第100話 【伝線の結晶】 第4話 「社会の綻び」(4/10)
瞳は、駅前の交差点に立っていた。
特に用事があったわけではない。ただ、なんとなく歩いていたら、ここに来た。信号が変わる。青。人々が渡り始める。誰も急いでいない。誰も遅れていない。最適なペースで、最適な間隔で。
でも――
信号の切り替わりが、ほんの数秒だけズレた気がした。気のせいかと思った。でも、隣にいた女性も、小さく首をかしげた。
「……今、ちょっとおかしかったよね」
「え?」
「いや、なんでもない」
女性はそう言って歩き出した。瞳はその後ろ姿を見送った。
田中は、街の様子を観察していた。
「観察」と言っても、特に何かを調べているわけではない。ただ、いつも通りに歩いているだけだ。でも――
SNSのタイムラインが、少しだけ「ずれている」ことに気づいた。いつもなら一番上に表示される「おすすめ」の投稿が、なぜか三番目に下がっている。エラーではない。バグでもない。ただ「いつもと違う」。
誰かが「なんとなく変だ」と投稿していた。理由はわからない。でも、いいねがやけに多い。
街の至る所に「あの数字」を見かけるようになった。
駅のホームの支柱。誰が書いたのかわからない落書き。地下街の壁。消されかけているのに、また誰かが書き足す。バスの座席の背もたれ。シールになっている。
それらは決して目立たない。気にしなければ、一生気づかない。でも――一度気づくと、どこにでもあるような気がしてくる。
女子高生たちが話していた。
「これ、知ってる?」
「ああ、あれね。意味は知らない」
「でも、なんか持ってると安心するんだよね」
「お守り」と誰かが言った。誰が最初に言い出したのか、誰も覚えていなかった。でも、その言葉が広がっていた。
瞳はカフェテリアで休んでいた。隣の席では、若いサラリーマンたちが話している。
「転職、どうする?」
「なんとなく、やめた」
「え、なんで? 条件いいじゃん」
「わからない。でも――なんか、違う気がして」
「条件がいいのに?」
「うん。でも――熱がないっていうか」
「熱?」
「自分の熱。これでいいのかなって、なんとなく」
その「なんとなく」を、瞳は聞き逃さなかった。
田中は、小さな書店の前に立っていた。
ベストセラーコーナー。ランキング一位の本。でも――彼の手は、その隣の地味な装丁の本を手に取っていた。理由はわからない。なんとなく、手が伸びた。
レジで並んでいると、前にいた女性が「0612」と書かれたストラップをつけていた。
「それ、どこで買ったんですか?」
田中が尋ねると、女性は笑った。
「誰かにもらったんです。意味は知らないんですけど、なんか手放せなくて」
「……わかります」
田中は答えた。本当にわかったかどうかは、自分でもよくわからなかった。でも――なぜか、そう言わずにはいられなかった。
瞳のスマートフォンに、見知らぬ番号からメッセージが届いた。
「集まりませんか。あの数字に『感じた』者たちで」
差出人は名乗らなかった。でも――彼女はそのメッセージを消せなかった。
理由はわからない。
でも――なんとなく。
街の空気が、ほんの少しだけ重くなった気がした。
誰のせいでもない。何のせいでもない。でも――確かに、何かが変わろうとしていた。
田中は自分の指先を見た。まだ熱い。その熱は、自分のものなのか誰かのものなのか。もうわからない。でも――彼はその熱を手放したくなかった。
瞳は窓の外を見た。誰かが立っている。誰かが見ている。気のせいかもしれない。でも――もし気のせいじゃなかったら。
その日、街のあちこちで、誰かが立ち止まった。誰かが考えた。誰かが「なんとなく」を口にした。
誰も説明できなかった。でも――それが「伝線」というものだった。




