2.おばあちゃま、女神様とお話しする。
「……ぐすっ」
目の前の女神様は、ようやく落ち着きを取り戻しつつあった。……もっとも、時折小さく鼻を鳴らしているあたり、完全に泣き止んだわけではなさそうだが。
詩乃はそんなフィリアを眺めながら、どうしたものかと考えていた。
見た目は、絵画から抜け出してきたような美しい女神様である。けれど、こうして涙を拭っている姿を見ていると、どうにも昔の孫娘を思い出してしまう。
「よしよし。もう大丈夫よ」
気がつけば、詩乃の手は自然とフィリアの頭へ伸びていた。
さらさらとした金色の髪を、ゆっくりと撫でる。
「……ふぇ?」
フィリアが目を丸くした。
詩乃も、そこでようやく自分のしていることに気づく。
……あら。
そういえば、この方は女神様だった。
神様の頭を、こんなふうに撫でてしまって良いものなのだろうか。
少々不敬というものではないかしら。
そう思って手を引こうとしたところで、フィリアが小さく目を細めた。
「……あの」
「はい?」
「もう少しだけ……そのままで、いていただいても……?」
遠慮がちなお願いに、詩乃は思わず微笑んだ。
「ふふ。もちろんよ」
再び、そっと頭を撫でる。フィリアの翼が、少し嬉しそうに背中でふわりと揺れた。
それからしばらく、二人の間には穏やかな沈黙が流れていた。
神界のどこからか、柔らかな風が吹いてくる。
何とも不思議な場所だ。空とも大地ともつかない景色が広がっているのに、不安や恐ろしさは感じない。むしろ、随分と居心地が良かった。
「……お茶でもあれば良いのだけど」
泣き疲れたときには、温かい飲み物が一番だ。
それと、できればゆっくり腰を落ち着けて話ができる場所も欲しい。
詩乃がそう考えた、次の瞬間。
――ぽんっ。
「……あら?」
軽やかな音とともに、目の前の空間に何かが現れた。
丸い木製のテーブルに、向かい合う二脚の椅子。白い陶器のティーポットに、揃いのカップが二つ。小さな皿には、色とりどりの焼き菓子まで並んでいる。
おまけに、テーブルの中央には可愛らしい花瓶が置かれ、小さな白い花が一輪飾られていた。
あまりにも自然に現れたものだから、詩乃はしばらく呆気に取られてしまった。
それから、ぱあっと顔を輝かせる。
「まあまあ! いかにも異世界モノの第一話っぽい!」
「……だ、第一話?」
「ええ! ほら、異世界に来たばかりの主人公が、最初に不思議な力を体験する場面ってあるでしょう? あんな感じよ!」
詩乃は楽しそうにテーブルへ近づいた。
木目はきちんと通っているし、椅子の脚も見事な仕上がりだ。カップを持ち上げれば、陶器らしい滑らかな手触りがある。
試しにポットの蓋を開けてみると、ふわりと芳しい香りが立ち上った。
「まあ……本物のお茶だわ」
詩乃は目を輝かせた。まるで、初めてゲームの魔法を目にした子供のようである。
フィリアはそんな詩乃の様子を見つめ、ようやく小さく笑った。
「ふふ……驚かれましたか?」
「ええ、とっても! こんなことが本当にできるのねえ」
「ここは神界ですから」
フィリアは少しだけ背筋を伸ばした。
先ほどまで泣きじゃくっていた姿とは違い、その声には女神らしい落ち着きが戻り始めている。
「神界では、想いがすべての原動力になるんです。何かを望み、その姿を思い描けば、それが形になります」
「まあ。ということは、想像したものが、そのまま現れるの?」
「はい。ただし、どんなものでも無制限に、というわけではありません。想いの強さや明確さ、それを形にするための力によって、できることは変わります」
「なるほど、なるほど」
詩乃は改めて、目の前のティーセットを眺めた。
自分は確かに、お茶が欲しいと思った。それに、座ってゆっくり話ができればとも考えていた。
けれど、椅子の形や食器の模様まで、細かく思い描いたわけではない。
「でも私、こんなに立派なものを想像した覚えはないのだけど……」
「それは、私の力も少し働いているからですね」
「フィリアさんの?」
「はい。ここは私が用意した場所ですから、私の影響下にあります。なので、シノさんの願いを受け取って、自然と私の記憶にあるものを参考に形を整えたのだと思います」
「まあまあ。そういう仕組みなのね」
詩乃は感心したように頷いた。
どうやら、何でも自由に出せる便利な空間というだけではないらしい。それでも、考えたものが目の前に現れるというのは、なかなか夢のある話である。
「……これ、企画会議には便利そうねえ」
「きかくかいぎ?」
「ふふ。こちらの話よ」
思わず仕事のことを考えてしまった自分に、詩乃は小さく笑った。どうやら長年染みついた習慣は、死んだくらいでは抜けないらしい。
「さあ、せっかくだからいただきましょうか」
「は、はい!」
フィリアに勧められ、詩乃は椅子に腰を下ろした。
座り心地は申し分ない。
フィリアも向かいに座り、ポットから二人分のお茶を注いでくれた。
澄んだ琥珀色の液体がカップを満たし、甘く優しい香りが漂う。
「どうぞ」
「ありがとう」
詩乃はカップを両手で包み、一口含んだ。
「……あら、美味しい」
ほどよい温かさと、柔らかな甘み。どこか懐かしく、それでいて初めて味わう香りだった。
「お気に召していただけて良かったです」
フィリアも自分のカップを持ち上げた。
その表情は、先ほどまでとは見違えるほど穏やかになっている。
詩乃はそんな彼女を見て、ほっと胸を撫で下ろした。
やはり、温かいお茶というものは偉大なのである。相手が神様であっても、それは変わらないらしい。
「さて、と」
詩乃はカップをソーサーへ戻した。
「少し落ち着いたところで、改めてお話を聞かせてもらえるかしら?」
フィリアの背筋が、ぴんと伸びた。
「は、はい!」
「そんなに緊張しなくても大丈夫よ。まずは、どうして私をここへ呼んだのか、そこから教えてちょうだい」
「……分かりました」
フィリアは一度、深く息を吸った。
そして、詩乃の目を真っ直ぐに見つめた。
「最初に、お伝えしなければならないことがあります」
「あら、何かしら」
「シノさんは、すでに人としての生涯を終えられています」
「……ええ。それは、何となく分かっていたわ」
詩乃は静かに頷いた。
家族に見守られながら、眠りについた記憶は確かにある。あの穏やかな時間が、夢だったとは思えなかった。
「私、ちゃんと死んだのね」
「……はい」
「そう」
詩乃は少しだけ目を伏せた。
胸に浮かんだのは、悲しみよりも、懐かしい温もりだ。
最後に握っていた孫娘の手。
窓から差し込む日差し。
家族の顔。
それらを思い出し、詩乃は柔らかく微笑んだ。
「良かった。旅立つ間際に、みんなに、ちゃんとお別れができたのだもの」
フィリアは何も言わず、その言葉を受け止めた。
しばらくして、静かに口を開く。
「本来であれば、シノさんの魂も、命の巡りへと還るはずでした」
「命の巡り?」
「はい。生を終えた魂が、また新しい命へと繋がっていく、大きな流れのことです。どの世界の命も、いずれはその流れへと還っていきます」
「……輪廻転生、というものに近いのかしら」
「そうですね。まったく同じではありませんが、近い考え方です」
詩乃は頷いた。宗教や神話で聞いたことのある話ではあるが、実際に神様から説明されると、何とも不思議な気分になる。
「それで、私はその流れから外れてしまったの?」
「……はい。正確には、私がお願いして、一時的にこちらへお招きしたんです」
フィリアは申し訳なさそうに眉を下げた。
「本来、人の魂が神界に長く留まることはありません。ですが、シノさんは少し特別な方でしたから」
「私が?」
「はい」
フィリアは静かに頷いた。
「私は、たくさんの世界を見てきました。そこには様々な命がいて、それぞれが自分の人生を歩んでいます」
その声には、先ほどまでの涙声とは違う、深い慈しみが宿っていた。
「喜ぶ子もいれば、悲しむ子もいます。誰かを愛し、何かを願い、ときには道を間違えてしまうこともあります。それでも、みんな一生懸命に生きているんです」
フィリアは胸元へそっと手を添えた。
「私は、そんな命達が大好きなんです」
詩乃は黙って耳を傾けていた。
その言葉には、飾り気がなかった。目の前の女神が、本当に自分の世界を愛しているのだと分かる。
「ですが……だからこそ、私は迷ってしまいました」
「……迷う?」
「世界は、ただ穏やかであれば良いというものではないんです。新しいものが生まれるためには変化が必要で、変化には、ときに困難が伴います」
フィリアは少しだけ視線を落とした。
「神々には、世界が停滞しないように見守り、必要なきっかけを与える役目があります。けれど、私には……それが、どうしても難しくて」
「……なるほど」
詩乃はカップに視線を落とした。
琥珀色のお茶の表面に、淡い光が映っている。
「例えば、争いのない世界を願ったとしても、争いがなくなっただけでは、すべてが上手くいくとは限らない……ということかしら」
「……はい」
フィリアは驚いたように顔を上げた。
「そのとおりです。世界には、変わらなければ乗り越えられないこともあります。新しい知識や技術も、困難に向き合う中で生まれることが多いんです」
「そうねえ……」
詩乃はゆっくりと頷いた。
人の人生だって、似たようなものかもしれない。
何もかもが思いどおりになるわけではない。
失敗して、悩んで、それでも前へ進んでいく。
もちろん、苦しみそのものが素晴らしいわけではないけれど。
「でも、フィリアさんは、そのきっかけを作るのが辛いのね」
「……はい」
小さな返事だった。
「もし私が与えた試練で、誰かが傷ついたら。大切なものを失ってしまったら。そう考えると、どうしても……」
フィリアの指が、膝の上でぎゅっと握られる。
詩乃は、その様子を静かに見つめた。
彼女は、優しい神様なのだろう。
あまりにも優しくて、自分の選択によって誰かが傷つくことを、受け入れられないほどに。
「……それで、私に相談しようと思ったの?」
「はい」
フィリアは顔を上げた。
「シノさんは、生前、数え切れないほどの物語を作られました。しかも、そのどれもが、登場人物達の人生を大切にしたものだったと聞いています」
「まあ。そんなふうに言っていただけるなんて、光栄だわ」
「それだけではありません」
フィリアは少し身を乗り出した。
「シノさんは、物語を作るだけでなく、ご自身の人生も、とても大切に生きてこられました。仕事を愛し、ご家族を愛し、最後には、幸せだったと笑って生涯を終えられた」
「……あら」
詩乃は少し照れくさそうに笑った。
「そんなところまで、ご存じなのね」
「はい。シノさんをお招きする前に、魂の歩まれた道を確かめさせていただきました」
フィリアは真剣な眼差しで続けた。
「私は、物語を上手に作れる方を探していたのではありません」
「……え?」
「もちろん、そのお力もお借りしたいです。でも、それ以上に……」
フィリアは一度、言葉を探すように口を閉じた。
そして、ゆっくりと告げる。
「人として生きることの喜びも、悲しみも知っていて、それでも人生を愛おしいと思える方に、相談したかったんです」
詩乃は、思わず目を瞬かせた。
それは、予想していなかった言葉だった。
てっきり、ゲームのシナリオ制作経験を買われたのだと思っていた。
けれど、目の前の女神は、それだけではないと言う。
「……そうだったの」
「はい」
フィリアは小さく頷いた。
「シノさんが作られた物語には、辛い出来事もたくさんありました。でも、その先には、いつも何かが残されていました。希望だったり、誰かとの繋がりだったり……たとえ悲しい結末であっても、その人生が無意味だったとは描かれていなかった」
詩乃は、しばらく何も言えなかった。
長年、物語を書いてきた。たくさんの登場人物を生み出し、その人生を考えた。
幸せな結末ばかりではなかったし、読者やプレイヤーから随分と怒られたこともある。
けれど。
例え想像上のキャラクターだとしても。誰かの人生を、ただの道具として扱いたくはなかった。
その思いだけは、ずっと変わらなかった気がする。
「……ふふ」
詩乃は、静かに笑った。
「そんなところまで見てくださっていたのね」
「はい」
「ありがとう。とても嬉しいわ」
フィリアの表情が、少しだけ和らいだ。
詩乃はもう一口、お茶を飲んだ。温かな香りが、胸の奥まで染み渡る。
そして、ふと疑問が浮かんだ。
「でも、一つ聞いても良いかしら?」
「はい、何でしょう?」
「私、今はこうしてお話しできているけれど……もう人間としての人生は終わっているのよね?」
「……はい」
「それなら、これから私はどうなるの?」
フィリアは一瞬、言葉に詰まった。
それから、少し申し訳なさそうに微笑む。
「……実は、そのことも、ご相談したくて」
「……まあ?」
「シノさんは、今も人の魂のままです。私の力を少しお分けして、神界で過ごせるようにしているだけなんです」
「なるほど。だから、若返っているのね」
「はい。魂がこちらで活動しやすいように、姿を整えさせていただきました」
詩乃は自分の手を見つめた。
確かに、随分と若々しい。
ただ、今さら若返ったこと自体には、さほど執着はなかった。
それよりも気になるのは、別のことだ。
「……それで、私がここにいるのは、どのくらいの間になるのかしら?」
「それは……」
フィリアは、また少し困った顔になった。
「シノさんが、私を助けてやろうと思ってくださっている間は……と、考えています」
「……あらまあ」
「もちろん、無理に引き留めるつもりはありません! もしお嫌でしたら、すぐにでも命の巡りへお送りできます!」
慌てて説明するフィリアを見て、詩乃は小さく笑った。
「ふふ。分かったわ。そんなに慌てなくても大丈夫」
そして、ゆっくりとカップを置く。
「でも、フィリアさん」
「……はい?」
「私はまだ、あなたの世界を見たことがないのよね」
「……あ」
「どんな人達が暮らしていて、何に困っていて、どういう未来を願っているのか。それを知らないままでは、良いお返事はできないわ」
フィリアは、はっとしたように目を見開いた。
詩乃は穏やかに微笑む。
「だから、まずは見せてもらえないかしら。あなたの大切な世界を」
「……シノさん」
「それから、一緒に考えましょう。私に何ができるのかも含めて、ね」
フィリアは、しばらく詩乃を見つめていた。
やがて、その瞳に、またじわりと涙が浮かび始める。
「……ありがとうございます……!」
「あらあら。もう泣かないの」
「だ、だって……!」
詩乃は苦笑しながら、テーブルの上に置かれた小さなハンカチを手に取った。どうやら、先ほどのティーセットと一緒に用意されていたらしい。
それを差し出すと、フィリアは両手で受け取り、そっと目元を押さえた。
「……ぐすっ。はい……!」
詩乃はその姿を見て、思わず微笑んだ。
まったく。案外神様というのも、随分と人間くさいものなのね。
そして、ふと考える。
自分が生前、最後に書いた物語は、どんな結末だっただろう。確か、長く続いた冒険の一区切りとなる、穏やかなエピローグだったはずだ。
物語はここで終わっても、その世界はまだ続いていく。
登場人物達は、それぞれの人生を歩んでいく。
そんな願いを込めて、最後の一行を書いた。
……まさか。
その自分が、今度は本当に続いていく世界の物語に関わることになるなんて。
「……ふふふ」
詩乃は小さく笑った。
「どうかされましたか?」
「いいえ。何でもないの」
そして、目の前の女神へ微笑みかける。
「それじゃあ、フィリアさん。あなたの世界を、見せていただける?」
「……はいっ!」
フィリアは、今度こそ晴れやかな笑顔で頷いた。その背中で、白い翼がふわりと広がる。
次の瞬間、二人の前に淡い光が集まり始めた。
光は幾重にも重なり、やがて一つの大きな球体を形作っていく。その表面には、青い海と緑の大地、白い雲が浮かんだ。
「……まあ」
詩乃は思わず立ち上がった。
目の前に浮かぶのは、まるで小さな惑星そのもの。けれど、その表面には確かに、無数の命が息づいているのだという。
「これが、私の世界です」
フィリアの声には、深い愛情が滲んでいた。
詩乃は、しばらくその光景を見つめていた。
そして、ぽつりと呟く。
「……本当に、綺麗な世界ねえ」
その言葉に、フィリアは嬉しそうに微笑んだ。
こうして、神界での最初のお茶会は、思いがけない世界見学へと続いていくことになった。
なお、詩乃はまだ知らない。
この小さな球体の中に広がる世界が、どれほど大きく、どれほど複雑で、どれほど多くの物語を抱えているのかを。
そして、その一つ一つに向き合うことが、かつての仕事とは比べものにならないほど難しいのだということも。
けれど、今の詩乃の胸にあったのは、ただ一つ。
――もっと、この世界を知りたいわ。
そんな、純粋な好奇心だった。




