第10話 (その4)
1ヶ月の出張から1年が経った昭和60年(1985年)9月、相変わらず深残に休日出勤、そして出張と弘明は忙しい日々を送っていた。
出張で特筆すべきはAMPシッピングだった。彼らのアジア航路を走る百数十隻への納品が増えていた。またオイルショックを凌いだ日本造船界も、新造船が息を吹き返していた。
ただ1985年9月のプラザ合意で円高基調となり、好調だった芙蓉貿易も安泰ではなかった。そんな中で弘明も荒波に揉まれていた。
4月人事で呼ばれた弘明は、これで課長だと喜んだ。
だが藤原専務は笑みを浮かべて、
「山岡君なら分かってくれると思うが……」
と言いながら、下された辞令は課長補佐だった。
入社2年で課長は前例がないと、総務が決めたらしい。
要は体の良い残業カットだった。
24時間365日、働き詰めの弘明が妻子と過ごすのは、盆暮れと慶弔事だけ。己の仕事を捨てた妻は、子を守って夫の帰りを待つだけの日々だった。
ある日深夜に帰宅した弘明は、ひとり台所で夜食を取ろうとした。先に寝た妻が新聞紙を被せて茶漬けの用意をしていた。上着を脱いで新聞紙を手にした弘明は、新聞の余白がないと不思議に思った。
だがそれは妻が書き殴った字で埋め尽くしていた。
(こんな人生いつまで……)と、揺れ動く文字だった。
ガツーンと頭を殴られた様に、弘明は怯んだ。
30歳で転職して3年、胸に抱いた志は捨てられなかった。この仕事は、きっと誰にでも出来ると知りながら、せっかく掴んだチャンスは絶対に捨てたくなかった。
部長に疎まれ次長に蔑まれても、弘明は辞めなかった。造船所で味わった倒産や破産の憂き目はともかく、仕事を失う恐怖は二度と味わいたくなかった。
誠意を持って尽くせば客は仕事をくれた。組織ではなくブランドではなく、人に仕事をくれた。その為に会社があるなら、幾らでも我慢が出来た。
「山岡さん、専務がお呼びです」
と、専務秘書から電話が入った。
すぐ行きますと返事して次長の頭越しに部長へ声を掛ける。
応じる顔は不承不承で疑念が浮いていた。
その時専務室には、裁判に勝訴した結果を持って山岡に会いたいと、A&B社の重役が待っていた。
そんな事とは露知らず、弘明は専務室へ向かうのだった。
(「そしてヨーロッパ」、了)
長い間、お読み下さり、ありがとうございました。
船木千滉




