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5.

 一応は逃げ切れたらしい。

 ドアの外から聞こえていた足音も、4時限目開始のチャイムと共に消えていった。


 問題は、これからどうするかだ。

 バレないようにこっそり早退するのも手だが、それでこの状況が解決する保証はない。

 下手をすれば、家にまで生徒たちが押しかけてくるかもしれない。

 だから、これ以上は逃げられない。

 しっかりと向き合わなければ、事態は好転しないだろう。


 それは、目の前にいる彼女のことも。


「……なに?」


 いつの間に着替えたのか、制服姿の佐伯は、腕を組んだまま窓の外を眺めている。

 さっきまで雪だった空は、いつの間にか雨へと戻っていた。

 書庫の窓を細かな雨粒が叩いている。


「その……」


 言葉が出てこない。

 謝らなきゃいけない。

 そう思っているのに、何から話せばいいのか分からなかった。


「さっきは、その……悪かった」


 ようやく絞り出した声は、自分でも情けなくなるくらい小さかった。

 佐伯は返事をしない。

 ただ、窓ガラス越しに目が合った。


「……なにが?」


 そう言って振り返る彼女の表情は、やはりいつものそれとは違う。

 怒りなのか、失望なのか、僕には分からない。


「僕のために動いてくれてたのに、顔も見たくないとか、酷いことを言っちゃって……ごめん」


 佐伯は組んでいた腕をほどき、しばらく黙っていた。

 何かを考えるように唇を噛んでから、小さく息を吐く。

 

「……由依がさ、『誰か一人を選べ』って」

「委員長が?」

「うん」

「選ぶって……なにを?」

「チョコをくれた子の中から、好きな相手を選べって」

「それは……」

「『不特定多数に迫られるのなら、特定の一人と恋人になっちゃえば?』だってさ」

 

 なるほど、確かに一理ありそうだ。

 実際にそれが解決策となるかは別として、委員長なりに考えた末の結論なのだろう。

 でも――。

 

「ごめん。それは嫌だ」

「……なんで?」


 陸上部の部室での出来事が脳裏を過ぎる。

 普段とは違う小倉の声、表情、視線。

 あれはきっと、僕に向けられるべきものじゃない。

 僕が奪っていいものじゃない。

 それは他の女子も同じだ。

 僕が受け取ったのは、チョコだけじゃなかったから。


「僕は多分、本当に僕を好きな人じゃないとダメなんだ」


 こんな僕だって、人を好きになったことはある。

 人並みに恋をして、人並みに実らなかった痛みを知っている。

 その痛みを――それも他人の痛みを背負って生きられるほど、きっと僕は強くない。

 

「……あのさぁ。勝手に決めつけないでくれる?」


 静かに、佐伯は言った。


「なんでさぁ、本当は誰もアンタが好きじゃないって前提で喋ってんの?」


 握った拳をを震わせて、佐伯はスカートのポケットに手を入れる。


「ふざけんなっ!」


 そして、僕に何かを投げつけた。

 胸に当たって床に落ちたそれは、桜色の包装紙に包まれた細長い箱だった。


「佐伯、お前――」


 佐伯の目尻から、一筋の涙が流れていた。

 眉間に皺を寄せ、唇を噛み締め、体を小刻みに震わせて、彼女は僕を睨みつける。


「そうだよ。アタシも持ってきてたんだよ。でもなに? だから? ワケわかんないんだよっ――」


 制服の袖で何度も涙を拭いながら、佐伯は叫んだ。

 しかし、そうか。

 今日、佐伯の様子がおかしかったこととも合点がいく。


「ねぇ、ふざけないでよ……なんか的外れなこと考えてるでしょ」

「佐伯、だからこれは――」

「それさ、橘のこと考えながら1時間以上かけて選んだんだよ?」


 佐伯はゆっくり僕に近づいて、落ちた箱を両手で拾う。


「どう渡そうかなって昨日一日中考えててさ、直接渡すのはハズいから、朝イチで机に入れちゃおうって。その時間も、全部嘘なの?」


 そして、震える手で握りしめた。

 潰してしまいそうなほどに。


「……折角早起きしたのに、アンタの方が早くついてるしさ」

「佐伯……」

「困ってるのは自分だけみたいな顔しないでよ! アタシのこと被害者みたいに見ないでよ! アタシは、アタシだって……」


 ポタポタと垂れる涙が、桜色の包装紙に滲んでいく。


「……アタシだって、こんなに怖いんだもん」


 佐伯は僕の胸にそれを押し付ける。

 思わず受け止めると、彼女はそっと手を離した。

 

「じゃあ、教室戻るから」


 僕の横をすり抜けて、出口へ向かう。

 彼女が落ち着くまで放っておくべきなのだろうか。

 委員長と合流して、改めて二人で話し合うべきなのだろうか。


「……なに?」


 ごちゃごちゃと考えていたのに、僕の手は、彼女の腕を掴んでいた。


「僕は、佐伯がいい」


 勝手に口が動いて、考えるよりも先に声が出る。


「佐伯が笑ってくれてないと嫌だ」


 振り返った佐伯は、笑っていない。


「……ばか」


 化粧の崩れた目に涙を浮かべ、震える唇でそう呟いた。




* * * * * *




 特別教室棟1階の最西端にある男子トイレ。

 周りの教室は物置のようになっており、人が滅多にこない穴場スポットである。

 そんな場所だから、カップルがあれやこれに使ってるなんて噂も耳にしたことはあるが、まぁ、今誰かが飛び込んできたとしても、勘違いされることはないだろ。


「橘ぁ? だいじょぶそ?」


 個室のドアをノックして、心配とからかいが入り混じったように佐伯は言う。


「まって……もうすぐ来そうだか――オェエエッ!」

「うわ音きたなっ!」

「ハァ――ハァ――嘘でもいいから心配しろ……」


 トイレットペーパーで唾液まみれの指を拭き、便器に捨てて水を流す。

 ドアを開けると、佐伯はにやけ面を浮かべていた。


「まだかかりそうなら手伝ってあげたのに」

「……そりゃどうも」


 僕はそそくさと水道へ向かい、手と口を濯ぎ、ついでに顔も洗う。


「ハンカチ使う?」

「ああ、いや大丈夫」


 ジャージの裾を持ち上げて、ガシガシと顔を拭くと、多少サッパリとした気分になった。


「委員長の作戦はこれで全部か?」

「うん。てかちゃんと出てきた?」

「ああ、いや、よく分からなかった」


 委員長が佐伯に指示していたことは二つ。

 僕が相手を選ぶことと、原因と思われるVEチョコを物理的に吐き出すこと。

 解決方法が分からないから、色々と試してくれているのだろう。


「問題はこれからだな」


 これで状況が回復すればいいのだが、そう簡単に上手く行くとも思えない。


「大丈夫っしょ。なんとかなるって」

「そうかぁ? まぁ、そうか」

「そうだよ」


 自信満々な彼女の言葉は不思議と説得力に満ちていて、本当になんとかなってしまいそうな気がする。


「とりあえず場所移すか」

「だね」


 そう言って二人でトイレを出ると。

 ――ぼすっ。

 と、何かが落ちるような音がした。


「た、橘ァ!?」

「よ、良永!?」


 そこにいたのは、口をあんぐりと開いた一人の男子生徒。

 佐伯が唯一金髪を許されている女子なのに対して、彼は許されていないのに金髪にしている唯一の男子。

 元優等生のヤンキー、良永日向である。


「てめぇら便所で……マジか」

「違う違う違う!」

「違う違う違う!」

「つーかてめぇ真っ青だぞ? その女そんなに激し――」

「違う違う違う!」

「違う違う違う!」


 二人揃って必死に否定する。

 それはもう、必死に。


「……はぁ?」


 すると、良永は僕たちの顔を交互に見て、困惑したように眉間に皺を寄せた。


「て、ていうか良永はこんなとこでなにしてんだ? まだ授業中だろ?」

「てめぇが言うな」

「はい、仰る通りでございます」


 しかしどうしようこの状況。

 僕は冷や汗が止まらないし、佐伯は佐伯で真っ赤になって俯いてしまった。

 え、なに? なにその感じ? ガチっぽくなるからやめて?

 ここでこそ普段の四方山話を披露してくれ。


「あわわわわ」


 あわあわと、それはもうあわあわと焦っていると、良永は「別になんでもいいけどよ」と、足元に落とした鞄を拾い上げる。


「今日は午前中サボる予定だったんだけどよ、あの堅物眼鏡が用事あるっつうから早めに来てやったんだよ」

「委員長がお前に?」

「ああ。スケジュール崩されるのも癪だからよ、ここで昼休みまでサボろうって寸法よ」


 このトイレにまつわるカップルの噂はともかく、不良のサボり場としては機能していたらしい。

 というかこいつ、サボるスケジュールを組んでるのか。

 さすがは元優等生。


「つーかてめぇ、マジで顔色悪いぞ? そうだ、これ食え」

「え? お前それ――」

「なんだその顔? ギャバだよギャバ」


 良永がブレザーの内ポケットから取り出したのは、茶色のパッケージのチョコだった。

 彼はその開け口をパリッと開くと、中身を一つ自らの口に放り込み、「ん」と、それを僕に差し出した。

 恐る恐る、その中から一粒摘む。

 なんの変哲もない、キューブ型のチョコである。


「お前これどうしたんだ? 自分で買ったのか?」

「いや、あの堅物女から貰ったんだ」

「委員長から!?」

「な? ぜってぇ怪しいだろ」


 委員長がチョコを?

 一体どうやって?


「これ、直接貰ったのか?」

「いや、あの女が購買に来いつっうから行ったらよ、おばちゃんがニヤニヤしながら渡してきやがった」


 そういえば、これと同じものを購買で見たことがある。

 なるほど。

 先に料金だけ支払って、委員長自身は触れることなく良永にチョコを渡したのだろう。


 感心する僕を他所に、良永は苦虫を噛み潰したような顔で「そんでよぉ」と呟く。


「極め付けはこれだ」


 パッケージを裏返すと、そこには正方形の付箋が貼ってある。

 そこには筆ペンらしき字体でこう記されていた。


『超本命 好き好き 愛してりゅ 片桐由依』


 血の気が引いていく感覚に陥り、全身に鳥肌が立つ。

 なんだ……これは?


「おばちゃんが棚から出した後によ、わざわざ貼り付けやがったんだ」

「……なるほど」

「キッショいだろ……?」

「……ああ」

「ぜってぇなんか企んでるだろ……?」

「……違いない」

「アンタら言い過ぎ」


 ともかく、それもまた委員長の実験なのだろう。

 僕以外の男子がチョコを貰ったらどうなるかを試したのかもしれない。

 だとすれば、これ以上に気楽なチョコも他にないだろう。

 なんの想いもこもっていない、普通のチョコレートを、僕はパクっと口に入れる。


「……チョコだな」

「あ? そりゃそうだろ。おい金髪、テメェも食うか?」

「アンタも金髪でしょ。貰うけど」


 佐伯は一つ口に含むと「うまっ!」と目を輝かせる。


「欲しいなら全部やるぞ。なんか気味悪りぃし」

「マジ? 貰う貰う!」


 佐伯が手を伸ばすと、それを躱すように良永は手を引いた。


「その前に聞かせろ、てめぇらこんなところで――」


 と、言いかけたその時だった。


「あ、いた! 橘先輩!」


 廊下の奥から一人の女生徒が走ってくる。


「マジか……」


 まさか授業が始まっても僕を探している生徒がいるとは思いもせず、すっかり油断してしまっていた。

 しかし、残念ながらここは逃げ場のない袋小路である。

 また追いかけられるのも困るし、ここは一旦受け取って、この場を収めよう。


 なんて僕は身構えていたのだが、後輩らしき彼女が放った言葉は、想像と違うものだった。


「橘先輩! チョコ返してください!」


 必死な様子の彼女を他所に、僕と佐伯は顔を見合わせる。


「……あ?」


 良永だけが、ポカンと口を開けていた。

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