第2話 静かなる異常【未来】 第2話「名もなき箱」
その箱が届いたのは、午後のことだった。
配送ドローンが静かに着陸し、無人搬送車が箱をEのデスクまで運んでくる。古びた木箱。表面はすり切れ、角は丸くなっている。木目の隙間に、何十年、何百年もの埃が染み込んでいる。でも、不思議と手触りは滑らかだった。誰かが長い間、大切に触れてきたような。
Eは箱を手に取った瞬間、背筋に冷たいものが走った。出所不明。保管履歴なし。データ形式は百年以上前のもの。AIは「解析不能」と表示している。
彼女は深呼吸をして、箱を開けた。
その瞬間——鼻腔の奥に泥臭い「コーヒーの匂い」がこびりついた。
網膜を焼くAIのモニターは、清浄を意味する無機質な「緑色の光」を放ち、無臭・正常だと断じている。
その潔癖な光の裏側で、Eだけが、百年前の湿った土のような茶褐色の濁りに「むせて」いた。
「……何これ」
Eは思わず呟いた。指先が震える。心臓の鼓動が速くなる。彼女は箱の中を覗き込んだ。そこには、一枚の古い記憶媒体。光の反射で、かすかに虹色に輝いている。
虹色の光の中に、文字列が浮かび上がった。
『stocking_night_0612』
Eは息を飲んだ。その文字列を、慌ててノートに書き留めた。指先が熱い。熱が、ペンを持つ手に伝わり、文字が少し震える。
彼女はノートにこっそりと書き留めた。
「本日、出所不明のデータ箱を確認。コーヒーの匂いを感じる。AIは異常なし。指先に違和感あり。記憶媒体に触れた時、虹色に浮かび上がった『stocking_night_0612』という文字列を確認。原因不明。でも、これは。無視できない」
その文字を書き終えた時、彼女は自分の手がまだ震えていることに気づいた。震えは、なかなか止まらなかった。
翌朝。Eはまだそのデータのことを考えていた。
昨夜、家に帰ってからも、箱の匂いが鼻腔に残っていたような気がした。何度も手を洗ったのに、指先の感触が消えない。何かに吸い付いて離れない、あの違和感。
出勤すると、データはAIの最終判定を待っていた。画面には赤い文字が点滅している。
「解析不能。保存価値なし。廃棄推奨」
Eは「廃棄」ボタンを押そうとした。指が伸びる。でも——指先が、ボタンの数ミリ手前で止まった。
押せない。
指が何かに吸い付いて離れない。物理的な、磁気的な違和感。彼女の指は震えている。心臓がドクドクと打つ。
画面には「取るに足らないこと」が延々と綴られていた。
「今日のコーヒーは苦かった。でも、それも悪くなかった」
「ストッキングに伝線が入った。誰にも気づかれなかった。でも、自分にはわかった」
「誰かの視線が気になった。その視線は、私を『私』として見ていた」
どれも取るに足らない。AIが「ゴミ」と判定するのも当然だ。
でも——Eはその言葉を、何度も何度も読んだ。胸の奥がざわつく。彼女にはわからなかった。この「無価値なもの」の中に、何かがある。AIにはわからない何かが。
(アーカイバは『不快感』を解析できない。そのデータは『ノイズ』として廃棄される——研修でそう教わった。でも、その『ノイズ』こそが、今の彼女には最も重要に思えた。)
「E、何をしている」
康介の声が背後からした。
彼女は慌てて振り返る。康介は彼女の画面を覗き込み、眉をひそめた。彼の呼吸が、一瞬だけ乱れたように見えた。
「まだこのデータを処理していなかったのか」
「あの……もう少しだけ、時間を」
「AIの判定は『廃棄』だ。早く処理しろ。無駄なデータを抱えていると、エリア全体の効率が落ちる」
「でも……」
「でも?」
康介の目が冷たく光る。Eは唇を噛んだ。言いたいことはたくさんあった。でも、それらはどれも、康介には「非科学的な感情論」にしか聞こえないだろう。
彼女は画面を見つめた。「廃棄」ボタンが赤く光っている。指を伸ばす。震える。でも——押せない。
彼女は、そのデータを「保留」にした。
康介には言えない。何て言えばいいのかもわからない。でも、このデータを消すことは、どうしてもできなかった。それは、論理じゃない。効率じゃない。でも、彼女の「感覚」が、そうさせていた。
彼女はノートに書き足した。
「本日、AI判定『廃棄』。しかし、指が動かない。何かに吸い付いて離れない。このデータは、消してはいけない気がする。理由はわからない。でも——この『わからなさ』こそが、大事なのかもしれない」
ペンが止まる。彼女はその先を、書くことができなかった。ただ、自分の指先を見つめていた。まだ、熱い。
昼休み。Eはこっそりと田中を呼び出した。
カフェテリアは静かだった。Eは隅っこの席を選び、小声で話し始めた。
「田中さん、ちょっといいですか」
「あの、この前のデータのことなんですけど——」
「例のゴミデータ?」
「はい。あれ、何か変なんです。開けたら、コーヒーの匂いがしたんです。百年以上前のデータなのに。それに、指先が——何かに吸い付いて離れなくて」
田中の目が、一瞬で輝いた。
「それって、もしかして——カフェ『あおい』の噂じゃないですか!」
彼は自分のノートを開き、びっしりと書き込まれたメモを指さした。
「昔、そこに座ると誰かと話したくなるんだって。話した人はみんな、少しだけ軽くなって帰るんだとか。でね、そのカフェに、ある女性がよく来てたんだって。誰も名前を知らない。誰も顔を覚えていない。でも、その女性は、百年以上先の誰かに、何かを伝えたかったらしい」
Eは自分の胸の奥が、なぜか、じんわりと熱くなるのを感じた。
「Eさん」
田中が真剣な目で言った。
「何か感じるものがあったら、それを信じたほうがいいですよ。AIが正しいとは限らない。このエリアのルールが正しいとも限らない。少なくとも、私はそう思います」
Eは顔を上げた。
田中は本気で信じている。
この「噂」を。
この「誰も見たことがない誰か」を。
「ありがとうございます、田中さん」
彼女は小さく笑った。
それが、今日初めての笑顔だった。
田中も笑い返す。
二人の間に、温かい沈黙が流れた。
カフェテリアの窓から差し込む光が、彼女のコーヒーカップに小さな虹を作っていた。




