病気? 怪我?
この小屋へと移ってから一週間が過ぎた。
やっている事はロヒさんの小屋でやっていた事と変わらず、歩くだけの練習を延々とやっている。
少しは早く歩けるようになったのかといえば、自分ではよく判らない。
一週間では判らない程度ではあるけれど、多分、少しは早くなっているのだと思う。
この一週間というもの、出会う人は隣の家に住むアダクムさん一家だけだ。
もっと頻繁にアスラさんやヴェナと会う事になるのだと思っていたけれど、これまで一度も出会えていない。
今の俺からすると遠くに見えるアスラさんの屋敷は、普通の人が歩けば、それ程の時間はかからない程度の距離しかない。
だけど会えないという事はアスラさんもヴェナもこちらへ来る事はないのだろう。
「ははは。そりゃそうさ。アスラ様がそんな事するわけないだろ」
この庭にある手摺りや小屋の中の手摺りは隣のアダクムさんが作ってくれたのだと知って俺は驚いた。てっきりアスラさんが自ら作ってくれたのだと思っていたのだ。よくよく考えれば当り前だ。
「結構、苦労したんだぜ」
実際に作ってくれたのはこのアダクムさんで、この屋敷内の庭の手入れや大工仕事を殆ど一人で熟しているという事だった。
「それじゃ、俺はこれから庭の手入れがあるからよ。まあ、なんかあったらいってくれや。大抵のことはなんとかしてやるからよ」
そう言うとアダクムさんはラプへと「そんじゃ失礼しやす」といい、少しだけ頭を下げると屋敷の方へと歩いていった。
なぜかラプに対して、まるでラプをアスラさんと間違えたのかと思う程、丁寧な口調だった。
「あの人はね、昔は盗賊だったんだよ」
ラプはいつもの笑顔でそういった。
「それに剣の腕も凄くて、油断してた僕はもう少しで首を跳ねられるところだったんだ」
ラプは変わらず笑顔だ。
笑顔でいう事だろうか?
「この大陸にも盗賊なんて居るんだ」
「うん。盗賊どころか海賊に山賊、コソ泥に詐欺師、人殺しだって沢山いる」
「……」
「どちらの大陸もそれ程違いはないかもね」
それでも二つの大陸には大きな隔たりがあるように感じてしまうのは、俺がどちらもまだよく知らないからなのだろうか?
ただただ歩くだけの練習をする日々が半年続いた。
出会う人は殆どが隣のアダクムさん一家だけだ。一家といっても三人家族で子供はまだ一歳にもなっていない。だから実際に会話を交わす事がある人といえばアダクムさんとその奥さんだけだった。
偶にアダクムさん以外の使用人とも会う事はあったけれど、殆ど会話もなく俺は歩く練習だけを続けていた。
「お、結構早く歩けるようになったんじゃないか?」
それなりに歩けるようにはなった。だけど、やっぱり早くはない。
それに手摺りがなければ立っている事も難しい。まだまだ練習は必要だった。
アダクムさんのこの言葉は何度も聞いた。俺を励ましているのだろう。
「そんじゃな。がんばれよ」
いつものようにラプへ「それじゃ」と少し頭を下げて屋敷の方へと歩いていった。
だけど、その日はこれまでの日々と違う事が起きた。
午後、いつものように俺は歩く練習をして、ラプは家の前に置いてある椅子に座って俺を眺めている。ラプは寝てしまっている事もあった。
必死で脚を動かす事に集中していると周りが見えなくなる。ふと気付くと二人の人物がラプの方へと歩いて近付いているところだった。
一人はアスラさんだが、もう一人は誰だか判らない、知らない人だ。
アスラさんは手に棒のような何かを持っていた。
そしてその手にしたものが剣なのだと判ると、俺の背中や腕、それに無くなってしまって、なにも感じないはずの脚にも、ぞわぞわとした悪寒のようなものが走る。
ラプの前まで二人が来ると三人はなにかの話を始めたようだったけれど、その話を聞くには俺が居る場所は遠過ぎたようで声は聞こえてこない。
アスラさんは、両手一杯に広がる大きな紙をラプの前に広げ、なにかを説明しているようだ。俺はアスラさんが持っている剣が気になり、悪寒を感じながらもその剣から目を離す事ができずにいる。
ほんの数分で話は終わったらしく、広げていた紙を折って閉じるとラプはその紙を膝の上へと置き、アスラさんから剣を受け取っていた。
ラプは座ったままその剣を鞘から抜くと少しだけ高く掲げるように持ち上げ眺めている。
その間も俺の悪寒は酷くなっていっていた。額にはべっとりとした汗が浮いているのを感じる。
一瞬、日の光を反射した剣が眩しく光ったが、それがその日、俺が覚えている歩行練習場での最後の記憶だった。
俺が目覚めたのはベッドの上だった。
目覚めるまでは、いつものあの悪夢を見ていた。
ベッドの横には心配そうに俺を見ているアダクムさんが座っている。
「おっ、目が覚めたか。よかったよ」
その顔は本当に心配していたらしく、いつも陽気なアダクムさんとは違って見える。
俺はベッドから上半身を起こし、そのまま座った状態で訊いた。
「あの、俺は、どうしたんです?」
「覚えていないのか? 昼間、歩く練習をしていて倒れたんだ」
「え? あぁ……」
思い出されるその瞬間は、ラプが持つ剣が日の光を眩しく反射させた時の事だった。その瞬間を思い出すと、また悪寒が全身を駆け抜け、意識が遠退く。
ふらつく俺をアダクムさんが支えてくれた。
「大丈夫か? まだ横になっていたほうがいいな」
ベッドにゆっくりと横になりながら、俺はいったいどうなってしまったんだろうと考えるが、思いつく考えの代わりに、先刻まで見ていた夢の中と同じ、この腕を斬り落とされた時の事が頭の中に浮かんでくる。
なんども夢に出てくる場面でいつもはあまり考えないようにしている事だった。
「ラプは?」
いつも側に居てくれるラプの姿が見えない。それも俺の不安を大きくしているようだ。
「ラプさんは仕事らしい」
「仕事?」
「ああ。俺も詳しくは知らないが、アスラ様に頼まれた仕事があるみたいだったな」
不意に家の玄関が開いた音が聞こえる。
「噂をすればだな。ラプさんが帰ってきたようだ」
廊下をパタパタと少し早足で歩く足音が聞こえる。間違えない。ラプの足音だ。その足音を聞いたお陰か、なんだか不安が消えていく気がした。
部屋の扉が開き、ラプが覗き込むようにドアの影から顔を見せた。
ラプは俺と目が合うといつものにこにことした笑顔を見せる。
「よかった。目覚めたんだね」
だけど、その顔にはいつもとは違う、余計なものまでが付いていた。
「ラプ、その血……。大丈夫なの?」
「え? ああ、これは僕の血じゃないよ。僕はどこにも怪我はないし元気だよ」
そう言いながらラプは部屋の中へと入ってくる。その姿は全身のあちらこちらへ血痕が付き、さながら戦場から帰ってきたばかりの兵士のようだ。
その背中には剣の柄が見えている。
「ラプ、その背中のは……」
「え? あ、これは僕の剣だよ。アスラに預けて研いでもらっていたんだ」
そういいながら背中から剣を抜くラプ。金属音と共に抜かれた剣が俺の目の前に現れた。
その剣にはラプの全身と同じように血が付いている。
そして俺はまた気を失った。
次の日の朝、いつもの朝のように目が覚めた。
だけどラプは今日一日は休むようにといって外へは出してくれない。ラプは家の掃除をしているようだ。
「俺の仲間にもいたよ。よくある病気らしい」
アダクムさんが仕事前に様子を見にきてくれた。俺が倒れる原因はなにかの病気らしい。
「おまえさん、その脚をどこぞの兵士に斬り落とされたんだろ? たぶんそれが原因だな」
「え? 脚は……ラプが斬り落としたんです。腕ですね。兵士に落とされたのは」
「ん? 腕? 腕はあるじゃないか」
アダクムさんは俺の腕を軽く握り、「これが『腕』だ」という。
「そして、無くなった方が『脚』だぞ」
アダクムさんは俺が言葉を間違えたのだと思ったらしい。
ラプからはあまり創成の竜の事は他言しないようにと言われている。腕は再生されたと言えばあの竜の話もしなければならなくなるだろう。
「あ、そうでした。脚ですね」
「あぁ。それでラプさんが斬り落としたって。……おまえさん、なにやらかしたんだ?」
「え? 俺は悪いことなんてしてませんよ。脚を兵士達に刺されたり潰されたりしていて壊死していたんだそうです。それで切り落とした方がいいだろうって、ラプが落としてくれたんですよ」
「……なんだ。そういうことか。まあ、なんにしてもその兵士達がやったことが原因だな」
それはなんとなく判っていた事だった。これは治るのだろうか?
「治るのでしょうか?」
「俺には判らんな。治した奴もいれば治らない奴もいる。治ったと思ったら、また再発した奴もいる。人それぞれらしい」
「治した人はどうやって?」
「時間と共に治っていく奴もいれば、無理矢理、発作を起こす要因を体験して何度も発作に苦しみながら治したって奴もいる。人それぞれなんだろうな」
どれも「人それぞれ」らしい。俺はどうすれば良いのだろう?
部屋の扉が開き、一人の人物が入ってくる。
「トラウマってやつだな」
入ってきたのはアスラさんだった。心配して様子を見に来てくれたらしい。
アスラさんは部屋の外で話を聞いていたようだ。
「トラウマ?」
「ああ、そういう名前の病気らしい」
「トラウマ……」
「力になってやりたいが、残念ながら俺ではどうしようもない。アダクムがいうように自然と治るのを待つしかないだろうな」
「……」
「剣だけなのか? その発作が起きる要因は?」
「今のところ、剣だけのようです」
「この小屋に居るのであればそれ程、剣を見ることはないだろう。今は歩けるようになることだけを考えて練習した方がいいのではないかな?」
俺の中にそんな病気が巣喰っていたなんて思ってもいない事だった。
解決方法がないのであれば、今はアスラさんが言うように歩けるようになる事だけを考えた方が良いのだろう。




