第18話 非合理の武器【未来】第1話「康介の葛藤」
康介は一人、自分のデスクに残っていた。
エリアの全体照明はすでに自動で落とされ、モニターの青白い光だけが彼の顔を冷たく照らしている。
その青白さは、彼をまるで生気のない彫像のように見せていた。彼は重い沈黙を破るように、机の引き出しを開けた。
鍵を回す金属の音が、静寂に鋭く響く。
彼は防犯カメラの死角をなぞるように周りを見回し、誰もいないことを確認してから、奥にしまってある一枚のメモを取り出した。
黄ばんだ紙。折り目の跡。インクの滲み。それは、データ化されることなく歴史の隙間にこぼれ落ちた、呪いのような実体だった。
表面に書かれている文字。
「stocking_night_0612」
彼はメモを裏返した。
そこには、別のより硬質で容赦のない筆跡で、こう書かれていた。
「絶対に、守り抜け」
康介は息を飲んだ。喉の奥が、砂を噛んだように乾く。
この言葉は、彼が子供の頃から、耳鳴りのように知っている。父から、祖父から、そのまた前から——家系に代々受け継がれてきた「使命」。
100年以上前の時代から、理由も意味もわからないまま「守り抜け」と言われ続けてきたもの。それが何なのか、彼は今もわからない。
この合理的な管理都市のどこを探しても、その答えを出力してくれるデータベースは存在しなかった。
Eや田中が言い始めた「stocking_night_0612」は、100年以上前のことと繋がっているのは間違いなさそうだ。
でも、守り抜くこととは何なのか。
Eが保留にしたデータ、田中がカフェ「あおい」で見つけた傷……それらが今、実体を持った波となって、康介の前に迫ってきている。
彼が築いてきた安泰な日常の堤防を、内側から決壊させようとしている。
彼の指先が、メモに触れた瞬間、熱くなった。
最初は微かな温もり。でも、次の瞬間——皮膚の内側で何かが爆発するように弾けた。火傷に近い、鋭利な痛み。それでいて、離したくても離せない。
痛い。熱い。でも、その痛みがなぜか——正しかった。この熱こそが、自分が受け継いできた「何か」の証だと、康介は子供の頃から知っていた。
それは、電子の波に洗われて失われた、人間がかつて持っていた『温度』そのものだった。
彼は指を開こうとした。でも、開けなかった。指の関節が固まっているのではなく、むしろ逆だ。指が「自らの意志で」メモに吸い付いていた。
Eが言っていた——「吸い付いて離れない」。
それは、Eだけの感覚ではなかった。康介も、同じものを持っていた。ただ、合理という名の麻酔を自分に打ち続け、ずっと感じないふりをしてきただけだ。
康介はメモを握りしめたまま、目を閉じた。
掌の中で、紙がカサリと小さく悲鳴をあげる。
守り抜くこととは、何を捨てることなのか。
この都市が求める『正常な市民』としての未来か、それとも、目の前のシステムに取り込まれようとしている同僚か。
Eを見捨てることが「合理的」だとしたら、自分はそれを守り抜いていると言えるのか。
彼はメモを祈るように胸に押し当て、しばらく動けなかった。静まり返ったオフィスの中で、使命と現実の狭間で、彼の心が初めて音を立てて軋んだ。
その軋みは、暗闇の中で静かに、しかし確実に世界へ伝線していくようだった。
――『作品情報』――
「彼女の計画_外伝」――康介の章――
100年を越える物語は繋がっているのか。
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