4.
「橘、こっち向いて」
学校の敷地の隅に、2階建ての古びたアパートのような建物がある。
これまで縁がなく、近づいたことすらなかった。
でも、ここが運動部の部室棟であることは知っていた。
「緊張してるの?」
その一室、細長く手狭な室内は、左右の壁にロッカーが立ち並び、足元にはクリーム色のタイルカーペットが張り巡らされている。
部室、というより更衣室のような雰囲気だ。
「大丈夫だよ。優しくするから」
レザーに亀裂が入った赤いソファに座らされ、隣に座った小倉は僕の右頬に触れた。
汗ばんだ手のひらがしっとりと張りついて、少し温かい。
「もう、動かないの」
目前に迫った小倉の吐息が顔に当たり、僕はぎゅっと目をつむる。
すると、左頬に冷たい感触が張り付いた。
「はい、できた」
小倉の指先が、湿布の端をそっと撫でるように押さえている。
冷たさよりも、彼女の体温がじんわりと頬に移ってきて、温かいのか冷たいのか分からなくなる。
吐息はまだ近く、湿布の匂いに混じってシャンプーの甘い香りが鼻をかすめた。
「……痛くない?」
覗きこむように向けられた瞳に、息が詰まる。
僕は小さくうなずくのが精一杯だった。
「ふふっ」
「……なんだよ?」
「別に? ただ、もっと早く行動しておけばよかったなって。こんなことになる前に」
「……お前」
そこまで言って、言葉を飲み込む。
本当に僕のことが好きだったのか?
なんて。
そんな言葉、今この状況では無意味だと分かっているから。
「その顔、疑ってるでしょ」
「……疑うって、何を?」
「私も、みんなと同じだって」
言いながら、小倉の手が僕の太ももに触れる。
思わず身体がピクリと跳ねると、彼女は小さく笑った。
「私はみんなとは違うから」
「……信じられるかよ」
「じゃあ、確かめてみる?」
「確かめるって、どうやって?」
そう訊き返すと、彼女はゆっくりと、自身のジャージのファスナーを下ろしていく。
決しておしゃれとは言えない紺色の学校指定ジャージの中から、白のTシャツが覗く。
「私さ、余裕ぶってるけど、本当はずっとドキドキしてるんだよ? 鼓動がうるさくて耳が痛いくらい」
そう言って、臍あたりまで下ろしたファスナーから手を離し、ジャージを左右に開いた。
「触ってみて?」
「…………」
なんか、もういいか。
このまま流されてしまえば楽になるかもしれない。
僕は悪くないだろ。
だって、小倉は僕が好きなんだから。
僕が好きで、僕に迫っているのは小倉なんだから。
小倉だけじゃない。
海上さんも、他の女子だって、僕が本命なんだから。
「ほら、おいで、橘」
小倉の手が僕の腕を掴み、導くように引き寄せる。
こんな状況、拒む方がおかしい。
据え膳食わぬは男の恥。なんて、誰かが言っていた。
そうだよ、僕は悪くなんかない。
そうに決まってる。
そうだよな。
なぁ、佐伯――。
「――あっ」
彼女は小さな声を上げた。
払い除けた彼女の手は、行き場を失い宙を彷徨っている。
「……私じゃ、ダメだった?」
「違う」
小倉じゃない。
駄目なのは僕だ。
もしかして本当に僕のことが――なんて、熱に絆されかけてしまうんだから。
そういうのは中学で卒業したって言ってるのに。
これじゃあ佐伯にぶたれても仕方がない。
それに小倉は、はっきりと書いていたじゃないか。
《橘くんにチョコをあげた子の中で、私の知る限り橘くんを好きな人はいない》
それはきっと、彼女自身も。
小倉には好きな人がいる。
僕じゃない誰か。
去年は友チョコすら持ってこなかった陸上部の王子様が、チョコを手作りしてまで伝えたい気持ちを掠め取れるほど、僕は強くも賢しくもない。
「なんとかなる気がするからさ」
かっこつけてるわけでも、小倉に紳士的な罪悪感を抱いてるわけでもない。
この異変が一生続いて、小倉が一生僕を好きであり続けるとしても、明日には正気に戻ってしまうとしても、どちらにしろ僕自身が耐えられないだけだ。
いつも明るくて、一緒にいると楽しくて、口を開けば喧しく喋り続ける、あの歩く栄養剤みたいな悪友が、もう笑ってくれなくなるような、そんな気がするから。
「僕、もう行くよ」
「……そっか」
「あ、手当てありがとな」
「……うん」
小倉から目を逸らし、ソファから立ち上がる。
頬の湿布の内側が、酷く熱を帯びていた。
* * * * * *
失敗だった。
もう少し慎重に動くべきだったんだ。
陸上部の部室を出たあと、佐伯と話がしたくて体育館裏に向かったが、しかしそこに彼女の姿はなかった。
ならば授業に戻ったかと体育館内に戻ろうとしたのだが、エントランスの扉を開く前に3時限目の終わりを告げるチャイムが鳴った。
「ぬぉおおおおおおっ!」
そして僕は今、制服に着替える間もなく全力で廊下を走っている。
「橘くーん!」
「待って橘先輩!」
「私のチョコ受け取ってー!」
「いたぞ! あいつが橘だ!」
「てめぇ橘コラァ!」
「見つけたぜ恋泥棒!」
「殺す!」
以下略。
体育館から飛び出してきた女子たちを撒くため、校舎に逃げ込んだのが最悪だった。
生徒の大群が壁となって押し寄せてくる。
最初はそれでも十数名だったのに、今では壁のようにぎっしりと廊下を埋め尽くす塊が背後から追ってくるのだ。
考えれば当然の話で、僕にチョコを渡そうとする女子だけではなく、ガールフレンドから受け取るはずだったチョコを僕に奪われた男子までもが僕を狙っているのだ。
10人や20人じゃない。
どうすればいいんだ。
あと恋泥棒ってなんだ。
「やばいやばいやばい!」
マジでどうしよう。
どうすんの?
逃げれば逃げるほど、移動すれば移動するほど、背後に人が増えていく。
捕まったらどうなるのかは容易に想像がつく。
飴と鞭ならぬチョコと拳だ。
しかし、そろそろ脚が限界を迎えようとしている。
ただでさえ運動不足の文化部だというのに、さっきから階段を登ったり降ったり、廊下を全力疾走したり、完全にキャパオーバーだ。
もはや自分が何階にいるかもわからず、息も絶え絶えに階段を駆け上がる。
特別教室棟の文芸部室に逃げ込むか?
いや、昼休みなら後輩が食堂代わりに使ってるかもしれないけれど、今は施錠されている可能性が高い。
ならさっきみたいに男子トイレは?
それも駄目だ。なにせ僕を追いかけてる生徒の半分は男子なのだから、ほとんど無意味だろう。
まとまらない思考を巡らせているうちに、背後から迫る滝のような足音と僕を呼ぶ声が段々と距離を縮めている。
「も、もう無理ぃっ!」
情けない声をあげながら廊下に飛び出た瞬間だった。
『あ、あ――』
少し離れたところから、ノイズ混じりの声が聞こえる。
ぼやける視界が捉えたのは、廊下のど真ん中で仁王立ちする、おさげ頭の眼鏡女子。
「委員長!?」
彼女は右手に白い拡声器を持ち、左手は腰に当てている。
そしていつもの冷たい表情のまま、叫んだ。
『廊下を走るな!』
廊下を一直線に貫くようなその声に一瞬怯みかけるが、脚を止めずにそのまま走る。
すれ違い様、委員長は「書庫」と、それだけ呟いた。
背後に迫っていた大きな気配が離れていく。
彼女に慣れている僕でもビビったのだから、他の連中がビビらないわけもないんだ。
あいつ怖いもん。
僕は連絡通路を駆け抜けて、そのまま図書室横にある書庫へと飛び込んだ。
無我夢中で内鍵を閉めると、脚は限界を迎えて膝から崩れ落ちる。
扉に耳を当てると、遠くに聞こえる足音は徐々に勢いを無くしていった。
「撒けた……のか?」
「おい、モテ男」
「――ッ!」
突然背後から聞こえた声に、思わず跳ね上がる。
本棚に囲まれた壁の奥、カーテンが開け放たれ、光を取り込む窓辺に彼女は腕を組んで立っていた。
「な、なんだ。佐伯か」
「なんだって言うな」
「ご、ごめん」
日光に照らされた色の薄い金髪がキラキラと輝いている。
相変わらず暗い表情ではあるが、それでもそこにいる彼女の姿に、僕は安堵の息を漏らしていた。




