第12話 無価値なものたち【未来】第1話「匿名の記録」
それからさらに数日が経った。Eのデスクには、あの「保留」にしたデータと、田中がカフェ「あおい」から持ち帰ったメモのコピーが並べて置かれている。
彼女は毎日、それらを何度も見比べた。同じID。同じ筆圧の震え。百年の時を超えて、二つの「痕跡」がここで出会った。偶然では済まされない。彼女は確信していた。指先に残る熱が、その確信を裏付けていた。
その日、拓が珍しくEのデスクに立ち寄った。彼は普段、あまり深く踏み込まない。何かあれば「まあ、そういうこともある」と流してしまう。
でも、今日は違った。彼はEの机の上のメモを手に取り、しばらく眺めていた。紙の端を指でなぞり、折り目の跡を確かめるように。
「これ、どこで見つけたんだ?」
「田中さんが、カフェ『あおい』の遺構で。テーブルの裏側に刻まれていたそうです」
「へえ……」
拓はそれだけ言って、メモを机に戻した。何か言いたげだったが、言わなかった。Eはその背中を見送りながら、彼もまた何かを感じているのではないかと思った。
拓はよく「わからない」という発言をする。彼にとって「わからない」は、逃げではなく、一つの答えだった。彼はいつもそうだ。答えを急がない。決めつけない。それが、彼の誠実さだった。
その日の午後、Eはふとネット上に散らばる匿名の記録群を目にした。普段なら、AIが「ゴミ」と判定して即座にフィルタリングされる類のものだ。誰が書いたのかわからない。いつ書かれたのかもわからない。でも、そこには「取るに足らないこと」が、延々と綴られていた。
Eはそのページを開いた瞬間、背筋に冷たいものが走った。この「手触り」——あのデータ箱と同じだ。
彼女は画面をスクロールしながら、まるで誰かの声が直接耳に届くように感じた。
「今日のコーヒーは苦かった。いつもより豆の量を間違えたみたいだ。でも、それはそれで悪くなかった」
「ストッキングに伝線が入った。誰にも気づかれなかった。でも、自分にはわかった。この小さな違和感が、私という人間を構成している」
「誰かの視線が気になった。理由はわからない。でも、その視線は、私を『私』として見ていたような気がした」
「雨の日はいつも憂鬱だ。でも、誰かと一緒だと違う気がする」
Eはその言葉を、何度も何度も読んだ。どれも取るに足らない。AIが「ゴミ」と判定するのも当然だ。意味がない。目的がない。効率がない。このエリアのルールでは、それらは全て「無価値」だ。でも——彼女の指先が熱くなる。あのデータ箱を開けた時と同じ、吸い付いて離れない感覚。
彼女はその記録群を、自分のノートに書き写し始めた。一字一句、丁寧に。ペン先が紙を撫でる感触が、彼女には、いや人間にとって必要な違和感だと感じられた。
「Eさん、何してるんですか?」
沙織が通りがかりに声をかけた。彼女の手には、修復作業中の古いデータが入った箱がある。沙織はEの同期で、仕事は優秀だ。Eは彼女のことを、冷静で感情を表に出さない「鋭い感覚の持ち主」だと思っている。自分の「感覚」を信じて突き進むEとは違い、沙織はいつも論理的で、感情に流されることがない。でも、彼女の「感覚」は誰よりも鋭い。
「あの……ネットに落ちてた、ただのゴミデータを」
「ゴミデータ?」
沙織はEのノートを覗き込んだ。彼女の目が、文字を追う。すると、突然彼女の顔色が変わった。喉の奥で小さな吐き気がこみ上げ、彼女は思わず口元を押さえた。
「この文字の並び……内臓が蠢いているみたい……」
沙織は顔をしかめ、画面から目を背けた。AIのセンサーが一瞬だけ乱れ、部屋の照明がわずかにちらついた。沙織の生理的な拒絶反応が、AIの完璧な世界に小さな「ノイズ」を生んでいた。




