第37話 物理的呪い【未来】第1話「カフェの発掘」
田中が崩壊寸前のカフェ「あおい」のテーブルから、謎のコード「stocking_night_0612」をサンプリング(転写)してから、さらに数週間が経過していた。
あの最初の探索の時は、ただそこにある「傷そのもの」を発見し、記録を持ち帰るだけで精一杯だった。しかし、今の田中の胸中にある目的は、あの時とは決定的に異なっている。
Eは、上層部から下された感情抑制処置の影響によって、未だに生気を失った虚ろな目を向けたまま、思考の深淵に囚われていた。
彼女の代わりに動けるのは自分しかいない。いや、彼女の「透明な視線」がいつか必ず戻ってきたその時に備えて——田中は、改ざん不能な不変の「証拠」を打ち立てる必要があったのだ。
それからの数日間、0612エリアを包む監視の網はさらにその密度を増していった。管理AIのセンサーは、エリアに配属された七人の微かな生体反応、視線の不自然な揺らぎ、指先の微小な震えの一つ一つにまで不穏なノイズ(例外値)を検知しようと、執拗にプロセッサを駆動させていた。
それでも田中は、「調査員」というシステムから与えられたわずかな職務権限の隙間を縫い、昼休みの空白時間を突いて、再びあのカフェ「あおい」の遺構へと単身向かった。
遺構は、数週間前に訪れたときよりも確実に荒廃が進んでいた。経年劣化によって屋根の一部はさらに内側へと崩落し、ひび割れた床には厚い埃と枯れ葉が幾重にも積もっている。
コンクリートの壁には青黒いカビの斑点がじわじわと領域を広げていた。
かつて2040年代の穏やかな日常の中で人々が憩い、賑わっていたであろうカウンターやボックス席のテーブルは無惨に歪み、時間の重みに耐えきれずに斜めへと傾いでいる。
しかし、不思議なことに、窓際に配置されたあのテーブルだけは、まるで見えない力の防壁に守られているかのように、静かにその形を保ち続けていた。
田中はそのテーブルの裏側へと、迷うことなく右手を伸ばした。
指先が、百年の歳月を経て乾燥しきった木のざらついた表面を、ゆっくりと滑っていく。
田中の指頭がその深部に触れた瞬間、木肌はまるで生き物の肌のような生々しい熱を帯び始めた。
それは、圧倒的な「生の痕跡」だった。田中はその放射される熱の奥に、かつてこの狭い座席で、世界の終わりを見つめながら誰かが流した、名前のない涙の温度を感じ取っていた。
その熱量は、前回訪れたときよりも明らかに強くなっていた。まるで、その文字を刻んだ張本人が、今もなおそこに腰掛け、未来の誰かが触れるのをじっと待ち続けているかのように。
「ここだ……絶対にここだ。間違いない」
彼は薄暗い床下に目を細め、指の腹で何度も、何度も、木目の繊維を丁寧に擦り続けた。堆積した埃を払い、強く押し込んで探る。
すると、指先に明確な「抵抗」が引っかかった。百年以上前の強い筆圧と執念が、木の繊維の最深部にまで物理的に染み込んでいる。
「stocking_night_0612」
文字の並びは、以前エリア内で目撃したあの出所不明のメモの筆跡と、完全に一致していた。
しかし、今回の発見は、単なる偶然の傷跡などでは断じてなかった。
それは、明確な意志を持ってこの座標に定着させられた、儀式的な「刻印」そのものだった。
一文字一文字の曲線の力強さと、直線部分のところどころに見える微微たる震え。
それが、かつてこの場所にいた書き手の壮絶な孤独と、時間軸を超えて未来へとメッセージを到達させようとする狂おしいほどの執念を、田中の指先へと直接伝導させてくる。
田中は震える指先で、その文字の凹凸を幾度もなぞり直した。疼くような温かさが指先から手首、そして腕の内側を這い上がって、彼の胸の奥底へとじんわりと、染み渡っていった。
その刹那、物理的には絶対にあり得ないはずの現象が起きた。田中の鼻腔の奥に、古いコーヒー豆が焦げたような、香ばしくも苦い香りが一瞬だけ鮮烈に蘇ったのだ。
百年の時間を飛び越えてきた、五感のバグ。
しかしそれは、デジタルデータのように消去も改ざんもできない、確かな「人間の記憶の味」として、そこに存在していた。
彼はポケットから、管理端末として支給されているスマートフォンを素早く取り出した。
前回までは、己の皮膚の感覚だけを頼りにその存在を確かめるに留めていた。しかし、これからの戦いにおいて、それでは不十分だ。康介の持つリストの謎、そしてEの瞳に光を取り戻すためには、目に見える客観的な「事実」として、この光景を持ち帰らなければならない。
田中はスマートフォンのレンズをテーブルの裏側へと向け、その微細な刻印の凹凸、木目の歪みを、陰影が最も際立つ角度で慎重に写真に収めた。
最後に、埃を優しく払い、自らの指先を焦がすような熱をもう一度だけ確かめてから、何食わぬ顔でエリアの監視網へと引き返した。
施設への帰り道、彼の右手の指先は、手袋越しでもわかるほどに熱く、絶え間なく脈打ち続けていた。
その消えない体温は、Eの「透明な視線」が強引に奪われた今、この歪んだ0612エリアに集められた七人の中で、光莉の呪いを受け継ぐ最も鮮烈な「人間の証」となり始めていた。
――『作品情報』――
「彼女の計画_外伝」――康介の章――
100年を越える物語は繋がっているのか。
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