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降り積もる音

本編を前提に、「もしもツキが○○だったら」な番外編を書きました。

時系列とは関係なしに、パラレルとしてお読みください。

 雷鳴が轟き、バスタブの縁に頭を預けて眠る人魚の輪郭を宵闇の中に浮かび上がらせた。

 彼女の長い睫毛が震えて瞼がわずかに開き、サイドテーブルの上に置かれた水差しを茫洋と眺める。銀製だったはずの水差しとカップが、いつの間にか木製のそれに変わっていた。

 侍女がいつの間にやって来て取り替えたのだろうか。

 人魚は寝ぼけ眼で瞬きし、雷光閃く戸外に視線を転じた。

 今夜は雷鳴のお陰で満足な睡眠を得られず、数刻ごとに目覚めては眠りに落ちることを繰り返している。

 しかも朝から降っていた雨は叩きつけるような豪雨となり、滝のような水流が窓枠沿いに生まれていた。

 そのぼやけた景色に目を細め、喉に渇きを覚えて水差しに手を伸ばす。時折閃く雷光を頼りにカップを水でいっぱいにすると、それを慎重に口元に運んで一気に飲み干した。

 するりと喉を滑り落ちていく水の清らかさに喉を鳴らし、満足気な吐息を漏らして唇から杯を離した。途端、網膜を突き刺すような閃光が襲う。全身の筋肉が痙攣し、ぐったりとして動かなくなった人魚を、雷光が再び暗闇に浮かび上がらせた。





「最近見かけないと思ったら、書庫に篭って何をしていたんだ?」


 人気のない廊下を足早に進んでいたセイロンが肩越しに振り返ってカイに問いかけた。カイは少し視線を彷徨わせ、人差し指で頬を掻きながら気弱な笑みを口元に浮かべて肩を竦めて見せる。


「ちょっとね……文化研究ですよ」

「ふぅん」


 真実をすべて話そうとしない異母兄弟に、セイロンが向ける視線は冷たい。カイが焦って必死に言い訳を並べ立てている間に、目的の室にたどり着いた。


「おはよう、ツキ」


 白を基調にした室内は他の室に比べてあまり広くない。窓辺に設えてあるバスタブとサイドテーブル、訪問者のためのソファやローテーブル以外なにもないためか、広くないかわりに閑散としている。

 セイロンは、彼の入室とともに勢い良く振り返ったこの部屋の主――黒髪の人魚のいつにない反応に戸惑いながら挨拶を口にした。

 ツキの黒い瞳の中に不安の色を読み取ったセイロンは、彼女を不安にさせる要因を探してさっと視線を室内に走らせるも、特に変わった様子は見当たらなかった。

 なんだ?

 小首をかしげながらセイロンはバスタブに近づいていく。すると人魚の顔色がみるみる変わっていった。

 不安から困惑に、そして動揺とまた別の何かに。


「ツキ……?」


 セイロンはわき上がる戸惑いに急き立てられて、残りわずかな距離を駆け足で詰め寄り、伸ばしかけた腕をそのままに次の瞬間ハッと目を見張って身動きを止めた。


「どうしたんです?」


 いつものようにソファに直行してくつろいでいたカイが、固まってしまったセイロンに不思議そうな声をかけて近づいてくる。


「そこで待て、カイ!」

「え?」


 まるで何かの呪縛から解かれたかのように振り返ったセイロンがカイをキッと睨みつけた。きょとんとして立ち止まったカイは、首筋まで朱色に染めるセイロンの反応に意味を図りかねてますます頭上に疑問符を飛ばした。

 なんで急に、とか。言葉が通じればこんなことには、とか。なぜか眉間にシワを寄せた厳しい表情で頭を抱えてしまったセイロンの独り言を聞かされていたカイは、そこでふと顔色を青くする人魚に気がついた。

 言葉で相互理解を図れないことがこの人魚に相当の負担になっていることは、日を重ねて過ごすうちにわかってきたことのひとつだった。

 心優しい人魚はいつも人に気遣って、人の表情の変化に敏感で、それは時に間違った方向に向くことがある。すると決まって、人魚は表情をこわばらせて何か赦しを乞うような、そんな痛ましい表情を浮かべるのだ。


「……セイロン」


 カイが声をかけるが、


「あぁ、なんてことだ……」


 セイロンはすっかり自分の世界に入り込んでしまっているらしい。


「セイロン!」


 二回目は声を張り上げ、壁に反響するよう意識した。


「なんだ!!」


 すると自我の世界から戻ってきたセイロンに怒鳴られ、カイの肝は縮み上がった。思った以上にセイロンは切迫した心理状況だったらしい。


「何があったかわかりませんが、ツキが怯えているようですよ」

「――えっ?」


 カイが平静を装って伝えると、セイロンは途端に眉間のシワを消して振り返った。そこで初めてバスタブの縁にしがみついた涙目の人魚に気がついたようだった。ハッとした様子でセイロンが叫ぶ。


「泣くな! ツキは悪くない!!」


 なぜかセイロンは視線を外して顔を赤くしたまま人魚の頭を撫でた。かと思えば、まるで仇を目の前にしたような剣の鋭さでカイに侍女を呼べと言う。カイは訳がわからないまま、素直に従うしかなかった。




「……これは、何と言いますか……ねぇ」


 カイは感心しきりに言葉を感嘆に変えた。彼の隣に立つセイロンは感動もひとしおのようで、声も出ないようだった。

 彼が魅入られたように熱い視線を向ける先には、てれた様子でもじもじとソファに腰掛ける、西劉の伝統装束を完璧に身にまとった黒髪の少女の姿があった。

 普段、半身を青鋼の鱗に覆われた人魚は上半身だけ衣で包み、水を張ったバスタブの中だけで生活していた。セイロンやカイに捕らえる意識はないとはいえ、軟禁より哀れな生活に違いない。そんな人魚が、何の冗談か人間の足を手に入れていたのだ。

 第一発見者のセイロンは、つまりまぁ…意図せず見てしまった…そういうわけで。


「とりあえず、歩く練習をしましょうか」


 気を取り直したカイがセイロンの肩を押して促すと、彼は亡霊のような足取りでふらふらと前に出た。


「だ、大丈夫ですか……?」

「あぁ」


 カイが心配になって声を掛けるも、返ってくる声は心ここにあらずといった感じでさらに不安になる。しかしそんな気持ちは、ツキがセイロンの両手を優しく包みこむようにして握るのを見て、軽く吹っ飛んだ。


「ではセイロン、僕は調べ物がありますので失礼しますよ」


 セイロンに声をかけ、「よろしく」という意味を込めてツキに目礼した。ツキがわずかに頷くのを見てカイはふたりに背を向けて歩き出す。

 王に報告するのは少し見送ってしばらく様子を見よう、とカイはお節介を自覚しつつ心に決める。そうしなければ、事情を確かめようとする人で周囲が煩くなるだろうから。




 ツキに両手を握られたセイロンの眼差しは熱を孕んで潤んでいた。


「……ツキ……」


 何か言葉を声にするのも余分な気がして、唇に乗せた声は囁きに近いものだった。

 ぐっとツキの体が前に乗り出す。


「せぅろん」


 やっぱり彼女は上手に名前を呼べない。酷く舌っ足らずだ。それがまた酷く愛おしい。


「せぅろん」


 彼女は再度名を呼び、腕に力を込めた。セイロンが抱き上げようと身を屈めたが、ツキは緩やかに首を横に振ってやさしく身を離す。そして今一度、力を込めて腰を浮かした。

 懸命に、立ち上がろうと努力をはじめた。

 歩きたい。自分の足で。

 彼女の必死な願いが、握りしめた震える掌から伝わってくる。


「がんばれ」


 セイロンもいつしか真剣になって、ツキの第一歩を応援していた。


「がんばれ、ツキ」


 山の土中に埋もれていた人魚は、いつも寂しげで儚げだった。その尾びれが秘匿すべきものだと、聡い彼女は知って諦めていたに違いない。だから内向的に気持ちが向いてしまったとしても仕方がない。

 慎重に重心を移動して立ち上がったツキが、満面の笑みを浮かべてセイロンを見た。

 心優しい人魚は、もしかしたらコロコロと気持ちの良い声を上げて笑う少女だったかもしれなかった。おとなしい笑みを浮かべるだけでなく、人を冗談で笑わせていたかも知れなかった。

 今となっては、知るすべもないけれど。


「やったなツキ!――あっ」

「アッ!!」


 油断して均衡を崩したツキの体が床に倒れる前に、セイロンは彼女の体を受け止めて床に転がった。


「いったぁ……」


 ぶつけた腕の痛みに顔を顰め、ついで体の自由を奪う柔らかな重みに目尻を朱に染めた。頬を冷たいタイル貼りの床にくっ付けようと顔を背けたが、ツキの掌がその頭をすくって、床の代わりに滑らかな彼女の頬が押し付けられた。息を飲んで全身を硬直させたセイロンの耳朶に、ツキの吐息が吹きかかり、思わずすくみ上がる。


「    」


 ツキの押し殺したような声がセイロンの鼓膜を震わした。

 ツキ……何と言ったんだ?

 教えて欲しい。その言葉の意味を。

 誰か。

 彼女は、何と言った?

 セイロンは目を閉じてツキの背に腕を回して抱きしめた。

 『ツキ』――その言葉以外、セイロンには余分だと感じてしまう。代わりに身が焦がれるほど欲するのは彼女の紡ぎだす言葉だ。

 彼女を不安にさせるだけの言葉など必要ない。

 俺は、あなたを理解する言葉がほしいよ――…。



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