27.ヴァル・フルールの急患
何やら湖のほうから、犬の鳴き声が聞こえてくるな、とエレナは気になっていた。
セドリックがウサギ狩りのお供をすると言っていたが、この近くまで来ているのだろうか。それともそこまで大掛かりなものなのだろうか。
狩りの犬の声は少し苦手だ。何かを追い詰める夢中で余裕のない吠え声は、野生の動物とは少し違う。
ヴァル・フルールには猟師のレオが飼っている猟犬が二匹いるが、あまり吠えない。レオを守るように付き従っている姿は美しいとも思う。
すると、ちょうどレオが湖のほうから慌てたように戻ってきた。
「おおい、サム、ああマイケルでもいい」
無口なレオが珍しく大声をあげて牧場にいた二人に言う。
「担架を用意してくれ。怪我人がいる」
「怪我人? こんなところに?」
「多分、崖から落ちたんだろう。出血がひどい」
「わかった」
担架を用意して三人は怪我人の元へ向かって行った。エレナはギースのところへ走り、診療所の準備をする。
ひどい出血だと言っていたので、止血に効くヤロウの葉も多めに用意した。エレナの力も必要かもしれない。
ギースも医師の顔になって消毒や治療に必要な器具をそろえた。
「ギース、頼むよ」
「これはこれは」
運び込まれた男を見て、ギースはテキパキと進めていく。
だが、エレナはその男を見て、顔色を失った。手が震える。
なんでダリウス殿下がこんなところに
真っ先に、まさか自分を追ってきたのかと思ったが、王太子殿下が一人でここまで来るわけがない。
昨日セドリックが仕事だと言っていた。まさかダリウスと一緒だったのか。モンフォール家と王妃の関係を考えると、二人が知り合いだとしてもおかしくはない。もしかしてセドリックがダリウスをここまで案内してきた?
「応急処置しているな。誰かいたのか」
そう言ってギースが外した血に染まった布に、クロッカスの刺繍が見えた。
間違いない、昨日渡したハンカチだ。セドリックも一緒にいたのだ。あんなに喜んでくれたハンカチを応急処置に使ったと言う事は、怪我は想定外の出来事だったのだろう。
この状態でダリウスだけ置いていくとしたら、助けを呼びに行ったのではないだろうか。
何故、こんなに近くだったのにここに来なかったのだ、と思ったが、ヴァル・フルールにはエレナがいるから避けたのかもしれない。
であれば、……セドリックが探している。
「だ、だれか、セドリックに連絡を」
「どうした? 主人殿は最近来ておらんじゃろ」
「いえ、実は昨日の夜帰ってきたの。この人はセドリックの大事なお客様です。間違いありません」
「……森はレオが詳しい」
ギースに聞いて、外に飛び出す。
「レオ、セドリックをすぐに呼んできてください!! 多分戻ってくるわ!」
「お、おお、分かった」
レオはいつも大人しいエレナの剣幕に驚いたのか、すぐに愛犬を従えて湖の方へ戻って行った。
エレナはギースの元へ取って返すと、ギースに頼んだ。
「私が治します」
「わかった。洗浄したら後は任せよう」
傷が深いからか、ギースもすぐに許可を出した。
エレナが補佐をしながら、ギースが手際よく処置を施す。
エレナはヤロウとカレンデュラ、ローズマリーを用意した。傷を治すのはヤロウが良い。傷跡も無くし、無かったかのようにするなら皮膚に効くカレンデュラもあると良い。
「ギース、私が良いというまで外してください。お願いします」
「……」
ダリウスが領地で怪我をしたらセドリックは困るはずだ。
洗浄した傷口を見る。まだ血が出ているが、これなら聖女エレナなら完璧に治せるだろう。
奇跡を起こすには、名前がいる。ギースに彼が何物なのかを伝えることは無い。それに、今は「エレノア嬢」でいる余裕はない。
エレナの真剣な様子を見て、ギースは無言で部屋を出てくれた。不本意だが任せる以上は言うことを聞くと言う事だろう。
エレナは気を引き締めて、ローズマリーを一つ手に取った。
香りを嗅ぐように、大きく深呼吸をする。
「私は聖女エレナ・フィオーレ。神の加護と奇跡の力を正しく使うことをこのローズマリーに誓いましょう」
集中するのだ。余計なことを考えてはいけない。
ローズマリーがふわりと輝き、エレナに力を与える。教会で祈りを捧げる時のような清廉な空気をまとい、エレナは『エレノア嬢』から、『聖女エレナ』に戻った。
時を戻すように、何もなかったように、完治させてみせる。
「……ダリウス・レオナール・ド・イルヴァレアの傷を治して」
ダリウスの身体に掲げたヤロウの葉が、急に茂ったと思うと、カラカラに枯れて崩れた。




