怖い? 嬉しい?
「しかし良かったよ。ヴェナが居ない時で」
「ヴェナ?」
「ああ、私の娘だ。会ったことはまだ無かったかな」
会った事はあるし、また会いたいと思っているほどだ。疑問に思ったのは居ないという事に対してだった。
「いえ、この屋敷に来た最初の日に会いました」
「ああ、そうだったか」
「どこかへ行っているのですか?」
「皇都へな。まあ色々と勉強をしたいというので行かせている。再来年の春には帰ってくるよ」
「……そうだったのですね」
それで姿を見なかったのか。ちょっと、いや、かなり残念だ。
「どうして居なくてよかったのですか?」
隣で話を聞いているアダクムさんが意味有りげに笑顔を浮かべた。
「あいつはな……、小さな頃から、まだ歩けるようになったばかりの頃から剣を振り回していてな。ラプなんかはいつも剣の練習相手にさせられていたんだよ」
「剣の練習?」
「本当は俺があいつの相手になってやるべきなのだろうが、俺は忙しくてな。ラプがここに居る時は代わりにやってくれていたんだ。もし、あいつが居たら毎日のようにこの小屋へ来てラプに挑んでいただろうな。その度に君は剣を見ることになっていただろうね」
「ラプさんが居ない時は私の所へやってきてましたぜ」
アダクムさんが苦笑いで言う。
「ははは。そうだったのか。そいつはすまなかったな」
「きっと今頃、皇都でも大暴れしてますぜ。ヴェナ嬢ちゃんは」
「あいつに剣を与えたのは間違いだったのかもしれんなぁ……」
あの優しそうに笑う娘が剣を振り回していたなんて、あまり想像ができなかった。そういう意味ではラプが剣を振り回し、血塗れで帰ってくる事もそれを見るまでは想像できない事だったけれど。
剣を使う人なんて、俺の腕を斬り落とした、あの兵士達のような野蛮な人間だけだと思っていた。
案外、この世界は剣を使う事は珍しいことではないのかもしれない。
「トラウマ」の発作から二ヶ月が経つがあれ以来発作は出ていない。
季節は冬になり、広大な庭は一面が真っ白な雪に覆われ手摺りを見る事ができない。
しかたがないので歩く練習は家の中だけでやっている。庭のように広くはないが今の俺にとって、この家の端から端までを歩く事ですら数日掛るのだから練習するには十分だった。
玄関が見える廊下で練習をしていると玄関が開く。
「お、やってるな」
入ってきたアダクムさんは雪まみれだ。
「雪、ひどく降ってるんですね」
「それ程ひどくはないよ。本当にひどい時はこうやって来ることもできなくなるさ」
アダクムさんは雪の日でも橇を使って食料を届けてくれる。本当にいい人だ。昔は盗賊だったなんて思えない。
「それじゃがんばれよ」
いつものように励ましの言葉を残して玄関から出ていくアダクムさん。それと入れ違いで今度はアスラさんが入ってきた。
「ラプは居るかな?」
「あ、はい。居間に居ると思います。ラプー。アスラさんが来たよー」
「あ、いや。私が行こう」
そう言うとアスラさんは居間へと歩きだす。
「仕事の話をするので、なるべく二人だけにしておいてくれ」
すれ違いざまにそう言うとアスラさんは居間へと入っていった。
今回も剣を使うような仕事なのだろう。アスラさんは気を使って、そのような話から俺を遠ざけるようにしてくれているようだ。
仕事の話は終わったらしく、居間から出てきたアスラさんとラプはそのまま二人で家からも出ていくらしい。ラプは外套を着込み、かなりの厚着に見えた。
「僕はこれから仕事にいってくるね。夕飯までには帰ってこれると思うけど、夕飯の支度はアダクムさんの奥さんに頼んでおくよ」
そういって二人で家を出ていってしまった。
ラプは言葉通りに夕飯前には帰ってきた。
前のように血塗れという事もなかったし、剣も背負ってはいなかった。だけど出てゆく時に着ていた外套は着ていない。
「ラプ、外套はどうしたの?」
「えっ? あぁ。……アスラの屋敷に忘れてきちゃった」
そう言うとにこにこと笑いだす。
多分、ラプは前のように血塗れだったのではないだろうか?
俺に血を見せないようにとアスラさんの屋敷に寄り、受けた返り血を洗い流して戻ってきたのだろう。
ラプやアスラさん、それにアダクムさんにまで心配を掛け、行動を制限させるような俺の存在とはいったいなんなのだろう。俺は周りの人々にそこまで気を使わせなけばならない程の価値がある人間じゃない。
それから一年と半年が過ぎ、この屋敷へと移って二年以上の月日が流れた。
この大陸へと来てから三年が過ぎた事になる。
毎日の歩く練習のお陰で手摺りなしでも歩けるようにはなっていた。
ただ歩けるというだけで、走る事は出来ない。なんとか早足程度の事はできるけれど、ほんの数歩で脚が縺れて転んでしまう。
早足で歩ける歩数は二、三歩が限界だった。
ラプは相変わらず、アスラさんからの仕事を熟している。
それ程に頻繁ではなく、二、三ヶ月に一度程度の頻度だった。
その度に俺に気を使っていると判る程に、まるで悪い事でもしているかのように行動している。
俺の事は気にせず、剣でも返り血でも見せてくれ。と言えれば良いのだけれど、俺もその度に気絶したいとは思わないので、口に出す事もできずにいた。
その日、いつものように美味しそうな笑顔を見せながら食べるラプと夕飯をとる。
歩けるようになってからは食事の用意や掃除、洗濯など、ラプの手伝いでできる事はなんでも手伝うようにしていた。
「明日くらいに、皇都にいってたヴェナが帰ってくるんだって」
「えっ、あ、そうなんだ」
俺が作った夕飯を食べながら聞いたその話は俺を驚かせる。
アスラさんから聞いた時には随分と先の事のように思っていた。それが明日には会えるかもしれないと思うと、その嬉しさが顔の表情に表れてしまったらしい。
「うれしそうだね。そんなに仲が良かったんだ」
「え? いや、会ったことなんて一度しかないんだし、べつになんとも思ってないよ」
「そうなの?」
ラプはいつもとは違う、笑顔というよりは妙なにやけ顔をしていた。
朝起きて、いつものように歩く練習をするために庭へと出る。
前はラプに背負ってもらわなければ外に出る事も出来なかったけれど、今では一人でだいたいの事はできるようになっていた。
それでも庭の手摺りに沿って歩く練習だけはしている。
もう手摺りは不要ではあるけれど、偶に躓く事もあるので、やっぱり手摺りに沿って歩いていた。
ヴェナはいつごろ着くのだろう?
そんな事を考えながらゆっくりと歩く。
昔はそんな集中を欠く事を考えてしまえば、あっとゆう間に転んでいた。随分と進歩したのだろう。
ヴェナはもう着いていて、屋敷でくつろいでいるのかもしれない。
いや、まだまだ遠くに居て、着くのは明日以降になるのかもしれない。
そんな事をあれこれと考えてしまう。
「うぁ」
ついに転んでしまった。
まだまだ練習が必要らしい。
手摺りに掴まり、ゆっくりと立ち上がる。
馬鹿だなぁ。俺は。
ヴェナが帰ってきたからといって会える訳ではないのだ。
この小屋へと来る事なんて無いだろう。
来るとしても、なんの為に来るというのだろうか?
こんな所に用なんてないはずだ。
「うん。来ないな。来る意味がない」
そう独り言をいってまた歩きだした。
昔は一日中を歩く練習に費していたけれど、最近は家事もするので朝と昼間に庭を一周するくらいになっている。
昼の練習中にはヴェナの事はそれ程気にならなくなっていた。
「ラプッー」
足元を見ながら練習していた俺は、その声にはっとし、顔を上げた。
遠くから一人の、真っ白な服を来た少女がこちらへと走ってきている。
黒髪をなびかせながら走ってくるその少女は三年前に見たあの娘だ。ヴェナだ。背が伸びて少しだけ大人びたように見えるけれど間違えない。
ヴェナはラプの側まで走ってくるとラプの前に立ち、驚いたようなきょとんとしたような、そんな顔でラプを見詰めている。
「ラプ……。小さくなっちゃった」
「えっ?」
ラプは驚いたような顔をした後、すぐに笑いだす。
「ちがうよ。ヴェナが大きくなったんだ。僕は変わらないもの」
「そうなの?」
「うん」
そういえば、俺がラプと出会った頃はそれ程違わない背丈だと感じていたのに、最近ではラプと話す時に少し下向きにラプの顔を見ている。
俺も背が伸びたのだろうか?
ロヒさんが少しずつ義足を調整してくれたのかもしれない。
「聞いてラプ。私、皇都で――――」
ヴェナは途切れる事なく話していた。
話している間中、表情はころころと変わり、俺は飽きるという事はなかった。
「――――それはもう、白竜様の像は大きくて、立派だったわ。それに――――」
俺は飽きる事はなかったけれど、ラプはどうなのだろうか?
ヴェナは人というのはこれほど長く話せるのかと思う程、一人でずっと話し続けている。
「――――だからお爺様に『白竜宮殿に入ってみたい』って言ったの。そうしたら――――」
ラプはその間もずっと笑顔を絶やさず聞いていた。
いったい何時間、話していたのだろう?
太陽も随分と西の空で傾いてきている。
そろそろ夕飯の支度にかからなければならない。俺はゆっくりと家の玄関へと向かって歩いた。
俺としてはヴェナの話を聞いていたいけれど、ヴェナはラプに対して話しているのだ。俺は邪魔なだけだろう。
「――――、……って、ちょっと、あなた。待ちなさい」
「え?」
ラプへとしていた話を中断し、玄関へ入ろうとした俺に向かってヴェナが呼びとめてくる。
「ラプ、まだ聞き足りないかもしれないけれど、話はまた明日だわ。今日はあなた、タビトっていったかしら。あなたにも話があったのよ」
ラプに対して見せる顔と俺へと向けるその顔はまったく違うものだった。なにやら怒っているように感じる。
「タビト、ラプを独り占めするのはやめなさい。あなたの所為で私は四年以上、ラプと剣を交じわらせていないのよ。今日だって、剣を持って来ようとしたらお父様に止められるし。あなた、剣が怖いんですって? そんなのラプの側に居る資格がないわ。ラプの側に居ていいのは強い人だけよ」
「ヴェナ、だめだよ。そんなこといっちゃ」
いつもは笑顔のラプの表情が、今日、初めて見る顔付きになっている。少し怒っているらしいその表情には威圧感があった。
ラプに窘められたヴェナは息を飲む。
「ラ、ラプは優しすぎるのよ。剣が怖いなら慣れればいいのよ。噛み付いてくる訳でもない剣が怖いだなんて、変だわ」
俺はヴェナの言葉を聞いてはっとする。ヴェナが言っている事は間違えではないと思った。
俺は病気を治すための行動はなにもしていない。
「とにかく、あなたは強くならなければならないのよ。怖いものなんてこの世界にないと思える程になりなさい。いいわね。それじゃまた明日」
そう言うとヴェナは屋敷へと向かって走っていってしまった。
「タビト、気にしなくていいよ。病気なのだから無茶しちゃ治るものも治らなくなっちゃう。剣なんて人の生活に必要なものというわけではないのだから慣れる必要もないしね」
ラプはいつもの笑顔を俺へと向けてくれた。




