信じられないほど、遠くから聞こえるのだ。自分の喉が震え、唇が動いているはずなのに、まるで誰か他人が遥か彼方のガラスの向こうで話しているかのように音が歪み、途切れる。
「お父——」
途中で音が完全に消える。喉は確かに動いているのに、世界に音が響かない。壊れたラジオのように、ノイズ混じりの「——さん」という残響だけが、遅れて戻ってくる。
「お父さん! お父さん!」
彼女は狂ったように何度も叫んだ。声を出している実感はある。温かい振動もある。しかし、それは周囲の空気を震わせず、壁に反射もせず、ただ虚空へと吸い込まれて消えていく。自分だけが、世界の音響システムから完全に隔絶されてしまったかのようだった。
光莉は木の陰に身を潜め、追手のAIの気配をやり過ごしながら、激しく跳ねる心臓の鼓動を感じていた。
規則的ではなく、恐怖で不揃いに波打つこの鼓動こそが、彼女がまだ「不完全な人間」であることの最後の証明だった。
鏡を見なくとも分かっていた。自分の顔は、もう二重にブレているのではない。完全に「消失」しかけているのだ。自分の存在そのものが、AIの論理の隙間をすり抜けて溶けていく。
『私の伝線は、AIの目を欺く。冷たい手、雨の冷たさ、取るに足らない日常……それらが、私を管理から守ってくれる』
かつて、そう信じていた。——しかし、それらを守るための「思い出す力」も、「叫ぶための声」も、もう彼女の肉体には残されていない。
その絶対的な虚無の事実に、光莉は生まれて初めて、底寒い恐怖を覚えた。
風が彼女の髪を激しく揺らし、太ももの裏側の、限界までほつれたストッキングの伝線を優しく撫で上げていく。光莉はもう、それを直そうとはしなかった。直す力も、その意味さえも、もう残っていなかったから。
だが、風に揺れるその一本の「ほつれ糸」のチクチクとした微かな拒絶の感触だけが、暗闇の中でなお、彼女の全皮膚に鮮烈に主張し続けていた。
「これだけは——まだ、私のもの」
声にならない呟きだった。しかし、その「ないはずの伝線の痒み」だけが、彼女自身を、彼女という名のノイズに、確かに繋ぎ止めていた。
外の風の音は、もう彼女の耳には届いていなかった。それでも、彼女の指先は、確かにその伝線を強く、強く、握りしめていた。




