第98話 【伝線の結晶】 第2話 「持ち寄る」(2/10)
0612エリアのカフェスペースは、普段は誰も使わない。
元は休憩室だった場所を、康介が「必要なら使ってくれ」と開放したのだ。使う者はほとんどいない。
でも――今夜は違った。七人が集まっている。そして、もう一人――画面の向こうに。
Eの呼びかけだった。たった一行のメッセージ。それに皆が応じた。あの出来事以来、全員が集まるのは久しぶりだ。
「……久しぶりだな」
康介が口を開いた。誰も答えない。でも、その沈黙は気まずくなかった。むしろ、それが自然だった。
カフェスペースの片隅に、小型の端末が置かれている。その画面に、悟の姿が映っていた。北の施設。暁グループのリーダー。彼はそちらから会議に参加している。表情は読み取れない。雪の降る窓を背にして、彼はじっとこちらを見つめている。
Eが自分の指先を見せた。
「ここに、熱が残っている。自分のじゃない」
瞳が続ける。
「私のところでは、『あの数字』が会話に混ざる。誰が言い出したか、誰も覚えていない」
純がタブレットを開いた。
「映像にあの数字が写り込む。編集しても消えない」
沙織がスケッチブックを広げた。
「気づいたら、これを描いてた」
彼女はペンを走らせた。金色の線。夕焼けのような色。指先から直接熱が紙に染み込んでいくような感覚があった。線をなぞるたび、自分の熱が何かに変わる。それが気持ちよかった。少し怖かった。
「線をなぞると、指先が熱い。どうしてかはわからない。でも――これが『伝線』ってやつなんじゃないかな」
田中が自分の手のひらを見つめた。
「俺の指先の熱は、ずっと消えない。でも――最近、それが誰かのものみたいに感じる」
拓が呟く。
「『わからない』って言おうとすると、あの数字にすり替わる。自分の意志じゃない。言葉の奥で、誰かが呼吸している気がする」
康介は机の上に一枚のメモを置いた。
「これだ。父から受け継いだものだ」
黄ばんだ紙。折り目の跡。そこに書かれた数字。皆、知っている。過去に何度も見てきたメモだ。あの出来事の中で、何度も話題に上った。
「これを見てほしい」
康介はメモの端を指差した。そこには、見覚えのない筆跡があった。同じ数字。
「さっきまで、ここには何も書かれていなかった。少なくとも、あの時は――」
彼は言った。
「今日、机の引き出しを開けたら、これが増えていた」
Eがそのメモに触れた。指先が熱い。
「この熱、私のと同じだ」
康介はメモを手に取り、そっと見つめた。
「新しいインクの匂いがする。誰かが、ついさっき書いたような」
純が言う。
「誰が書いたの。いつ、どうやって」
誰も答えられなかった。
でも――その「わからなさ」が、むしろこの現象が本物である証のように思えた。
画面越しに、悟が口を開いた。
「……こちらも同じだ。昨日、暁が遺した場所に、新しい痕跡があった」
彼の声は低く、静かだった。でも、その言葉は確かに届いた。
その時、拓が言った。
「……ここって、なんか音が沈まないな。静かなんだけど、静かじゃない」
誰かがうなずく。誰もいないはずの席に、誰かの気配。使われていないはずのスペースに、誰かの震え。
沙織が言った。
「光莉さんも、ここに来たことがあるんだろうか」
誰も答えなかった。光莉はもういない。でも――彼女が遺した「伝線」は、今もここにある。
カフェのテーブルの傷。あの数字。
百年の旅。
Eが静かに言った。
「彼女は、ここに『何か』を刻んだ。私たちが感じているのは、その『残響』かもしれない」
悟が画面の向こうで頷いた。
「北も同じだ。暁が感じていた『冷たさ』が、今もここにある。それが最近――溶け始めている」
沙織は新しいスケッチを描き始めた。数字を「解く」のではない。その熱を「写し取る」のだ。
線を引くたびに、指先が熱くなる。指先から直接熱が紙に染み込んでいく。その熱を、手放さないために。
「感じるだけでいい」
Eが言った。
「言葉にできないことを、言葉にしようとすると、こぼれ落ちる。だから――感じる。それだけで」
康介がうなずく。
「私たちは、何かを『始める』んじゃない。ただ――自分の震えを手放さない。それだけだ」
画面越しに、悟の声が聞こえた。
「……ああ。それでいい」
その夜、沙織のスケッチは完成しなかった。でも――それでよかった。描くことが目的ではない。描き続けること。その手を止めないこと。
「伝線は、続く」
誰かが呟いた。
誰が言ったのか、覚えていない。
でも――その言葉は、確かにそこにあった。
カフェスペースの片隅で、誰も座っていない席が一つ、かすかに温かかった。
それは、光莉の席だったのかもしれない。あるいは、この熱をずっと追い続けていた誰かなのかもしれない。
誰にもわからない。
でも――その熱だけは、確かにそこにあった。
画面の向こうで、悟が小さくうなずいた。
その指先は、ほんの少しだけ温かかった。




