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新作SF長編【彼女の時空】「ずれ」は、人類最後の武器である。「静かなる最適化への、人類最後の反逆。すべては一本の伝線から始まった」  作者: Taku
『彼女の時空「上巻」:卒業』

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第1話 静かなる異常【未来】第1話「完璧な無音」

とある朝、Eはコーヒーの匂いでむせた。

だが、0612エリアは「完全無臭」と記録されている。

そしてその匂いは、百年以上前のものだった。



時は23世紀。


デジタルアーカイブセンター「0612エリア」の朝は、いつもと同じ静けさで始まる。

空調の低い、ほとんど聞こえない唸りだけが響いている。

その“ほとんど聞こえない”音が、逆に耳の奥をじわりと圧迫していた。

床を這う空気清浄機の振動すら、完璧に計算された微細な周波数に抑えられている。


壁に埋め込まれた無数のセンサーが、温度・湿度・照度・空気の流れ——すべてを最適値に保っている。


壁面のディスプレイには、緑色の文字が静かに流れていた。「0612エリア室内:音量20db未満/発言300文字未満推奨」。


このエリアを管理するのは、統合管理AI『アーカイバ』。22世紀初頭に開発された、人間の「効率」と「最適化」を唯一の使命とするシステムだ。


アーカイバは感情を持たない。判断基準はただ一つ「効率的か、否か」。

アーカイバの声は、無機質な女性の合成音声。表示はすべて無機質な緑色。それが「正常」の証だった。


誰もが決まった時間に決まった席につき、決まった作業をこなす。

足音、咳払い、コーヒーカップを置く微かな残響。

それらすべての「雑音」は、壁のモニターに赤いアラートを灯す。


康介は言葉を放たない。


ただ無言で、許容デシベルを超えたことを示す数値を指差すだけだ。


彼が作り上げたのは、静寂ではない。


「音を立てることへの恐怖」で塗り固められた、暴力的なまでの無音だった。


誰も知らない——この無音が、ある女性への「狂おしいまでの献身」の裏返しであることを。


康介の家系に代々受け継がれる一枚のメモ。そこに刻まれた「stocking_night_0612」。


彼は幼い頃から知っていた。この数字が「何か」を守るための鍵であること。


そして、その「何か」は、とてもか細い。


風で消える。雑音でかき消される。大きな声で潰れる。


だからこそ、このエリアを「無音」で満たさなければならない。


音を立てるな。目立つな。静かにしろ。


光莉という、会ったことのない女性を守らねばならないという、懸命な儀式。


彼は今日も、その「忠誠」を胸に、許容デシベルを超えた数値を指差す。


その指先が、かすかに熱いことにも気づかずに。


このセンターには、AIが『非効率なノイズ』として切り捨てるはずの、過敏すぎる五感や固有の『バグ』を抱えた者たちが、ある意図のもとに集められていた。


誰が、なぜ集めたのか。それを知る者は、エリアの中にほとんどいなかった。


ただ、代々、このエリアを管理する者の家系にだけ、一枚の古いメモと、ある「リスト」が受け継がれていた。


リストに記載された「特徴」を持つ者を、このエリアに集めよ。


その理由は、語られていない。ただ、「いつか、その意味がわかる日が来る」とだけ。


Eは自分のデスクで、今日もコーヒーを淹れていた。


カップの取っ手を必ず右側、正確に0度の位置に据える。


指先で微調整する。1ミリ。0.5ミリ。0.1ミリ。


足りない。まだ、足りない。


もし1ミリでも角度が狂えば、背骨の裏側を冷たい針でなぞられるような、耐えがたい痒みが神経を走るのだ。


その痒みは、掻くことができない。背骨の内側、神経の最深部から湧き上がってくる。爪を立てようとしても、そこには皮膚すらない。ただ、骨の奥でじくじくと疼くだけ。


彼女は過去に一度だけ、その痒みに耐えきれず背中を壁に擦りつけたことがある。そのときの摩擦の感触が、今でも指先に残っている。もちろん、痒みは消えなかった。むしろ、増した。


それは彼女の脳が発する、管理しきれない唯一の「肉体的なバグ」だった。


Eは深呼吸をした。カップの角度を、さらに0.05ミリ調整する。


今度こそ、大丈夫。


彼女はゆっくりと手を離した。指先が、ほんの少しだけ震えている。


コーヒーメーカーのスイッチを入れるタイミングも、秒単位で決まっている。


ボタンを押す指の圧力も。カップを受け取る左手の角度も。口に運ぶまでの秒数も。すべて決まっている。


一口含んだとき、舌の上で広がる苦味。その温度。喉を通る速さ。


「うん、いつも通り」


もし、そのどれか一つでも「最適」から外れれば、また、あの痒みがやってくる。背骨の内側を、冷たい針でなぞられるように。


理由はよく覚えていない。


ただ、この通りにしないと、一日が落ち着かない。


落ち着かない。その言葉では足りない。正確に言えば、自分の皮膚の内側に自分が収まらない感じ。微細なずれが、全身の感覚を狂わせる。


それが、彼女にとって唯一の「自分らしさ」だった。


彼女の仕事はデータの監視だ。膨大な情報の海から「異常」を探し出し、報告する。でも、このエリアに本当の異常はほとんど訪れない。


何もかもが最適化され、管理され、効率的に回っている。それが康介の手腕だった。

部下たちは彼を「完璧主義者」と呼ぶ。

でもEは、それだけではない気がしていた。

康介には、説明できない「使命」のようなものが、彼自身を縛っているように見えた。


「おはようございまーす、Eさん!」


明るい声が飛び込んできた。田中だ。28歳。このエリアで一番「無駄なこと」をしている男。調査員という肩書きだが、彼の仕事はどちらかといえば「噂の収集」に近い。今日も彼は、誰も読まない古い記録や廃棄データの中から、都市伝説めいた話を探している。デスクには黄ばんだ紙や古い写真が山積みだ。康介は何度か注意したが、田中は「これも調査のうちです」と笑ってやめない。


Eは小さく笑った。このエリアで、Eが最も気兼ねなく話せるのは田中かもしれない。彼はEの「無駄な発見」にも、真剣に耳を傾けてくれる。


沙織が通りがかりに軽く肩をすくめた。Eの同期で26歳。修復技術者。Eは彼女を「別格」だと思っている。仕事の能力も、物事の捉え方も、自分とは全然違う。沙織はいつも冷静で、感情に流されることがない。その代わり、彼女の「感覚」は誰よりも鋭い。


拓が書類を抱えて通りかかる。38歳。主任研究員。「まとめ役」だ。彼は穏やかで、誰に対しても同じ態度で接する。


純が声をかけた。30歳。映像記録担当。Eが最も信頼する先輩だ。純は直接的な指示はしない。でも、その鋭い視点はEに何かを考えさせる。


瞳が大きな声で笑っている。35歳。コミュニケーション担当。誰とでも話せて、誰の「四方山話」も集めてしまう。


Eは自分のデスクに座り、時計をちらりと見た。


「……今日は7秒か」


朝の喧騒が、いつものリズムで流れていく。コーヒーカップの触れ合う音すら、完璧に抑えられた最小限の音。それらが混ざり合って、このエリアの「日常」を作っている。


Eはもう一度、データの画面を見た。指先が、かすかに熱くなるような気がした。気のせいだ。そう思いたかった。


でも、彼女はそのデータを「廃棄」ボタンに移動させることが、どうしてもできなかった。


※本作の背景にある「最適化された世界の記録」は、創作エッセイ『観測者の時空』に詳しく記されています。また、物語の源流として『彼女の計画』も同じ世界線を共有していますが、本作は単体で完結する物語としてお楽しみいただけます。

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