1.神界転生おばあちゃま。
人生とは、実に面白いものだ。
嬉しいこともあれば、悲しいこともある。
努力が報われることもあれば、どれだけ頑張っても思いどおりにならないことだってある。
けれど、振り返ってみれば、そのどれもが愛おしい。
少なくとも、綾ノ瀬 詩乃はそう思っていた。
◇◇◇
「おばあちゃん、聞こえる?」
優しく呼びかける声に、詩乃はゆっくりと瞼を持ち上げた。
見慣れた寝室。柔らかな日差しが差し込む窓辺には、季節の花が飾られている。
枕元に腰掛けているのは、すっかり大人になった孫娘だった。
「あら……どうしたの、そんな顔をして」
「だって……」
孫娘は笑おうとして、けれど上手くいかなかったらしい。目元に溜まった涙を、慌てて指で拭っている。
詩乃は小さく笑った。
「まあまあ。せっかくの可愛い顔が台無しよ」
「もう……おばあちゃんったら」
握られた手は温かかった。
その温もりを感じながら、詩乃はゆっくりと部屋を見回した。
棚の上には、家族写真がいくつも並んでいる。
若い頃、夫と二人で撮った写真。
子供達が小さかった頃の家族旅行。
孫達の入学式や卒業式。
そして、つい数年前に撮った、家族全員の集合写真。
随分と賑やかな人生だった。
ゲームのシナリオを書く仕事を始めたのは、まだ家庭用ゲーム機がようやく世間に広まり始めた頃だったか。
当時は、ゲームに物語が必要なのかと真顔で尋ねられたこともある。
それでも、詩乃は物語を書き続けた。
小さな画面の向こうに広がる冒険。
勇者と魔王。
出会いと別れ。
時には、世界の命運を懸けた壮大な戦い。
技術が進歩し、ゲームの世界が広がるにつれて、詩乃の描く物語もまた、大きくなっていった。
ジャンルもファンタジーに留まらず、思いつくままに様々な物語を書き続けた。
やがて、長期運営型のオンラインRPGを手掛けるようになってからは、毎年のように新しい物語を書き足した。
一つの事件が終わっても、世界は終わらない。
平和になった街では子供が生まれ、かつての敵が新しい道を歩み、何気なく交わした約束が、何年も後になって思いがけない意味を持つ。
そうして積み重ねた物語が、ある大型アップデートで一つに繋がったとき。
インターネットは、それはもう大変な騒ぎになった。
『先生、人の心はありますか!?』
『五年前のサブクエがここで回収されるとか聞いてない!!』
『敵側の事情を知ってから二周目やると涙が止まらない』
『もう全員嫌いになれないんだけど……』
『ここが沼か……皆、先にいくぜ……』
そんな感想を、夫と二人で眺めながら笑ったものだ。
もっとも、ゲームプロデューサーだった夫からは、しょっちゅう言われていた。
『君は本当に、プレイヤーの心を掴んで離さないねえ』
『あら。あなたが私の企画を通してくれるからでしょう?』
『そう言って、また三年後に回収する伏線を仕込んでいるんだろう?』
『ふふふ。さあ、どうかしら』
ああ、本当に懐かしい。
あの人が先に旅立ってから、もう随分と経つ。
寂しくなかったと言えば嘘になるけれど、それでも詩乃は幸せだった。
子供達がいて、孫達がいて。
仕事を引退してからも、昔の仲間が時折遊びに来てくれた。
何より嬉しかったのは、孫達がゲーム好きに育ったことだ。
最近は異世界転生というジャンルに夢中で、孫娘から借りた小説を何冊読んだことだろう。
ある日、孫娘が持ってきた新刊を読み終えた詩乃が、何気なく口にしたことがある。
『まあ。この魔王様、きっと三巻くらいで仲間になるわね』
『おばあちゃん!? まだ一巻なのにネタバレみたいなこと言わないで!?』
後日、予想が的中したときの孫娘の顔は、今でも忘れられない。
もっとも、詩乃としては、物語の構造から少し推測しただけだったのだけれど。
「……おばあちゃん?」
孫娘の声で、詩乃は思い出から戻ってきた。
「ああ、ごめんなさいね。ちょっと昔のことを考えていたの」
「……うん」
「本当に、楽しかったわ」
詩乃は穏やかに微笑んだ。
「たくさんお仕事をして、たくさん遊んで。素敵な人と結婚して、可愛い子供や孫にも恵まれて……」
少しだけ息を整える。
「……本当に、いい人生だった」
孫娘の瞳から、ぽろりと涙が落ちた。
詩乃は、その手をそっと握り返す。
「そんなに悲しまないで。あなた達が幸せに生きてくれることが、私には一番嬉しいんだから」
「……うん」
「それに、まだまだ面白いことがいっぱいあるわよ。あなたの人生は、これからなんだから」
窓の外で、小鳥が鳴いた。
穏やかな午後だった。
詩乃はゆっくりと目を閉じる。
ああ、本当に。
我が人生に、一片の悔いなし。
もしも人生というものにエンドロールがあるのなら、きっと随分と長いものになるだろう。
家族も、友人も、仕事仲間も。
そして、自分の書いた物語を楽しんでくれた、数え切れないほどの人々も。
その一人一人に、心から感謝を。
ありがとう。
とても、楽しかったわ。
そうして、綾ノ瀬詩乃の人生は、静かに幕を閉じた。
◇◇◇
……はずだった。
「…………あら?」
気がつくと、詩乃は見知らぬ場所に立っていた。
いや、正確には立っているのかどうかも怪しい。
足元には白い雲のようなものが広がり、頭上には淡い金色の光が満ちている。
遠くには、透き通った水晶のような柱が幾本も並び、その向こうには、星空とも海ともつかない不思議な景色が広がっていた。
「……まあ、綺麗」
詩乃は思わず感嘆の声を漏らした。
そして、自分の声が妙に若々しいことに気づく。
「あら?」
手を持ち上げてみる。
皺がない。
長年の仕事で少し曲がっていた指も、すっかり真っ直ぐになっている。
試しに頬へ触れてみると、肌には驚くほどの張りがあった。
「……あらまあ」
どうやら、若返っているらしい。
それも、相当。
詩乃はしばらく自分の手を眺め、それから周囲を見回した。
見覚えのない幻想的な空間。
若返った身体。
そして、死んだはずなのに、こうして意識がある。
ここまで条件が揃えば、思い当たるものは一つしかない。
「……もしかして」
詩乃の口元が、ゆっくりと緩んだ。
「これ、あの子が好きだった異世界転生というものかしら?」
なんということだろう。まさか、自分が体験することになるとは。
長年ファンタジーRPGを中心にストーリーを書いてきた身としては、少々胸が躍る展開である。
もっとも、つい先ほどまで穏やかに人生を終えたつもりだったので、驚きがないわけではない。
ただ、慌てたところで状況が変わるとも思えなかった。
「さて。こういうときは、たしか……」
神様から説明を受けるのが定番だったはず。
そう思った、まさにそのときだった。
「……あ、あのっ!」
背後から、澄んだ声が響いた。
振り返った詩乃は、思わず目を見開く。
そこに立っていたのは、息を呑むほど美しい女性だった。
淡い金色の長い髪。
澄み渡った空を思わせる青い瞳。
白と金を基調とした、優雅な衣装。
その背中には、柔らかそうな白い翼。
その姿は、詩乃がかつて手掛けたファンタジー作品に登場する女神そのものだった。
いや、実際に女神なのだろう。
女性の周囲には、柔らかな光が漂っていた。
「……まあ」
詩乃は思わず微笑んだ。
「とても綺麗な方ねえ」
「あ、ありがとうございます……!」
女性はぺこりと頭を下げた。
そして、何かを言おうとして口を開き――。
「…………っ」
なぜか、目に涙を浮かべた。
「……あら?」
「う、うう~……!」
ぽろり。
大粒の涙が、白い頬を伝う。
詩乃は思わず瞬きをした。
目の前には、見るからに神々しい女神様。
その女神様が、今にも泣き崩れそうになっている。
……これは、どういう状況だろう。
「あの、大丈夫?」
「だ、大丈夫です……! 大丈夫、なんですけど……!」
まったく大丈夫そうには見えなかった。
詩乃は少し困ったように眉を下げ、女神の顔を覗き込む。
「まあまあ。そんなに泣かないで。何か困ったことでもあるのかしら?」
「……っ!」
その言葉が、最後の一押しになったらしい。
女神は両手を胸の前で握りしめ、涙で潤んだ瞳を詩乃へ向けた。
「お、お願いです……!」
「はい?」
「どうか……どうか、私を助けてください……!」
詩乃は、ぱちりと瞬きをした。
なるほど。どうやら、これはよくある異世界転生の導入とは少し違うらしい。
普通なら、神様が転生者に使命を与える場面だ。
ところが、目の前の女神様は、なぜか自分に助けを求めている。
……まあ、最近はそういう展開もあるのかもしれない。
「ええと。まずは、落ち着いてお話を聞かせてもらえる?」
「は、はい……!」
女神は何度も頷いた。
「わ、私はフィリアと申します。運命を司る女神で、一つの世界を管理しているんです……!」
「まあ。運命の女神様なのね」
「はい……!」
フィリアは一度、大きく息を吸った。
そして、意を決したように叫んだ。
「お願いです……! 私の作った世界のために、アドバイスをください……!」
「…………」
詩乃は、しばらく黙っていた。
聞き間違いだろうか。生前は耳が遠くならなかったのが自慢だったのだけれど。
今、この女神様は何と言った?
世界を救ってほしい、ではなく。
魔王を倒してほしい、でもなく。
勇者になってほしい、でもなく。
……アドバイス?
「…………何て?」
思わず、素の声が出た。
フィリアは涙をぽろぽろ零しながら、必死に訴える。
「私の世界が……! 私の愛し子達が……! このままでは、世界の成長が止まってしまうんです……!」
「……ええと?」
「でも、私、どうしてもあの子達に辛い思いをさせられなくて……! 試練を与えなくちゃいけないのに、どうしても……!」
「試練?」
「はい……! 世界の命が成長するためには、定期的に困難や事件を用意しなくちゃいけないんです……! でも、でも、上手く出来なくて……っ」
「…………」
詩乃は、ゆっくりと考えた。
世界を管理する女神。
世界の成長。
その為に、定期的に発生させる事件。
そして、それらを計画するための相談。
……何だろう。妙に聞き覚えのある話である。
コアメンバーとか。
運営とか。
大型パッチとか。
企画会議とか。
「……つまり」
詩乃は、恐る恐る尋ねた。
「世界のメインシナリオと、サブイベントのシナリオを考えてほしい……ということ?」
フィリアの顔が、ぱあっと輝いた。
「そ、それですっ!!」
「…………」
「そういうことなんですぅ……!」
再び泣き始める女神を前に、詩乃は天を仰いだ。
いや、すでに天の上なのかもしれないけれど。
それはともかく。
綾ノ瀬詩乃。
数々の名作RPGを世に送り出し、ゲーム史に名を残した伝説のシナリオライター。
家族に見守られ、幸せな人生を終えたはずの彼女に、思いもよらない第二の人生が訪れようとしていた。
勇者でもない。
聖女でもない。
もちろん、魔王でもない。
まさかの――。
「……異世界の、シナリオライター?」
詩乃が呟くと、フィリアは勢いよく頷いた。
「はいっ!!」
その瞳には、今度こそ希望の光が宿っていた。
詩乃はしばらく彼女を見つめ、それから小さく息を吐く。
「……あらまあ」
そして、困ったように、けれどどこか楽しそうに笑った。
「人生って、本当に何が起こるか分からないものねえ」
こうして、一度は人生のエンドロールを迎えた伝説のシナリオライターは、運命の女神から、まさかの新規プロジェクトを持ち込まれたのであった。
なお、この時点で詩乃はまだ知らない。
この仕事には、納期もあれば、ノルマもある。
そして何より。
――今度の登場人物達は、全員、本当に生きているということを。
彼女の第二の人生は、まだ始まったばかりである。
気が向いたら続きを書くかも、な緩いお話です。




