第9話 (その4)
コペンハーゲンの街を象徴する人魚姫の像は、運河が海へ出る際にあった。背後にはかつて17世紀に造られたカステレット要塞があるのだが、観光地図で見る限り要塞は函館の五稜郭を彷彿とさせる星型をしている。
仰ぎ見たAMPの社旗に興奮も覚めやらぬ弘明は、要塞の堀を成す狭い土手の上を人魚姫に向かって歩いた。
目に入るのは静かな堀の水面と一面の緑、どこを見ても要塞の面影はない。周囲を囲う土手は芝生に覆われ大きく育った木々の間に、レンガ色の三角屋根に鮮やかなベージュ色をした壁の建物が並んでいる。
やがて行く手に人魚姫を見た。
周りには何の囲いもなく、像は海を背に岸からほんの数メートル沖に立つ岩の上に嫋な姿があった。ただそのどこか切ない面差しは、童話を忘れた弘明にさえ物悲しさを語り掛けていた。
その場を離れた後も、ほのかな残像が脳裏に残っていた。
街へ戻るべく弘明は要塞の堀を巡り、ローゼンボー宮殿からフレデリック教会、そして人形の様な衛兵が立つアマリエンボー宮殿と、弘明は気の向くまま歩いた。
更に足を延ばしてコンゲンスニュート広場へ向かうと、赤や黄や青の壁面をした三角屋根の建物が運河沿いに並んでいる。岸には色取り取りの船がもやいを取り、空に向かって立つマストがゆらゆらと。
空は今にも降り出しそうな曇り具合なのだが、その背景でさえどこかユーモラスに感じられた。
街を彩る色は赤や黄色と雖も原色には程遠く、その優しい色遣いはそこはかとなく漂う海の香りと相まって、不思議な心地にさせてくれるのだった。
(この街は……人にやさしいけれど……)
それでもどこか違う、と弘明は感じ始めていた。
アンデルセンの童話は思い出せないけれど、人魚姫の面差しといい、国旗や衛兵や建物の色合といい、穏やかな装いの中に愁いを秘めている。だがそれは決して弱弱しいものではなく、何か途轍もない力を感じさせた。
思えば人口五百万人程のデンマーク、世界で最も小さな国土でありながら、AMPシッピングの様な会社がある。一世紀近く世界の海を股に掛けた一族は、世界最大のコンテナ船隊をして海運業界の先端を走っている。
(あんな会社と仕事が出来る)
と思うと、これはチャンスなのだという思いで、弘明は新しい志を胸に抱いた。そして弘明の心はひとりで歩き始めるのだった。
(第9話おわり)




