第51話 侵食【過去】第5話「実存の輪郭」
「私は、消える。でも、その消え方にも美学がある。ただシステムに抹消されるのではなく、この世界に狂おしいほどの痕跡を遺して消える。それこそが、私の『人間としての卒業』だ」
光莉は、湿った緑に埋もれた廃墟の隠れ家の中で、静かに呟いた。
彼女の肉体は、もう限界を迎えつつあった。脳内の非論理的回路をデジタル化する過酷な作業はすべて完了し、物理的呪いは、あのカフェ「あおい」のテーブルの傷に深く、深く刻み込まれた。未来の誰かに残すべきものは、すべてこの手で終えていた。
その日の朝、彼女は決定的な異変に気づいた。自分の左手が——ほんの少しだけ、透けている。
驚きはなかった。むしろ、ずっと前から予感していたことだった。しかし、その「透け方」は、彼女が想像していたよりもずっと穏やかで、残酷なほどにゆっくりとした速度だった。
指先から始まり、手のひらへ、そして手首へ。まるで透明な水の中に一滴の墨が溶け出すように、世界の境界線がぼやけていく。
彼女は震える右手で、左手の甲をそっと撫でてみた。
触れる。皮膚の確かな感触がある。まだかすかに温かい。でも、そこに確かに「ある」はずの自分の手が、向こう側にある古びた壁紙の模様を、おぼろげに透かし見せているのだ。
「……ゆっくりなんだな」
彼女はぽつりと呟いた。恐怖よりも先に、どこか奇妙な愛おしさが胸の奥に広がっていく。自分が、自分という存在の端っこから少しずつ消え去っていくその速度が、あまりにも穏やかで、ゆるやかだった。
「……始まったんだ」
光莉はその透けた手を、陽光にかざすようにじっと見つめ続けた。しかし、感傷に浸る時間はなかった。実存が消えかけているという厳然たる焦燥が、彼女の胸の奥をかすかに締め付ける。
遮断された窓の、ほんの僅かな木板の隙間から、春の柔らかな光が差し込み、彼女の痩せ細った頰を静かに照らしていた。足元のストッキングの伝線は、もう限界までほつれ、指先で触れるだけで細い糸が簡単にぷつりと切れた。
彼女はその伝線の跡を、指の腹でゆっくりとなぞった。
そのざらついた感触だけは、今も確かに「そこにある」。糸が肌を擦る微かな抵抗。
それだけが、彼女を、この世界に辛うじて繋ぎ止める最後の錨だった。
光莉は最後のノートを開き、短く、しかし魂を込めて一筆を書き加えた。
『AIは私を追う。でも、私の「伝線」には決して届かない。ストッキングのほつれ、指先の熱、コーヒーの焦げた苦味——これらは、デジタルという冷徹な二進法では絶対に捉えられないノイズだから。私の体温が、未来の誰かの指先に残ることを、私は信じている』
書き終え、ペンを置いたとき。彼女の左手は——もう光に溶けて、ほとんど見えなくなっていた。ペンを握りしめていた右手だけが、かろうじて現世の形を留めている。
「急がなきゃ」
光莉はノートを閉じ、深く息を吐いた。その唇には、静かな微笑が浮かんでいた。
閉ざされた部屋の外では、春の風が、廃墟の隙間を優しく通り抜けていた。




