山? 海?
春になる頃には、俺はゆっくりとではあるけれど歩く事が出来るようになっていた。
本当にゆっくりとだ。
赤ん坊が這いずり回るよりも遅いのではないだろうか?
「そんなに難しいの?」
椅子に座って不思議そうに俺が歩く為の練習を見ていたラプが声を掛けてくる。
「……う……ん」
「あ、ごめん。歩くのに集中してたんだね」
「……う……ん」
「……」
難しい。
念動で膝、足首、足の指、それぞれを個別に動かさなければならない。
ロヒさんとラプは義足が出来ると、俺の部屋に歩行練習用の手摺りを作ってくれた。俺の身体の幅に合わせて二つの手摺りが平行に並べてある。
その短い手摺りの端から端までを歩くだけでラプが夕飯の用意を始めてから終わるくらいの時間がかかってしまう。
本当に短い距離だ。普通の人が歩けば三歩ほどで終わってしまうというのに、俺はその道程を蝸牛のような速度でしか歩く事ができない。
やっとの事で手摺りの端まで歩き終わり、一息つくために手摺りへと腰を降ろす。その腰を降ろすのでさえ、下半身の動きを一つ一つ意識しながら身体を動かす必要があった。
「ふぅ……」
「アスラは簡単に腕を動かしていたけどなぁ……。脚と腕では違うのかな?」
「アスラさんもこれと同じような義手なんだよね? コツとか有るのかな?」
「どうだろ? 今度聞いてみよう」
「うん……」
少しだけ休むと、再度、手摺りの端から端へと歩く練習だ。
立ち上がるのも腰を降ろすのと同じように意識を脚へと集中させなければならない。
この練習を始めてから三ヶ月が経つが、最初の頃は立ち上がる事だけで終わってしまっていた。
心配そうな顔をしたラプが椅子から立ち上がった。俺に手を貸すつもりらしい。
これくらいの事で人の手を借りていては練習にならない。
「大丈夫だから座っていて」
「うん……」
ラプは初日に俺が立ち上がりざまに派手に倒れた事を覚えていて、俺が立ち上がろうとすると手を貸そうとする。この三ヶ月はそれが何度もあった。
さすがに立ち上がったり座ったりは時間は掛るが問題なく出来るようになった。手摺りがあればだけれど。
「僕はそろそろ夕飯の準備をするよ。……練習、一人で大丈夫だよね?」
「うん」
「がんばって」
ラプはそう言うと部屋から出ていこうとする。しかし、扉の取っ手に手を伸ばそうとして動きを止めた。
部屋を出ず、そのまま振り返る。
「そろそろ街に戻ろうと思うから、そのつもりでいてね」
「えっ? まち?」
「うん。アスラの屋敷に住まわせてもらうことになってる」
「アスラさんのやしき……」
「うん。屋敷といっても僕達が寝泊まりする所は敷地内にある小屋だけど。今、その小屋の前に、これと同じような練習用の手摺りを作ってもらっているから、それが出来たらそっちに移ろう」
少し驚いてしまった。
あの大きな屋敷に住む事ができるなんて、夢にも思っていなかった。
たとえそれが、敷地内の端にある小さな小屋であろうと、あんなに大きな屋敷に住まう事ができるだなんて。
このまま歩けるようになるまで、この山の上で暮らすのだと思っていた俺は驚いてラプの顔を見詰めていた。
「ここじゃ不便だからね。歩く練習にも平地で暮らす方がいいでしょ」
「うん……」
「それじゃ、練習がんばって」
そう言うとラプは部屋を出ていく。
近い将来、俺はあの大きな屋敷で暮らす事ができるのだ。そう思うだけで心踊る。
そしてあの屋敷で初めて会った、あの娘の事を思いだした。
「また、あの娘にあえるのか……」
素直に嬉しさが顔に浮かんでいた。
それから一ヶ月後に俺とラプはアスラさんの屋敷へと移る事になった。
ラプは朝からばたばたと荷物を纏めたり、ロヒさんへ保存している食料や洗濯物の場所を教えたりしている。この小屋へと来てからはラプがこの小屋の家事を殆ど一人でやっていた。
なんだかぼんやりとラプの話を聞いているロヒさんを見てラプは心配そうな顔をする。
「ロヒ、大丈夫?」
「……あ、あぁ、平気だよ」
ラプが居なくなる事で、これからロヒさんは一人で家事をしなければならない。俺とラプがこの小屋に住むようになる前は一人でやっていたのだから問題ないはずだけれど、ラプもロヒさんも二人共に不安そうな顔をしていた。
「まあ、ちょくちょく来るから……。ちゃんと食事と睡眠は取ってね」
「うん……」
まるで親が子供を心配しているような場面だったけれど、俺は親子が逆転しているようでなんだか面白く見ていた。
「それじゃ一週間後、それより早くてもなにか問題があれば、すぐに来てくれていいから」
見送ってくれるロヒさんは毎日のように俺の義足を観察してくれていた。そして毎回なにかを弄っている。
なにをしているのか俺には判らないけれど、俺の義足は次の日には前の日よりも良くなっていた。
痛みがある部分は徐々に消えてゆき、操作しづらい場所はしづらさが軽減され、動きが悪かった部分が少しずつ滑らかになっていった。
それでもまだロヒさんは満足していないらしく、街へ移っても一週間くらいの間隔で義足を見せに来なければならないらしい。
「はい。それじゃ、また一週間後」
ラプの背中に背負われ、この山の小屋から飛び立つ。
春ではあるが、まだまだ雪が深いこの山頂は、辺り一面が真っ白な世界だった。
まだ一年も経ってはいないけれど、創成の竜の住処が懐かしく思い出される。
「やっぱり最初の一年くらいは苦労したって」
アスラさんの屋敷へと向かいながらラプが話す。風をきる音で聞きづらいからか大きく声を張っていた。
ラプとの会話は今では殆ど声だけとなり、念話での会話はなくなっている。
「ん?」
「アスラに訊いたんだ。腕を動かすのは難しいのかって」
「ああ、その話か」
「でも、二年もすれば問題なく動かせるようになったって。今ではほとんど無意識に近いそうだよ」
「二年……」
「あ、でも、脚はもっとかかるかもって。腕は意識しなければ身体にぶら下がっているだけだけど、脚は身体を支えなきゃいけないからね」
「うん……」
正直、二、三年で歩けるようになるというのは無理ではないだろうか? 自分の今の状況ではどれほどの時間がかかるのかなんてまったく予想が出来ない事だった。
どれくらい飛んだのだろうか? うとうととしてしまい、時間の感覚が判らなくなってしまったが、ラプの「そろそろ着くよ」という言葉で目が覚めた。
まだ寒いので今日はなるべく低く飛ぶと言っていたが周りは木だけが見える。山間部の谷を飛んでいるようだった。
「あの山を越えたらアスラの屋敷だよ」
目の前に小高い丘のようになった山が見える。
一度だけ来た事があるけれど、まったく見覚えのない景色だ。前に来た時はこの逆方向へロヒさんの山小屋を目指して飛んだのだから、見覚えの無い景色に見えるのだろう。
目の前の山を越えるようにラプはふっと上昇する。
山を越えると広大な平野が目の前に広がっていた。
この大陸へと来てからは殆どが洞窟や山の上で暮らしていたし、生まれた村も山の中の村だった。これほど広大な平野を見るのは初めての事だ。
俺が暮らしていた村や山とは別世界ではないだろうか? 最近では忘れていたが、やっぱりこの大陸は死者が住む国ではないかという考えを思い出す。
遠くに海のようなものが広がっているが、あまり海というものを見た事がない俺は、それが本当に海なのかは判らない。
「あの遠くでキラキラとしているのは、うみ?」
「うん。海だよ」
「こんなに近くに海があったんだね」
「近いのかな? 半日くらいは歩かなきゃいけなかったと思うよ」
残念ながら素晴しい景色はすぐに見えなくなった。ラプは山の斜面に沿ってどんどんと山を降りてゆく。
降りている山の麓に目をやると、そこには街がある。一番手前には大きな城のような建物が見えていた。
「あっ、あれはアスラさんの屋敷?」
「うん。もう着くよ」
正面と上空からしか見た事がなかったアスラさんの屋敷は、殆ど記憶になかった。ただ見えている他の建物と比べ、そのあまりにも違いすぎる大きさからアスラさんの屋敷なのだと推測したにすぎない。
同じものを見て再度驚くなんてあまりない事だろう。
更に山の斜面を降り、どんどんアスラさんの屋敷が迫ってくる。あっとゆう間に屋敷の壁まで手を伸ばせば届く距離まで近付くと、今度はくるりと方向を変え、壁に沿って飛びだした。
屋敷を半周ほど飛んだのだろうか? 正面玄関だと思われる位置の少し上でラプはぴたりと止まる。空中に浮いたまま部屋の様子を伺っているようだった。
「……よかった。誰もいないみたいだ」
そう言うとラプはゆっくりと屋敷の部屋から飛び出した足場のような場所へと降り、そのまま部屋と足場の境界にある巨大な窓のような扉を軽く叩いた。
部屋の中にいたのは黒い髪の人物だ。背中をこちらへ向けているので顔が見えないが、多分アスラさんだろう。
ラプの立てた音にその人物はこちらへと振り返り、少し困ったような顔を見せながら、大きなまるで扉のような窓を開け、部屋から張り出した足場へと出てくる。
「ラプ、玄関から入ってくれっていってるだろ……」
アスラさんの目は鋭く、少し怖さも感じるほどだったが、言葉や表情は柔らかく笑っているようだ。
「だって面倒なんだもん。玄関から入ったら小一時間は出てこれないでしょ。今日は来たことだけを伝えたかっただけだからいいでしょ?」
「しょうがないな……」
アスラさんはそう言うと俺の脚へと目を向ける。
「タビトくん。脚の調子はどうだい?」
「は、はい。まだ、手摺りを使って立ち上がるくらいしかできませんが、一日も早く歩けるようになるようにがんばります」
「ほぉ。言葉、話せるようになったんだね。うん。がんばりなさい」
「はい。ありがとうございます」
「それじゃ、僕達は小屋へ行くよ。小屋はもう準備できているんだよね?」
「ああ、大丈夫なはずだ。なにかあったら言ってくれ」
「うん。ありがと」
ラプはそう言うとふわりと浮き上がり、今来た道順を逆に辿るように屋敷の裏へと回った。
あの娘に会えるかもと少し期待していたけれど、今日は会えないようだ。少し残念だった。
屋敷の裏を少し飛ぶと数軒の家が見える。家の周りに居る何人かの人々は飛んでラプに気付くと手を振っていた。
「みんな、ラプの知り合いなの?」
「え? うーん。まあ、そうかな」
「この辺りは村かなにか?」
「え? 違うよ。全部アスラの屋敷で働いている人達だよ。まあ小さな村みたいなものだけど」
小さな村どころではないと思った。
立派な家並みもこの広さも、俺が住んでいた村など足元にも及ばない。
「あの小屋だよ」
ここはまだアスラさんの屋敷の敷地内なのかと思う程飛んだ先に、立派な家がある。ロヒさんの山小屋よりも高さはないが、横に広く、ここに来るまでに見た家と遜色ない。
「あれが小屋? 普通の家に見えるけど……」
「え? ああ、まあ家といってもいいかな」
「この大陸の人達はあいまいなんだね」
「あはは。そうかもね」
その家の前には広場があり、沢山の柵らしきものが見えた。遠くから見たそれは近付くにつれ手摺りなのだと判ってくる。
ラプは少しだけ上昇すると全ての手摺りが見渡せる程の高さで止まった。
「これがアスラに頼んで作ってもらった歩行練習用の手摺りだよ」
山の上の小屋では部屋が狭く、それ程長い距離の手摺りは作る事が出来なかったけれど、このアスラさんの屋敷にある裏庭は山小屋の横にあった庭の何倍も、何十倍も広い。
その広場の手摺りは山小屋でロヒさんとラプが作ってくれたものと同じようなものだったが、縦、横、斜め、大小の曲がった所に、登りと降りの坂と階段まで作られている。
今の俺が端から端まで歩き終えるには数日はかかるだろうと思われる程の長さがあった。
これを作るのにどれ程の時間がかかったのだろうか?
「これだけの物を……。俺、これだけの恩を受けても返せないよ……」
ラプは少し驚いた顔をして俺へと振り返った。
「返す必要はないと思うよ。アスラはなにも望んでないはず……」
「まさか、そんな人間がいるものなの……? この大陸の人はみんなそうなの?」
「たぶんだけど、僕の頼みだからきいてもらえたのじゃないかな」
たしかに竜というものはこの大陸であってもあまり見掛けないものらしい事は、この一年程でなんとなく理解できていた。その竜という特別な存在であるラプの頼みだからという事なのだろうか?
「ラプが竜だからってことなんだね」
「竜であることは関係ないかな……。まぁ突き詰めていくと竜だからというのも一つの理由ではあるか……」
「それじゃどうして?」
「僕はアスラと親友というものらしい」
「らしい?」
「うん。僕にはよく判らないことだけど、僕とアスラとヴェルは親友らしい。あっ、ヴェルっていうのはアスラの奥さんね」
「親友だから頼みをきいてくれたんだ」
「それだけじゃなくて、僕もアスラの頼み事を何度かきいたことがあるんだ。昔は三人で旅をしていた事もあったけれど、今はこの辺りの領主になったアスラの代わりに僕が色々とやったりもしてる。領主となってからはアスラ自身が動くことがあまり出来ないんだって」
「ふぅん……」
あまりよく判らないけれど、アスラさんの頼み事をきいているラプが、今回はラプの頼み事をきいてあげたという事なのだろう。
「まあ、たぶんそれだけじゃないんだろうけど……」
なにやら複雑な事情があるらしい。自分から言い出さないという事は、今は訊かない方がいいのだろう。
ラプは俺を背中に背負ったままで手摺りが敷かれた広い庭を何周かすると、庭の隅に建っている家の前へと降りた。
小屋だとラプは言ってはいるけれど、ロヒさんの山小屋よりは大きい。あまり高さは無いが幅と奥行は高く飛んだ時に見えていたかぎりでは、かなりの広さに見えた。
「今日からこの小屋で暮らすよ」
「うん……」
俺を背負ったまま家の扉を開け中へと入る。部屋の中はなんとなくロヒさんの小屋と同じような感じがした。この大陸の家というものはこのような作りが多いのかもしれない。
中の間取りもロヒさんの小屋と似ている。
ただ違う事もあって、この小屋の至る所には手摺りが据え付けてあった。俺の為に付けてくれたのだろう。
「部屋の中でも歩く練習ができるね」
ラプは俺を椅子に降ろすとにこにことした何時もの笑顔で俺にそう言った。
「どうしたの?」
この大陸の人々は竜だけでなく人ですら優しく、あらゆるものが輝いて見えるほどに美しい。
そんな事を考えていると俺は泣いてしまっていたようだった。




