29話 フタリのアス
二学期の初日は、眩暈がするほどの暑さだった。
夏の勢いは影を失うことはなく、むしろ加速している気さえする。
残暑という表現は適さない。八月よりも暑い日差しは、僕たちの首を焼く。
「おはよう、鏡」
丹波に肩をたたかれる。
「ひさしぶり……だっけな?」
「なに言ってんだよ丹波。昨日会っただろ?」
「ああ、そうだ。こう暑いと記憶も溶けるよ」
「都合のいいアイス脳だね」
教室はさほど喧騒を生まない。
受験をすぐに控えた三年生たちは、あまり夏の想い出を語りたがらなかった。
もちろん丹波は違う。
卒業したら世界を旅して回る、と言っている丹波は、英語だけ熱心に勉強してあとは放り投げている。この様子だと宿題すらやってないだろう。
昨日の夏休み最後の部会も、祭りのように騒いで終わった。
「で、どうするんだ?」
「なにが?」
丹波に肩をつつかれる。
「とぼけんなよ、告白だよ告白。きのう後輩の子から告白されただろ? おまえ、雛菊さんが引っ越したからって手を出すんじゃないだろうな。浮気すんなよ。チクるぞ」
「出さないよ。それに雛菊はもう――」
「……もう?」
「…………もう、僕のことを好きじゃないみたいだし」
「嘘つくなよ。あんなにべたぼれだったじゃねえか」
嘘じゃない。
雛菊姫子はもう、この世にいないのだから。
――雛菊姫子としては
「で、告白どうするんだ? やっぱり雛菊さんがいるから断るのか? 返事ははやくしてやれよ? あの子もいまごろ、緊張して二学期どころじゃないぞ」
「わかってるよ。今日の放課後、断りに行くって。だからくっつくなよ、暑いんだって」
「それならいいけどな」
丹波がそう言って、離れていく。
その直後にチャイムが鳴った。
すぐに教室内は静かになり、担任が入ってくる。
ようやくクーラーが効き始めた教室内は、担任の軽い挨拶と二学期の予定に淡々と進む。
始業式のために移動があることはみんなわかっている。そろそろ担任の話も終わるだろう雰囲気になると、みんながざわつき始めたときだった。
「すでに聞き及んでいるひともいるでしょうが、半月ほど前、東雲さんがお亡くなりになりました」
担任のつぶやきが、教室内に沈黙を落とした。窓の外にへばりついていた蝉が、ぽとりと地面に落ちた。
東雲天満は、あの翌日、首だけの状態で海から発見された。
警察は小学生殺人のおおよその容疑を東雲天満に絞っていたようで、警視庁刑事の播磨がその事情聴取に向かった際に逃亡し、追ってきた播磨を刺してから崖から飛び降りて投身自殺。首の断面が著しい破損をしていたこと、岩の成分や魚の食い跡があったことから、飛び降りた際に鋭い岩礁かなにかにぶつけて切断され、いまもなお胴体だけが海を漂っている――そういう見解らしかった。
もちろん、天文部の部員はそれを知っていた。葬式も執り行われた。クラスの連中も大半はすでに知っているだろう。
だが東雲が殺人事件の犯人だというには証拠不十分であり、公にはされなかった。
ただの事故死。そういうことになっていた。
それは学校にとっても、僕らにとってもありがたいことだった。
「鏡、鏡!」
また肩をたたかれる。
考え込んでる間にいつのまにか始業式は終わっていて、教室に戻っていた。
ぼうっとしていた。
「あ、なに?」
「なにじゃねえよ。ほら、おまえの分の文化祭案内。どうせ父親は海外なんだろうけどさ、せっかくだから母親のほう誘ってみろよ? まだ近くに住んでるんだろ?」
「いや…………再婚したよ。再婚して、ふたりともいまは海外だよ」
「え? そうなのか?」
「呆れるだろ? 夢菜がいなくなったと思ったら、またくっつくなんて」
「……おまえはそれでいいのか?」
「べつにいいよ。親だって人間なんだ。自由に恋愛したいだろ」
丹波が言いたいのは、夢菜のことなんだろうけど。
僕はあえて鈍感にふるまって、肩をすくめておいた。
丹波はそれ以上なにも言わなかった。
「そうだ文化祭。なあ丹波、おまえ文化祭のうちのクラスの自由展示、なにするんだ? もし予定なかったら僕と一緒になにかやろう。僕なにも考えてなくてさ、そういうの苦手だし」
「すまん鏡。もう先客が」
「先客?」
「ああ……いや、ほら、あの陸上部の……な?」
「え、おいまさかおまえ、あの子と付き合ったのか!? 昨日なんかいい感じだなって思ってたら!」
「シーッ! 大声出すなよ鏡らしくないぜ。……いや、まだ付き合ってはないんだ。というかお互い遠慮してるって感じなんだよな。ほら、あっちは国立大志望の学年次席だろ? で、俺はプー太郎志望だし」
「いやあのなあ、そんな先のことなんか考えずにいまを楽しむべきだよ」
「うお。鏡の口からそんな言葉が出てくるとは思わなかった」
本気で焦る丹波だった。
それは僕も驚いた。まさか、ここまで自然に言葉が出てくるとは。
「でも……困ったな。そうなりゃ僕は自分でやらないとダメなのか」
「いやいや、みんな自分でやってるから」
「そんなまさか。クラスメイトってのはこういうときのためにあるもんだろ?」
「相変わらずそこは穿った考え方だな。安心するよ」
「うっさい」
僕と丹波が小突きあっていたら、あっというまにホームルームが終わってしまった。
二学期初日はとくにやることがない。
クラスメイトの半分は、参考書などを手に図書室や自習室や塾に向かうのだろう。
そうでもない僕たちは、ただおとなしく帰宅するのみ。
何人かはカラオケやボーリングに久しぶりに行く! と気合を入れていたが、僕と丹波は帰る準備にかかる。
ちなみに、きのうで丹波と僕は天文部を引退した。
その引退のときに僕は後輩に告白されたわけだが…………
「さあ、断りに行くならもっと堂々と胸を張ってろ。じゃないと相手がかわいそうだ」
丹波に背中を叩かれて、姿勢を正す。
そのときだった。
「かがみくーん! かわいいお客さんだよー!」
すぐに帰宅することで有名な委員長が、廊下に出たと思ったらまた戻ってきた。
いったい誰だ――と僕と丹波が入り口を見る。
そこにいたのは。
「……兄ちゃん、帰るわよ」
小さな体を制服に包み、睨むようにして立っているひかりだった。
東雲天満ではなく。
正真正銘の、鏡ひかりだった。
次話で最終話となります。




