白球の願い
『バブル』第2話「白球の願い」です。
今回、総士と保が出会うのは、野球が好きな一人の少年。
二人がそれぞれの思いで向き合う姿を、最後まで見届けていただけたら嬉しいです。
「クソっ、、、次は絶対・・・殺してやる・・・」
総士は毎朝のルーティンである、テラスでブラジル産の濃いめのホットコーヒーを気持ちの良い春風の中味わっていた。
毎朝1時間はこの平穏な時間を大事にしている。
「桐嶋すみれの件以来、何も起こらないな、、、まぁ良い事か。」
総士はあまり外に出かけるタイプではないが、気持ちの良い気候もあり、珍しく散歩をしに外に出る事にした。
人混みは好きではないので路地裏を歩いていたが、この天気で路地裏ばかりを歩いているのも勿体無いと思い近くの河川敷を歩く事にした。少し歩いていると、威勢の良い掛け声が聞こえてきた。カキーン!「ナイスバッチー!」「中継!サードサード!」中学生の野球チームが練習に勤しんでいた。総士はスポーツをテレビで観るのは好きだったが、自分でやる事はなかった。正確には自分が出来るスポーツを知らなかった、、、
キャッチャーミットにリズムよく投げ込まれる音、澄んだ空気を切るように響き渡る金属バットの音が総士は心地良く、暫く時間を忘れ見入っていたが、ベンチの端っこにいる足と手に包帯を巻いている少年の事が気になった。「野球もけっこう怪我するからな、デッドボールか?」少年は声も出さず呆然と仲間の練習を見ていた。
のんびりと過ごす毎日の総士とは打って変わり保は世話しない毎日を過ごしていた。が、どんなに忙しくても笑顔を忘れない保は流石、学生時代にサッカーでインターハイに出ただけある体力おばけだった。「あっ、たける君!今日も診察だったね、怪我の具合はどう?」「まぁ、、、どうだろ、、、」元気のない声で応える少年。「そっか、早くまた野球出来るように頑張ろうね!」「、、、はい」と小さく頷く少年を見送る保は少年の背中を見て何か違和感を感じた。首筋にアザらしき痕が見える。野球ってあんな所にもアザが出来るのか、、、首にボールが当たる事もなくはないのか?
保は妙にアザの事が気になり、仕事後少年を診察している医師の元を訪ねた。「お疲れ様です。」「おぅ宮木くん、お疲れ様。どうした急に?」「お疲れの所すいません、あの中原武流くん。中学生の患者さんの。」「あぁ、わかるよ野球少年の子だろ?」「そうです!あの子の怪我の事お聞きしてもよろしいでしょうか?少し気になってしまって。」担当医は少し考えた顔をしたが「気になるか、、、腕は骨にヒビがあったが、もう少しでギブスも取れると思うよ。」「そうですか、首のアザはどうでしたか?」「よく気付いたな、おかしいよな。今は野球が出来る状態じゃないのに、あのアザは明らかに新しい。本人は練習を見てたらボールが当たったと言い張るが、、、」「そんな偶然が、、、」「怪我もそうだが、1番気になるのは心の部分だ」「心、、、?」保もそこに違和感を感じていた。「あの子は小学生の頃から見ているが、前はあんな静かな子じゃなかったよ。野球が大好きで怪我してはすぐに治すって前向きな子だった。だが、、、最近の彼は完全に心を閉ざしてる感じであまり会話もしてくれなくなったよ。」「何かきっかけが?」「すまん、彼も中学2年生になったからな、年頃の変化かと思ってあまり深くは聞けてないんだ。」「そうでしたか。確かにそのくらいになると急に大人になってて驚かされる事ありますよね。ありがとうございます。すいませんお仕事後に。」「いや大丈夫だ。宮木くん、君は良い看護士になるよ。」医師から見て保の観察力は素晴らしいと感じたのだろう。何より患者に寄り添おうとする保の姿勢に。
保は休日に河川敷へ行き中原武流の所属する野球チームの練習を見に行った。そこに見覚えのある男がいた。総士だった。
「総士!?珍しいな外にいるなんて!」「最近時々見に来るんだ。なんかこの音が好きなんだよ。」「昔野球やってたんじゃないかお前。」「かもな、、、。それと、あの子が気になるんだ。」総士はそう言うとベンチにいる少年を指さした。「武流くんの事知ってるのか!?」保は驚いた顔で言った。「いや、全く面識はない。だけどなんかあの子の持ってる雰囲気が気になるんだ。お前こそ知ってるのか?」こういう時の総士の勘は良く当たる事を知ってる保は自分の思ってた違和感が確信に変わり胸騒ぎがした。「うちの病院に来る患者だよ。俺もあの子の怪我が気になってな」
そこへ遅刻したのか急いで走ってくる野球ユニフォームを着た少年を保は呼び止めた。「ごめん、少しいいかな。中原武流くんの怪我について教えてほしいんだけど、練習中にどんな風に怪我したのかな?」少年は考えた顔をして「武流?練習で怪我したんじゃないよ、自転車で転んだって言ってたよ。」総士と保は顔を見合わせた。
「あいついないと次の大会勝てないから早く治ってほしいよ!ごめんなさい、行かないと!」「あっ、ごめんね、ありがとう!頑張って!」
「自転車で転んだか、、、病院では練習中の怪我と、、、おかしいな。」「そうだな、何かありそうだな。」
翌週、再び武流が病院に診察に来た。診察後保は武流を呼び止め、話しをする時間を作った。
「武流くん本当の事を知りたいんだけど、どこでその怪我を?」「練習中に、、、」武流は小さな声で言った。「チームメイトの子が自転車で転んだって言ってたよ?」「そしたら、そう、、、」「その首のアザは?腕と足の怪我の後にできたよね。」武流は黙っている。
「ちょっとごめんね。」保は何か話せなそうにしている武流の服を強引にめくると、脇腹や背中に数箇所のアザがあった。保はやはりと思った。
「武流くん、これは?もしかしてチームメイトに?」武流は涙が溢れそうになるのを堪えている。「違う、、、」「ご両親に相談してもいいかな?」「絶対ダメ!それだけはやめて!全然痛くないから大丈夫!」武流は興奮しながら保へ訴えかけた。「わかった。でも武流くん、これは痛いとか痛くないとかの問題じゃないんだ。これ以上の怪我になると野球も出来なくなっちゃうよ。」
「野球なんてどうでもいい、、、」「えっ?」「僕が自分で解決するから邪魔しないで!」武流は保へも敵意を向けるようにその場を離れていった。その後ろ姿を保は止める事ができなかった。
その夜、保は総士へ電話をかけた。「そういう事か。親からの虐待か。あれ程の怪我だから母親ではなくおそらく父親の方だろう。」「俺もそう思うけど、、、まだ確証があるわけじゃない。児玉さんに相談してみようかな。」「おい、保。ちょっと肩入れしすぎじゃないか?家庭の問題は他人が踏み込まない方がいいぞ。」「でもこのままじゃ!大事になってからじゃ遅いんだよ!」「それはわかるが、、、あの子も自分で解決するって言ってるんだろ?」「いや自分で解決ってどうやって!」「まぁ少し怖い言葉だが。あんま入れ込みすぎるなよ。」「わかってるよ!」保は不機嫌そうに電話を切った。
「記憶が少し無くなったぐらいじゃ性格は変わらないか、、、」総士は武流の事よりも保の事が心配だった。またあの時みたいな事になるんじゃないかと・・・
数日後、保の心配が現実となってしまった。
救急の患者がストレッチャーに載せられ運ばれてきた。「お母さん!お母さん!」患者の横には武流が大声で叫んでいる。運ばれて来たのは武流の母親、中原琴乃だった。
「中原さーん!聞こえますかー!病院ですよ!大丈夫ですよー!」
救急隊が腹部をしっかり抑えているが、出血が止まらない状態だった。意識はあるようだが苦痛で顔を歪ませ呼吸が荒い。
手術室に向かう途中、仕事終わりの保の横を通った。保はすぐに武流に気付き目の前にある光景に理解が追いつかなかった。
「武流くん!どうした!?何があった!?」武流は保の声は聞いていない様子で母親に声をかけてかけ続けている。
母親を乗せたストレッチャーは勢いを落とさないまま手術室に入っていき。手術室のランプが光った。緊急手術だ。
武流は手術室入口で母親から離され1人呆然と立ちすくんでいた。そんな武流の肩に手をかけ保は近くの椅子に座らせた。
「武流くん、落ち着いて。ここの先生達は優秀だからお母さんはきっと大丈夫。何があったか教えてくれるかな?」武流は何も話そうとせず、保の事は目にも入っていない様子だった。
「お父さんは?一緒に来なかったのかい?」「——してやる、、、」「えっ?」保がもう一度聞き直そうとした時には、武流は保の元から急いで離れていった。保も後を追いかけるが、真面目な性格のせいか病院を全力で走る事は出来ず、武流を見失ってしまった。
保は頼るように総士に電話をかけ今あった事を報告した。「そうか、それはもう警察の仕事になりそうだな。」「でも、気になるんだよ。武流くん、、、殺してやるって。そう言った気がするんだ。」「まだ中2だろ?そんな事を本気でするか?」「全然あるよ!最近の武流くんの様子を見ると看過できない!やっぱ俺行ってくるわ!」「おいっ!ひとまず警察に任せておけって!」総士がそう言った時にはすでに電話は切れていた。総士はため息をつき椅子に座るが、落ち着かず外へ出た。
保は病院に戻り武流のカルテから住所を確認し、武流の家に向かった。
総士はおそらく保は武流の家に向かったのだろうと思ったが、場所はわからない。少し考えて柏戸警察署に向かった。総士は普段あまり外出しないので車も自転車もなく、タクシーに乗った。
柏戸警察署に着くと生活安全課に向かい児玉という方を呼んでほしいと伝えた。総士が児玉に会うのは初めてだが、児玉の事は保から話しを聞いていたので、今頼れるのはこの人かと直感で思ったのだ。
「お待たせしました、児玉と申します。ご用件は何でしょうか?」想像していたよりも小柄で、外で会えばとても警察官とは思わない風貌だと総士は思った。
「突然すいません。宮木保の友人で白雲総士といいます。」「宮木さん?・・・あぁ看護士さんのですね!少しお話しした事があります。それで今日は?」総士は保との話しに児玉が出てきて、それを思い出し今来た事、中原武流という少年に起こった事、保が武流の元へ向かってる事をなるべく簡潔にまとめ伝えた。
「そんな事が。それは一刻を争いそうですね。わかりました、すぐに中原さんの住所を照会してもらえるよう上に言ってきます!」総士は軽く頷き、本当は保の携帯をハッキングし位置情報を特定する事もできたが、後々面倒な事になりそうなのでそれは児玉の返答次第にしようと考えていた。
少し離れた距離からでも児玉が何か大声で言っているのが聞こえる。ダメそうかな、、、しばらくすると児玉が走って来た。「すぐに行きましょう!」総士は少し驚いた顔で児玉の上司の方へ目を向けると、上司はわかりやすく困った顔をしていた。
こういう警察なら信頼できるかもな。総士は児玉を信じれると感じたが、児玉は違った。
本当は総士を見た瞬間、それが刑事の勘というやつなのかはわからないが、この男は何か危険な感じがする、、、そう感じていたのだ。
だが今はそんな事考えている場合じゃない、中原武流の件に集中しろと自分に言い聞かせていた。
警察車両に乗り中原武流の家に着くと玄関前に保が中の様子を伺っていた。「宮木さん!」児玉が声をかけた。「児玉さん!?総士!?」保はすぐに総士が児玉を連れて来たと理解した。
「話しはお聞きしました。武流くんは中に?」保は横に首を振った。武流の家は一般的な大きさの一軒家で、車が1台止まっているが家の中の明かりはついていない様子だった。
「いくら呼び鈴鳴らしても反応はありません。」「そうですか。事が起こる前になんとか見つけないと。手分けして探しましょう!私はこっちに行きます!」と言うと児玉は走っていった。
「そしたら俺はあっちの方見てくるわ!」と保は総士に言い走ろうとしたら瞬間、総士の手が保の腕を掴んだ。「もういいだろ!?あとは警察に任せろ!」「なんでだよ!みんなで探した方がいいだろ!?」強く返す保に総士は落ち着いた口調で返した。
「お前は俺に繋ぐだけでいいんだ。」保はその言葉に怒りを露わにして総士の手を振り払った。「なんだそれ!?どういう事だよ!俺じゃ人は救えないって事か!?医者でもない!バブルも使えない!ただの看護士だからか!?」「そうじゃない。心配なだけだ。お前は・・・」総士は言葉を言いかけてやめた。
「俺がなんなんだよ。ほっといてくれ!俺は武流くんを見つける!」保は総士から逃げるように走っていった。
総士は目をつぶり深く深呼吸をした。
児玉と保は武流の家の近辺を探し回るが見つける事が出来ずにいた。「どこに行ったんだ武流くん。」もしかして本当に父親を殺してなんていないよなと嫌な胸騒ぎがしてとにかく走り続けた。
保が困り果てていると、総士から着信がきた。「いたか?」「いや、見つからないよ、、、」さっきの事で電話越しでも2人とも少し気まずそうな雰囲気だった。
「3丁目辺りは行ったか?まだなら行ってみるといい。」「3丁目?なんでだ?」「家の玄関前に酒の空瓶が数本置いてあっただろ。相当な酒好きだ。あの家から徒歩圏内にある飲み屋は3丁目に数軒ある。」「自分の妻を刺した後だぞ!?酒飲みに行くか!?」「だからだ。暴力をするような心の弱い奴は何かあるとすぐ娯楽に逃げる。酒好きならなおさらだ。まぁただの推測。勘だけどな。」保は少し笑った。
「勘か。なら信用出来る。お前の勘ほど頼りになるものはないからな!」「俺は超能力は使えないぞ。少年なら親の行きつけの店を知ってるかもしれない。家から3丁目までの徒歩での最短ルートの道を探してみろ。広場や公園があればより探してみるんだ。」「わかった!ありがとうな、、、」
総士は勘とは言いつつ、武流の家周辺の防犯カメラをハッキングし、武流の姿を見つけていた。ただ見つけたのも今の時間から20分前の姿、3丁目にいるという事だけはわかったが、その後は見つける事が出来ず、残りは総士の勘だった。
保は家からの最短ルートを追う為に一度スタート地点の武流の家に戻った。そこには児玉も戻ってきていて、総士に言われた事を伝えた。「確かに、空瓶が並んでる。私よりよく観察できてて恥ずかしいわ。車で行きましょう。」「はい!あいつの勘はホント良く当たるんですよ。」
児玉がゆっくりと車を走らせ、横で保がナビをしていると「少し先に公園があります!探してみましょう!」
保らが公園を見つける30分前から武流は公園内の茂みの中で息を潜めていた。武流は何日も前から父親の後をつけ行動パターンを覚えていた。酒を飲んだ後は必ずこの公園の中を通り、数分あのベンチに座るはずだ。そこを狙う。
武流の予測通り、父親の中原康之は酔っ払っている様子でフラフラと歩いてきてベンチに腰をかけた。
武流に迷いはなかった。イメージ通りに進むシナリオに笑みがこぼれかけた。その一瞬の油断が失敗を起こした。足元にある石に気付かずに蹴ってしまった。石は音をたて康之の近くまで転がっていった。康之は音に気付き後ろを振り向いた。「なんだ?お前なんでここに?」武流はここで引き下がるわけにいかなく、正面突破で康之に向かって走った。その手にはナイフが握られている。「うぁーー!」「てめぇ!なんだ!?」康之は立ち上がるが、酒が回っているせいでうまく立てずに尻もちをついた。結果的にそれが武流のナイフを避ける形になった。
武流はそのまま地面に座る康之に向けてナイフを振り下ろそうとするが、康之は右手て地面の砂利を掴み武流の顔目掛けて投げつけた。武流は一瞬顔を逸らすがその一瞬で形成は逆転された。康之は座ったまま武流の膝を押し蹴り、すぐに立ち上がり態勢を崩した武流の顔に拳を振り抜いた。
酔っ払いとはいえ、康之も昔は野球に打ち込んだ体育会系で腕っぷしが強く、まだ中学生の武流にはあまりに重い拳だった。武流は思わずナイフを落とし地面に倒れた。康之は馬乗りになり武流を殴り続けた。「また刺し損ねたな!何度来ても一緒なんだよマヌケめ!」
武流は両手で顔を守るが全ては防ぎ切れず数発に一回激痛が走っていた。武流は殺されると感じたが、別にこの感覚は初めてではなかった。これまで幾度となく襲ってきた感覚に、身体はもう慣れてしまっていて恐怖心はなかった。
保と児玉は公園に差し掛かると、薄暗いが街灯の光で人が揉み合ってる姿はすぐにわかった。急いで車を降り、それが武流という確信はなかったが、保と児玉は走った。「おい!そこ!何してる!」児玉が大声で叫ぶと、康之は舌打ちをし、すぐに反対方向へ逃げていった。「ここはお願いします!」と児玉は保に言い、康之の後を追った。
保は「大丈夫!?」少年の顔は腫れていたがすぐに武流だとわかった。「武流くん!?武流くん!?大丈夫か!?」武流は言葉は出さず小さく顔を縦に振った。保はホッとしたが、近くに落ちているナイフを見て、さらに安堵感が増したのか、悲しさなのか、色んな感情が湧いてきた。「良かった、、、良かった、、、」
武流をベンチに座らせ気持ちを落ち着かせていると、康之を追っていた児玉が戻ってきた。「ごめんなさい、見失ってしまいました。」児玉はうなだれた。「あいつは、捕まるんですか?」武流が小さく問いかけた。児玉は武流の顔を見ると「酷い。自分の子にこんな事するなんて。父親失格ね!大丈夫、必ず警察が見つけ出して罰を受けさせるわ!」児玉は怒りを露わにした。「児玉さん、えっと〜いちお家族なんで」保は児玉を見て武流の方へ目配せした。「あっ、ごめんなさい。でも武流くん、これは立派な虐待。犯罪です。君が訴えればしっかり罰せられるわ。お父さんを訴えるのは心苦しいかもしれないけど、しっかり考えてみて。」武流は悩む様子もなく冷静だった。「心苦しくないです。父親だなんて思ってませんから。でも、訴えません。捕まえないで下さい。」
保と児玉は驚いた「どうして!?これ以上は武流くんの身が危険すぎるよ!」「僕が殺します。邪魔をしないで。」武流は淡々と話し、その殺気に大人2人は言葉を失った。この少年の意思の強さを感じた。それでもほっとくわけにはいかなかった。「それはダメだ!武流くんが犯罪者になる必要なんてどこにもない!とりあえず怪我が治るまで大人しくしておこう!」保は今は時間を稼がせるしかないと思った。
児玉には警察としての正義があった。捕まえないでと言われそれを聞く訳にはいかない。これは立派な犯罪だ。いち早く康之を捕まえ、武流の安全を確保しなければと心に誓った。
「ごめんね武流くん。私も君を守りたいの。」児玉は少し離れた所へ移動し、署に連絡を入れた。
武流の顔の腫れは増していき、本当に治療が必要だと一緒に病院に行くよう説得し、武流も母親の容態を確認したいとこれを了承した。
児玉は2人を病院に送り届け、康之の捜査にあたった。医師に武流の治療を任せている間、保は総士に電話をかけた。「総士の言った通りだった。3丁目の公園にいたよ。父親には逃げられたが。」「そうか、ひとまず見つかったのは良かったな。」保は武流の怪我と自分で解決するという言葉の意味を伝えた。「なるほど。やっぱりそういう意味だったか。」「総士!1つ相談があるんだ。」「なんだ?」「父親を見つけて、父親の記憶を消すってのはどうかな?あぁなったのも昔からじゃないと思うんだ!少なくとも小学生の頃の武流くんは明るかったし、ここ1年ぐらいの事だと思うんだ!その間の記憶を消したら、また元に戻れないかな!?」必死で訴える保に総士はため息をついた。「いいか?それであの子が救われると?父親の記憶が消えようとあの子の中では生きている。急に良い父親になろうが変わらないだろう?」保は反論できなかった。「たしかに、、、」「消すとすれば・・・少年の方だな。あの子の殺意の記憶を消す。」
琴乃の手術は無事に成功し、幸い臓器や血管の損傷も少なく1週間程度で退院はできそうだった。武流の顔の腫れも引いてきた頃、保は武流を呼び出し話しをする事にした。そこには総士もいた。
「誰ですか?この人」「白雲総士。俺の友達。」武流は疑いの目で総士を見た。「なんで友達を呼んだんですか?」「うん、まぁなんというか武流くんの力になれるかなと思って。ごめんね突然。」
総士は空気を読まず率直に武流に言った。「君は父親を殺したいのか?」「おいっ!総士!」保はストレートすぎると慌てた。保とは対照的に武流は冷静だった。「そうだよ。あいつは僕が殺してやる。」「失敗したんだろう?まだ続けるのか?」「当たり前だ!何度だってやってやる。」「ちょっと待った待った!」勝手に上手い事説得しようと思ってた保は直球すぎる2人に1人慌てふためいていた。「なんだよ。そういう話じゃないのか?」「いやそうだけどさぁ!こう順番とかさぁ!」総士は少しめんどくさそうな顔をした。武流も同じだった。「宮木さんなんなのこれ?」保ももう開き直った。「武流くん!考え直そうよ!その歳で殺すなんて言葉使っちゃダメだ!もちろん行動にしてもダメだ!確かに武流くんが辛いのもわかる!けど人には超えちゃいけない境界線てものがあって!」「うるさい!何がわかるんだよ!わかるわけないだろ!毎日のように殴られる痛みだって!いやそんなのはどうでもいいんだ。僕だけなら耐えられる。でもお母さんにまで、、、それは許せない!殺してやる!」保はこの小さな体から放たれる殺気と決意に圧倒された。
総士はそれを静かに聞いていた。「保。無駄だ。この子の決心は固いだろう。俺もこの子の意思を聞きたかった訳じゃない。ただ目を見たかっただけだ。」「目?」「言葉や意思に迷いがある奴は必ず一瞬目に出るもんだ。この子には何の迷いもないよ。本気だ。」「そんな、、、」保は絶望した。こんなまだ14歳の子に殺意なんてあんまりすぎる。
「だが、本当に父親を殺せれば満足なんだな?」総士は武流の目をしっかり見つめた。「あぁ満足だよ。あいつさえいなくなれば。」武流も目を逸らさなかった。総士は少し笑った。「フッ、だからまだ子供なんだよ。」小馬鹿にされた感じに武流は苛立った。「君が父親を殺して満足するのは勝手だ。でも母親はどうだ?夫も殺され息子まで犯罪者になって、世間から誹謗中傷され、まともに仕事も出来ずに隠れるように貧しく生きていくだろう。その頃君は刑務所の中だ。母親はどこまで生きる力を保てるか。それでも君は自分の起こした事に後悔しないか?母親までいなくなっても耐えられるか?」武流は総士から目を逸らした。
「何か事を起こしたい時はそこまで考えるんだ。」武流は自分の感情がわからなくなってきて涙が出てきた。「でも、でも、あいつが生きてたら僕は、、、あいつの顔を見たら殺したくなる。頭でわかってても何も考えられなくなる瞬間があるんだ。」武流はこれまで張り詰めていた糸が切れたように大声で泣き出した。その姿は紛れもなくまだ子供だった。
保は膝をつき武流の体を引き寄せた。「武流くん、もっと人に頼っていい、甘えていいんだ。1人で抱え込まないでいいんだよ。君を待ってる仲間もいる。お母さんだって。」「僕はどうしたら、、、どうしたらいいのかわからないよ。」武流は頭が混乱していた。自分にあった正義に迷いが生まれたせいだった。
総士はその様子をしばらく見た後、武流へ1つ選択肢を与えた。「もし君がまだ父親を殺したいと思うなら俺は構わないが、その熱血漢の男は君をほっとかないだろう。それは困るんだ。」「えっ、俺?なんで?」保は総士の顔を見るが、総士は武流から目を逸らさなかった。「俺が君に出来る事は1つ。その記憶を消してやる事だ。」武流は言われた事の意味が理解出来なかった。「君の持ってる殺意を消してやる。」総士も薄々自分で感じていた事を保も感じた。
総士は子供が苦手か?
「総士、それじゃわからないって。」総士はまた少しめんどくさそうな顔をした。「俺が説明するよ。」保は武流にバブルの事をわかりやすく説明した。保は総士を天才的と思っているが、総士の苦手や欠点を見つけるのがけっこう好きだった。
総士は天才であるが故に理解されない事も多く、そこに細かく付き合う事が苦手なのだろう。その点、保は子供が好きでわかりにくい事もわかりやすく説明する事が上手かった。
「本当にそんな事が出来るの?」バブルの事を理解した武流が総士に確認した。
「あぁ、出来る。今回君にするとすれば、殺意が芽生えた日から今日までの事だ。父親を恨んでる事までは消さない。そこからは君が自分で乗り越えるんだ。」「待った総士!なんでだ?父親を恨んでる事を消してあげた方がいいんじゃないか!?」
「それはダメだ。この子の記憶から消えたとしても父親自身は何も変わってないんだ。ギャップが強い方が恨みもまた強くなる。同じ事の繰り返しになる。」「そしたらやっぱり父親の記憶も消せばみんな幸せじゃないか!?」総士はため息をつく。「保、正気かお前?クズ親の罪をなかった事にしろと?俺は犯罪者が得する様な事はしない。そんな事にバブルを使うな!」保は自分の発言を反省した。「確かに、、、そうだな。ごめん。間違ってた。」総士は再び武流を見た。「わかったか?記憶を消した後は自分自身で乗り越えるんだ。」「待って。待って。」武流は必死で頭を働かせた。記憶を消す未来、消さない未来、どちらが自分にとっても、母親にとっても良い未来になるのか。自分の殺意を自分の力で抑え込めるのか?あいつを目の前にしても衝動的にならないのか?しばらく考え武流は答えを出した。
「お願い。記憶を消して下さい。」武流は総士の目を真っ直ぐ見て言った。
「わかった。着いてこい。」総士は背を向け歩き出したが、すぐに立ち止まり一言だけ武流に伝えた。「人を頼るのは弱い事じゃない。それも強さだ。野球をやってるなら子供の君でもわかるだろ。」一言余計だが、総士なりに武流の決断に応えるという事だと保はわかった。保は武流の肩を掴んだ。「武流くん、大丈夫だ。明日からまた君らしく生きていける。」保はこれまで人に頼ろうとしなかった武流が、総士を頼った事の成長に喜びを感じていた。
バブルのある地下に着くと総士は早速準備に取り掛かった。
「本当にこんな所が、、、漫画みたいだね。」武流は目の前にあるバブルの装置を見て現実とは思えない表情をしていた。
「大丈夫?怖くない?」保は武流の心境を気遣ったが、「うん!なんかワクワクする!」武流は漫画の主人公になった気分のようにこの状況を楽しんでいた。「あいつに負けた気もして悔しいけど、お母さんを悲しませたくない。」「大丈夫。児玉さんが捕まえて必ず罪を償わせてくれる。それに、君は負けてない。強さって力が強い事だけじゃないんだ。お母さんを守る為に暴力を止めれた君の勝ちだ。」武流は頷いた。
数十分経過した後、バブルの準備が整った。
武流は球体の中の椅子に座った。総士は最後の確認をした。「消すのは君の父親に対する殺意の部分だけだ。大体ここ数ヶ月の期間だろう。その間の記憶は思い出せなくなる。だが、目を覚ましても君は父親の事は恨んでる。同じ事を繰り返さないよう君の強さに期待するよ。」武流はいざ椅子に座ると緊張した様子になっているが、強い眼差しは変わらなかった。「わかった。もう迷惑かけないように頑張るよ。」「始めるぞ。」「待って!この時間までの記憶を忘れるって事はお兄さんの事もわすれちゃうんだよね?」「俺か?そうだな。保とは前から知ってる仲だろ、保の事は忘れないから安心しろ。」「そっか、、、キャチボールでもしたかったな、、、ありがとうございました!忘れちゃうけど、お兄さんの事案外嫌いじゃなかったよ!でもせっかくイケメンなんだからもっと愛想良くした方がモテるよ!」武流は笑顔で総士に言った。総士は少し笑いながらめんどくさそうな顔で返した。
総士はバブルを起動させるスイッチを押した。無数の泡が武流を包み込む。武流は子供が母親に添い寝する時のような安心した顔で眠りについた。
「寝顔を見るとほんとまだ子供だよな。じゃぁ終わったら呼んでくれ。」保は扉の外に出ていった。
総士の目の前には武流の記憶の泡が溢れ出てきた。「努力家じゃないか。」武流の泡の色は赤色が多く、赤は何かに打ち込み努力をしてる時に現れる色だった。が、数ヶ月前の記憶から黒い大きな泡ばかりになっていた。「ここからだな。」総士は記憶の分析を始め、武流が殺意を抱いた頃を割り出しそこからの記憶を取り除いた。
「終わったぞ」総士は扉を開け保を呼んだ。「早かったな!お疲れ様!」「短い期間だったからな。この子は強い子だと思うぞ。きっと大丈夫だ。」「うん、あとは任せてくれ。」保は武流を抱え地下室をー後にした。
12時間後、武流は目を覚ました。目を覚ますと武流は右手を握られてる事に気づいた。入院中の母親の琴乃だった。保は琴乃の横に武流を眠らせていた。「武流!大丈夫!?」琴乃は涙を浮かべながら武流を呼んだ。武流は状況を飲み込めていなかったが、すぐに母親の状態には気がついた。「お母さん!?どうしたの!?大丈夫!?」「うん、大丈夫大丈夫!ちょっとお腹痛くなっちゃっただけ。」琴乃は武流が眠っている間に保から説明を受けていた。武流は父親に殴られた時に頭を打ち記憶を少し忘れてしまっているが、思い出さない方が武流の為だと。その為に父親から虐待を受けていた期間の事は話さないであげてほしいと。琴乃はもちろんそうすると保に約束した。
武流もまた転んだ時に頭を打って気絶していたと、思い出せない事は無理して思い出さなくていいと保から伝えられた。
「転んで頭ぶつけたのか、全然覚えてないなぁ。そのうち思い出すか!」
武流は琴乃が退院出来るまでは、親戚の家にお世話になる事になった。武流から父親とは一緒に居たくないと言ってきたからだった。
1週間後、総士と保は河川敷で武流の野球チームの練習を見ていた。そこには武流が元気良くチームメイトとプレーしてる姿があった。「楽しそうだな。」「うん、あの顔を見るとこれで良かったんだって思えるよな。」「その後はどうなんだ?」「母親は無事退院、父親とは離婚するそうだ。武流くん連れて引っ越しも検討したそうだが武流くんに言われたそうだ、このチームで野球がしたい、お母さんは僕が守るから安心してって。」「そうか、強くなってるじゃないか」総士は安心そうな顔をした。「しかもだ!父親が自ら出頭してきたらしい!それで罪を償ったら自分がこの街から出ていくって!どうなってんだ?お前なんかしてないよな?」「まさか、俺は父親の顔も知らない。」「だよなぁ。一体どんな気持ちの変化だよ。」保は不思議そうにしていた。
総士と保が武流の変化を見守っていると、逸れたボールが転がってきた。「すいませーん!」と少年が駆け寄ってきた。武流だった。「あっ、保兄ちゃん!ボールこっちお願ーい!」武流は保に手を振っているが総士には気付いていない、記憶はしっかりと消えていた。保はボールを拾って投げようとしたが、それを総士に向かって投げた。「ほら、キャッチボール。してやれよ。」総士は少しボールを見つめた後、武流に向かってボールを投げた。
ボールは武流から大きく離れた方向へ向かって飛んでいった。保は思わず吹いた。「プッ、お前野球はやってなかったみたいだな。」
その日より3日前。総士は武流の海馬から取った記憶を自分の海馬へと入れた。人の記憶を入れる事はいわば禁断の行為、その度に総士の身体には激痛が走り苦痛に顔を歪ませた。
「なんだ、ただの腹いせじゃないか。」総士は武流の黒い記憶を見た。
父親の康之は社会人リーグに力を入れている会社での野球チームで絶対的エースだった。仕事はあまり出来る方でなかったが、会社は野球の為に康之を在籍させていた。
それは大きな大会前だった。練習中に康之の右肘が悲鳴をあげた。靭帯断裂だった。康之の年齢でその大怪我はあまりに致命傷だった。康之は完治させて戻ってくると懇願したが、会社は非情にも契約解除を言い渡した。その後ショックから会社にも行かなくなり、クビになった。
妻の琴乃は康之が元気に戻るまでは自分が家計を支えると懸命に働いた。武流にとっても、野球を辞めても自慢の父親だった。そんな2人の支えを裏切るように康之は毎日酒に明け暮れた。
武流が中学生になり野球により力を入れたいと地元の強豪チームへ入り父親の背中を追いかけていたが、その姿が康之には苦しく、嫉妬し、やがて武流が目障りな存在になった。
ある日練習から帰った武流に康之は強く罵倒した。「俺の前で道具を見せるな!お前の身体じゃ続けても意味ねんだよ!さっさと野球なんて辞めちまえ!」武流はその言葉にショックを受けたが「なんでそんな事言うの!?僕はお父さんみたいになりたいんだ!身体だってこれから大きくするから大丈夫だよ!」康之は武流の顔を殴った。突然の事すぎて武流は痛みを感じなかったが、今何が起きたのか理解できなかった。初めて父親に殴られたからだ。
それから毎日康之の暴力は続いた。練習から帰ると毎日。武流はそれでも野球を辞めなかった。野球は父との夢だからだ。
「武流は将来プロ野球選手になれるぞ!」康之は武流が小さい頃からそう言い続けていた、武流もその期待通りに練習に打ち込み成長していった。そんな父から野球を辞めろと言われたのは拳よりも重い言葉だった。
そして父に殺意を向ける時がきた。その日いつもより酒を飲んできた康之は上機嫌だったが、武流が練習から戻り次の大会メンバーで4番ピッチャーに選ばれた事を、康之には聞かれないように琴乃に嬉しそうに話した。琴乃も静かに喜んだ。
食事中、康之は2人の様子の違いに気がついた。「なんだお前ら何か隠してんのか?」武流は黙っていた。「何も隠してないわよ。」「嘘つけ!飯もちょっと違くねぇか?何もねぇのにこんな良い肉だすか?」「たまたま安かったから」康之はイラつき家の中を見渡し、武流の練習バッグをあさり始めた。「やめろよ!勝手に開けるなよ!」武流は康之の腕を掴むが、康之は1枚の紙を見つけた。
「なんだこれ?4番、ピッチャー、中原武流、、、」武流はもしかしたら喜んでくれるかもしれないという一縷の希望を抱いた。
しかしそれは一瞬で崩れ去った。康之はメンバー表が書かれた紙を破り捨てた。「引退試合でもしてくれるのか!?無駄な事してんじゃねぇ!」練習バッグを投げ捨て中身が散乱した。「やめろー!もう邪魔しないでくれよ!出てけよ!」武流も我慢の限界がきていた。康之はその言葉に怒り狂った。「てめぇ!誰に言ってんだ!」武流を突き飛ばし、倒れている武流を蹴り続けた。「お前なんかがいくら努力しても無駄なんだよ!さっさと辞めちまえ!」武流は蹴られながらも康之を睨み続け呟いた。
「お前とは違う。負け犬。」「武流!?」琴乃はいつも反抗しない武流とは違う様子に驚き、康之を刺激したら危険だと心配になった。案の定康之は怒りを増し手をつけられなくなった。
散乱していた道具からグローブを手に取りハサミで切り、引き裂いた。その光景に武流の頭は真っ白になった。康之に向かって身体ごとぶつかるが、体格差がありすぎてびくともしなかった。何度突き飛ばされても起き上がり立ち向かった。
「武流もう止めて!」琴乃が武流を抱きしめる。止まらない康之は琴乃ごと蹴り飛ばした。「お母さん!」自分にならまだしも琴乃に暴力を振るうのは許せなかった。
「殺してやる、、、」武流は台所から包丁を持ち出し迷わず康之に向かっていった。康之も武流がそこまでしてくるとは予想してなく咄嗟に身体が反応せず、刺される覚悟をした。
しかし康之の悪運が勝ったのか、武流に野球の神様がついていたのか、武流は床に転がっていたボールに気づかず踏んでしまい態勢を崩した。その瞬間を逃さず康之は武流の顔を力いっぱい殴った。
数秒のズレで2人の未来は変わっていただろう。武流は意識が朦朧としながら倒れた。
「クソっ、、、次は絶対・・・殺してやる・・・」
それから数日後、琴乃は武流の練習中、康之に離婚届を突きつけ家を出てってほしいという話をした。
康之は首を縦に振らなかった。康之が立ち直るのを信じてた琴乃だったが先日の件を目の当たりにし、これ以上は看過できないと、要求に応えないなら自分がやると震える手で包丁を突きつけた。
康之は激怒し包丁を取り上げようとするが、琴乃は包丁を力いっぱい握り離さなかった。揉み合いを続け包丁は左右に大きく振られ、やがて包丁は琴乃の脇腹に刺さった。深くは刺さらなかったが、包丁をすぐに抜いてしまい血が溢れ出してきた。康之は反射的に逃げるように家を飛び出した。琴乃は呼吸が荒くなり腹を手で押さえ壁に寄りかかり座り動けなかった。
琴乃の意識が遠のく中、武流が練習から帰ってくると受け入れ難い光景を目の当たりにした。
総士は目を開いた。「なんて弱い男だ。ただ自分の不運を息子にぶつけやがって。同情できないな。」総士は暗闇の中パソコンを打ち始めた、「しかし白球1つが人の人生を大きく変えるとはな。野球が少年の未来を守ったのかもな。」総士は笑った。
翌日の夜、康之は警察に追われてる事を警戒して行きつけの飲み屋には行かず電車で30分離れた街で飲んでいた。
総士にかかれば康之の行動パターンは容易に想像でき、防犯カメラのハッキングをし、すでに康之の居場所を掴んでいた。
康之は泊まる所も見つからず途方に暮れながら夜道を歩いていた。犯罪者の自覚があるのか、人通りの少ない道ばかりを選び、薄暗い公園のベンチに腰をかけ休んでいた。
暫くすると公園にフードを被った黒服の男が入ってきて康之が座っている所から、少し離れたベンチに座った。康之は男に対して特に気に留める感じもなくうなだれていた。
数分して康之が顔を上げると、男はすでにベンチにはいなく、康之の背後に立っていた。康之が背後に殺気を感じ振り向こうとした瞬間、頭から何かを被らされ目の前が真っ暗になり同時に全身に強烈な痛みと電気が走った。一般的に流通している物の比でない威力のスタンガンをくらい、康之は気絶した。
どれぐらい気絶していたかはわからないが、頭から水を浴びせられ康之は目を覚ました。目を覚ますと目の前に黒服の男が立っていてそこがどこかわからない倉庫らしき所へ座らされていた。立ちあがろうとしたが腕と足をしっかりと縛られている事に気付き身動きが取れなかった。「おいっ!何なんだこれは!誰だお前は!?ここはどこだ!おいっ!」康之は男に叫び続けるが男は何も応えなかった。
男はゆっくりと背後へ回り康之の右足のアキレス腱にナイフを当て、耳元で呟いた。「2度と妻と息子の前に現れるな。罪を償って遠くへ消えろ。」康之はゾクっとしたが聞き覚えのない声の男に脅しだろうと怯まず返した。「何者なんだてめぇは!殺すぞ!早くこれを、、、!?」叫んでる途中に激痛が襲った。先程くらったスタンガンの比ではない激痛だった。男は迷わずアキレス腱を切ったのだ。康之は思わず痛みに悶え苦痛に叫んだ。「ッアァァァーッッ!やりやがったなー!」康之の足首から血が溢れ出ている。男は構わず左足のアキレス腱にもナイフを当てた。康之は一変し泣きながら命乞いをした。「やめて!やめて下さい!すいません私が悪かったです!2度と近づきません!償います!約束します!」男はこの事を話せばすぐ殺しに行くぞと耳元で呟いた後、康之を縛る紐をナイフで切った。
康之は崩れるように倒れ必死で傷口を押さえた。男は康之の前から去って行った。
その後、康之は這いつくばりながら路上にまで出た所で通行人が救急車を呼び治療を受け、すぐに病院を抜け出し足を引きずりながら警察署へ出頭した。医者にも警察にもあの男の話をせず、酔っ払って怪我をしたとしか説明しなかった。
思い出すとパニックを起こす程、康之の海馬にはあの男の恐怖の記憶が刻まれていた。
武流の練習を見てから1週間後、再び保は総士を呼び出した。
「なんだお願いって?」総士は電話では言えないと、呼ばれた理由を聞いた。保はいつになく真剣な顔をしていた。「総士、、、頼む。俺の消した記憶の事を聞かせてくれ!」総士は黙って目を閉じた。
「わかってる!それは契約違反だって!でも、このままじゃまたお前に迷惑かけるだろ!?」保とは記憶を消す時に、消した部分の話はしないと言う約束をしていた。
総士は目を開けた。「なんでそう思うんだ?」「武流くんを追いかけようとした時、何か言いかけただろ?わざわざ児玉さんまで連れてきて。武流くんと話してた時も、俺が熱くなると困るって。どういう意味なんだよ!わからないと俺は同じ事するだけだ!」総士は保に背を向けた。
総士はいつかこの日が来るとは感じていた。人間なら誰しも知りたくなるもんだ。だから記憶を消した記憶も消すべきなんだ。あの日も・・・でも出来なかった。
「頼む!教えてくれ!お前の足手纏いになりたくないんだ!」保は総士の背中に向けて頭を下げた。総士は一つ息を吐いた。「少し長くなる。場所を変えよう。」総士は歩き出し保は顔を上げた。「ありがとう!」
総士が部屋に人を入れるのは保だけだった。
「久しぶりに来ても相変わらず何もない部屋だなぁ。」「どうせ1人だ。別に何もいらないだろ。」総士の部屋は物がほとんど置いてなく、リビングは綺麗に片付いていて全く生活感のない部屋だった。
「せっかく金はあるんだからもっと良い物食べろよ。」保は冷蔵庫を開けて言った。「勝手に開けるな。めんどくさいんだよ、また1から味を覚えるのは。」「あぁー、なるほど。大変だな記憶をなくすって。」
2人は家具に興味のない総士が唯一お気に入りのソファに対面して座り、こちらも唯一お気に入りの濃いめのコーヒーを出した。「苦っ!でも美味いな。」
和やかな時間も短く、総士は真剣な顔つきに変わり、空気を感じ取った保も真剣な顔をした。
「そしたら始めるぞ。」
「あぁ。頼む。」
「話そう。お前の消えた記憶の話を。」
バブル2話 白球の願い 完
「白球の願い」を最後までお読みいただき、ありがとうございます。
今回は、総士と保の性格の違いや、二人のやり取りも楽しみながら書きました。少しずつ総士の性格などを出していくのを楽しんで書いています。
タイトルの白球の願いは、武流がボールを踏んでしまう所に意味を持たせました。野球の神様が武流を犯罪者にしなかった。と伝わってもらえてたら嬉しいです。
次回は、保が失った記憶と、二人の過去に触れていきます。
引き続き『バブル』を楽しんでいただけたら嬉しいです。




