バブル
「はぁ、、、はぁ、、、はぁ、、、」「・・・さようなら」
ドンッ!……
当たり前のように40℃超えの猛暑がやっと終わり、短い秋の陽気になってきた10月後半。気持ちの良い朝のルーティンであるブラジル産の濃いめのホットコーヒーをテラスで飲む一時を邪魔するようになり響く救急車のサイレンにため息をつく。
「せっかく久しぶりのこの時間をなんなんだよ」
総士は急ぐ救急車を目で追い、自分の好きな時間を邪魔されたと少し苛立ちながら部屋へ戻り、カウンターテーブルにまだ温かいコーヒーを置くとしばらく何か考えた顔でソファへ腰を下ろす。どれぐらいの時間そこに座っていただろう、再度コーヒーを飲むともう常温に変わっていた。
「聞こえますか!?聞こえますか!?」救急隊の男が倒れている女性の肩を叩きながら声をかける。女性の反応はなく、頭から血を流していて、左足がどんな軟体人間でも曲げれない角度に曲がっている。周囲には人が群がり、心配の声もある中、「ありゃ死んでるよ」「助からないだろ」「朝から最悪なもん見っちゃったよ」
同じ人間の辛い瞬間にかける言葉ではない汚い悪の言葉も少なくない。しかしおそらくそれが他人に対する正常な反応だろう。人間なんてそういう生き物だ。大概の優しさは偽善の元成り立っている。他人の不幸なんぞに共感する力は持ち合わせていないのだ。
状況から見て、倒れている横にある7階建てのビルから飛び降りたのだろう。奇跡でも起こらない限り助からないだろう。
周囲には教科書らしき本が散乱しており、大学生の女性だろうという事までは判断できそうだ。
救急隊が呼びかけを続けている様子を見ると、まだ息があるのかもしれない。女性は救急車に慎重に乗せられ、朝の通勤で急いでいるだろう車が路肩ギリギリに寄せて開けた真ん中の道を急ぎながらもゆっくり進んでいき走り去っていった。
道に血痕が残る中、集まっていた野次馬達はいつもの日常に戻っていく。沈んだ顔をしてる人もいれば、週刊誌の記者のように現場の写真を撮り夢中で携帯を操作してる者もいる。良いネタが出来たとばかりに拡散しているのだろう。
総士はまだソファの上で冷めたコーヒーを飲みながら考え事をしていた。
3時間は座っていただろうか、コーヒーを飲み終えた所で携帯を手に取り電話をかけ始めた。
「もしもし、お疲れ様。」「おぅ、かかってくると思ったよ。今朝の救急の事だろ?」電話に出たのは今朝飛び降りをした女性を運んだ病院に勤めている看護士の男だった。名前は宮木保。「さすがだな、よくわかってる。で、どんな患者だ?」
用件がわかってるなら早く教えてくれとばかりに問いただす。
「もっと世間話しから始めるとかないのかお前は!まぁ、じゃないとわかってるから俺も勤務中に隠れて電話に出るんだけどよ」「そうだろ、で早く教えてくれ。」「はいはいはい、わかったよ!」苛立ちながらも、総士の性格をよくわかってる故に本題を簡潔に伝える保。
「飛び降りだ。大学3年生の女子大生だよ。まだ緊急手術中で助かる保証はないが、奇跡的に持ってたリュックがクッションになって一命を取り留めてる。大学生は教科書をたくさん持ち歩いてんだな。」「そうか、、、リュックを背負ったまま飛び降りたのか、、、本当に衝動的な行動だったんだな。無意識に近いのかもしれないな。」冷静な口調で返す総士に「そうだな。自殺願望がある人間はそれがあるからなかなか止められねぇ」保の言葉はほとんど聞きもせず、「ありがとう。手術結果がわかったら教えてくれ。」と言い残し総士から電話を切った。「あっ、おい!」ちょっと待てと言いたい所をいつもの事かとため息をついて携帯をポケットにしまった。「あいつの勘はよく当たるわ」
総士の住むマンションは保が働く永杜病院に近い場所に位置する新築マンションだ。11階建ての8階の角部屋の部屋に総士は住んでいる。閑静でスーパーやコンビニも徒歩圏内にあり、生活するのには最適な位置に面しているが、唯一住民の頭を悩ませるのは救急も受け入れる病院、永杜病院が近くにある事だけだろう。救急車のサイレン音が日常的に鳴り響く。しかしこのマンションに住む人間の中で総士だけだろう、選んだポイントがそこなのは。
その日の夜20時を過ぎた頃、総士の携帯が鳴る。相手は保だ。ツーコールめが鳴る前にすぐに電話に出た。
「もしもし、結果は?」保が話す前に問いかける。「早いなぁ、、、まずは俺から話してからだな・・・」その先を言う前に保は話すのを止め、総士の性格を重々知っている。ごちゃごちゃ言ってもコイツは聞いてない。欲しい情報さえ聞ければいいとわかっているから、諦めてすぐに本題を話す事にした。「手術は成功。意識も戻って話せる状態になってる。だが、現実をまだ受け入れられてないのか、感情は不安定だ。泣きじゃくってるよ。」結果を聞いて考える間もなく返す。「だろうな。死ぬつもりで飛び降りたんだ。また自分がこの世に戻ってきてしまって、生きてる喜びより地獄に戻された悲しみの方が強いんだろう。」
保は返答に数秒考えこむ。「人を救う正解はわかんねぇな、、、やるのか?」保は総士の返答はわかっていると思いながらも聞いてみた。「もちろんだ。本当に人を救える方法はこれしかない。絶対に死なせるなよ。」静かに強い口調で保に言い放ち電話を切る。
大きく深呼吸をし息を吐く保は「って言われても俺は看護士だぞ、医者じゃねんだぞ、、、」と言い放ち携帯をポケットにしまった。
翌日、飛び降りた女性の病室に警察が2人入りこんできた。
夏の名残りを残した褐色肌のベテランの男性刑事と真夏の日焼け対策はバッチリしたのであろう色白のまだ若い女性刑事だ。
先に男性刑事がボーッと一点を見つめている女性患者に話しかける。「桐嶋すみれさんですね?私刑事の黒岩と申します。」話しかけられても表情を変えない女性にお決まりの警察手帳を見せる。手帳には柏戸署巡査部長黒岩研吾と書かれている。
「今回桐嶋さんがここにいる経緯をお聞き、、、」黒岩が話している途中に「ちょっと黒岩さん!」と女性刑事が割って入る。「大変失礼いたしました。私は生活安全課の児玉と申します。」深く頭を下げた後、黒岩を病室入口まで連れて行き、黒岩にしか聞こえない小声で「なんでそんなストレートに聞くんですか!まだ目が覚めたばかりですよ!そもそも捜査一課が来るにはまだ早いんだから今日は私だけで大丈夫です!」若手の女に怒られ、ばつが悪い顔をしながら「いやだってよぉ、もし突き落とされた可能性や1人で飛び降りたにせよ、理由がある訳だろ?事件かもしれねぇじゃねぇか!」小さくため息をついた児玉が諭すように話す。
「わかってます。黒岩さんが人一倍人情があり、悪い奴は野放しにできない。どこでも飛んでいく熱い刑事だってのはよくわかってます。」若い女に褒められて嬉しさを隠しきれない顔をする黒岩に続けて「でーも、今はまだ違います。まずは私が経緯を聞き出しますから!こういう時は女性同士の方が話し易いんです!事件性があれば黒岩さんに報告しますから!今日は私に任せて署に戻って下さい。」署内でも凶悪犯に無類の強さを誇る黒岩だが、女性にはめっぽう弱く、10歳離れている若手女性に言い返す事が出来ずに渋々病室を後にした。
児玉は短い深呼吸をし、桐嶋すみれの横に座り再び話しかけた。「先程は失礼いたしました。桐嶋さん、お気持ちが整っていない所を承知で申し訳ないのですが、お話しになれる範囲でよろしいのでお話しを聞かせて頂けないでしょうか?もしお力になれる事があれば協力させて下さい。」
児玉の言葉を聞いてくれているのかいないのかわからない反応だったが、数秒な沈黙があった後、桐嶋が重い口を開いた。「私、、、死にたかったんですね、、、飛び降りた記憶、、、ないんです、、、。」耳を近づけないと聞こえないような小さな事で話しだした。「昨日もいつも通り学校に行くつもりだったんです、、、その途中、、、目の前に玲奈がいて、、、気付いたらここにいました」
「その、、、玲奈さんとは?お友達ですか?」児玉が優しく慎重に問いかけると桐嶋すみれはボロボロと泣き出しさっきまで虫の鳴き声のような口調とは異なり感情をむき出しにして強い口調で話し始めた、「あの女のせい!あの女のせいで私の未来が!私の邪魔をして!」人格が変わったような形相で児玉の両腕を掴み「そうよ!あの女が私をビルから突き落としたのよ!刑事さんあいつを捕まえて!」その鬼気迫る様子に言葉を失ってしまった児玉だったが、ガラッと病室の扉が開き勢いよく黒岩が駆けつけ、児玉の両腕を掴んでる手を振り払いすぐにナースコールを押す「おいっ!誰か早く来てくれ!」すぐに看護士が駆けつけ桐嶋すみれの腕に鎮静剤を打つ。徐々に落ち着く桐嶋すみれの様子を確認すると、看護士から「今日はもうお帰り下さい!」と強く言い放たれ、まだ驚きを隠せないでいる児玉を支えながら病室を出た。
病院内の自動販売機近くの椅子に児玉を座らせる。黒岩が自動販売機でコーヒーを2つ買っていると「盗み聞きしてたんですか?帰ってなかったんですね。」うつむきながら児玉の方から話し出した。「んまぁ、、、なんだそのぉ帰ろうとは思ったんだけどな。でもあれだ、全然内容は聞こえなかったぞ!そしたら突然桐嶋の怒鳴り声が聞こえたもんだからな!つい、、、」親に怒られた子供が言い訳するように黒岩が弁解する。「なんだったんですかね、、、玲奈という女性と何かあったんだわ。」「玲奈?誰だそれは?」「いいですか!まだ事件と決まった訳じゃありません!あとは生活安全課の方で進めますから、黒岩さんは自分の仕事に戻って下さい!」そう言い放ち黒岩が持っている缶コーヒーを1つ奪い早足で病院出口へ向かっていった。
その日の夜、総士の携帯に保からの着信が入る。またしてもツーコールめが鳴る前に電話に出て保が話す前に話し出す。「どうなった?」「そのいきなり本題にもってく癖やめてくれよ、俺じゃなかったらどうすんだよ」関係ない話しには反応しない総士の事はわかっている。
「はいはい、今日刑事が2人来たよ。なんか強そうな男刑事と若い女刑事だ。ナースコールが鳴って駆けつけた時には患者の女が児玉って女性刑事に向かって何か叫んでたよ。」「なんてだ?」「なんかあの女をーとか、捕まえてくれーとか?すぐに鎮静剤を打って落ち着かせたら刑事らを帰らせたから詳しくはわかんなかったな。」「充分だ。その女が誰かはどうでもいい。飛び降りた理由が明確にある事がわかったならそれでいい。」この後の流れはわかってるとばかりに保が了解とだけ返事をする。「頼んだ」とだけ言い残し総士から電話を切った。
その後桐嶋すみれはたまに気持ちが不安定になる事はあるが、懸命にリハビリに取り組み幸い後遺症もなく松葉杖があれば自分の力で歩けるようになるまで回復をした。
その間にも度々女性刑事の児玉が事故の詳細を聞きに桐嶋の元を訪れてはいたが、保があまり刺激しないようにとうまく追い返していた。事故の事を思い出させてはまたいつどんな衝動を起こすかわからない。自殺願望とはそういうものだ。絶対に死なせるなと総士の言葉を守ってる訳ではなく、保自身の看護士としての正義からくる行動だった。
保は時間が空けば懸命に桐嶋のリハビリに付き合った。その甲斐あり予定よりも早く退院出来る事になった。
退院前日、保はある事を伝えに桐嶋すみれの病室へ行った。
「桐嶋さんリハビリよく頑張りましたね。明日でとうとう退院ですね。」「はい、ありがとうございました。本当に色々ご迷惑をおかけしてしまいました。」普段の桐嶋すみれはとても穏やかで絵に描いたような優等生タイプだ。だからこそ保はあの日児玉の腕を掴んだ桐嶋の姿が心配でならない。
「明日からまた学校に行く事は可能ですが、、、どうするんですか?無理して行かなくても、、、」「もちろん行きますよ!入院して遅れた分を取り返さないといけないですからね!」桐嶋は保に向かって満面の笑みをした。「そうですか、、、そしたら僕も応援します。けどもし、もし辛い気持ちになった時、自分でのコントロールが難しいと思った時は、、、」保は一呼吸して桐嶋に自分の連絡先を書いたメモ用紙を渡した。
「もし限界を感じたら、僕に連絡して下さい!必ず!あなたを救います!」数秒だが何分にも感じる沈黙が流れる。保は頭を最大限にフル稼働させ自分の言葉を振り返るとだんだんと恥ずかしい気持ちになった。
沈黙を破ったのは桐嶋からだった。「えっ、、、あの、、、それって、、、」保より恥ずかしい顔をしてるのは桐嶋すみれの方だった。保の顔を見れないでいる。空気を察した保は慌てて「いやややや!違います!違います!なんか告白みたいでしたよね!そういう意味じゃなく!ごめんなさい!言葉が間違ってました!いや、間違いではないんですが!」大の大人が年下の女子大生に慌てふためいてる姿におかしくなった桐嶋は笑顔になり、「あははは、大丈夫です!流石にそれは急すぎるとちょっとビックリしましたが、宮木さんはそんなチャラくないはずと思ってますので」「チャラ、、、かったですかねハハハ」「少し、でもカッコよかったです、ありがとうございます!もしもの時は連絡しますね!」桐嶋は笑顔でメモ用紙を掲げた。
翌日、桐嶋すみれは両親付き添いのもと永杜病院を後にした。
その夜、保は総士に電話をした。「事故か?」いつも通り総士から話し出す。「ちげーよ、桐嶋すみれが今日退院したよ。大恥かいちまったんだぞこっちは!」「そうか、ちゃんと伝えたんだな。」保が恥かいた話しなど興味がない様子で総士は続ける。
「こっからがその子にとっての本当の試練だ。乗り越えられるのか、、、ここまでか、、、お前を頼ってきた時は、必ず救ってあげよう。必ず。」「あぁ、そうだな。良い子だったよ本当に、、、生きてほしいよ、、、」
そんな願いが続いたのもわずか2日だった。
保の仕事が終わり病院を出た18時過ぎ、保の携帯に知らない番号から着信が入った。少し胸騒ぎを感じ電話に出る。
「もしもし」「宮木、、、さん?」その声は震えてるように聞こえた。保は自分の心臓の音が早く鼓動しているのがわかった。「桐嶋さん?」「良かった。まだ覚えてくれてたんですね。」電話の相手は2日前に退院した桐嶋すみれだった。
桐嶋は電話越しからでもわかる、明らかに何かに怯えている様子をしていた。保もすぐに状況を察知した。
「どうしましたか!?今どこにいますか!?」「宮木さん、、、私やっぱりダメでした、、、またあのビルに、、、勝手に、、、」桐嶋の呼吸がおかしいのがわかる。保はすでに走り出していた。あのビルなら近くだ。走れば5分もあれば着けるはず。
「桐嶋さん!電話を切らないで!すぐに行くから!大丈夫だ心配しないで!深呼吸をするんだ!」保は全力疾走しながらも何でもいいから話す事に集中した。電話を切ったらこの5分でも間に合わないと感じたからだ。
「桐嶋さん良かった、声が聞けて!そうだ桐嶋さんに教えてもらったケーキ屋さん!行ったんだよ!すごく美味しかった!また食べたいなあのモンブラン!」桐嶋に保の声が聞こえているのかはわからない。返答はない。ただ電話は切れてない。電話越しに桐嶋がいるかはわからない。そんな想像も過りながらも保は走り続け内容なんてない話しを返答のない電話に向かって話し続けた。
走って5分の距離がとてつもなく遠く感じたが、例のビルに4分で辿り着いた。おそらく今後これ以上のタイムは出せないだろう。このビルじゃなかったらどうしようという恐ろしい考えを振り切るように、約1ヶ月前に桐嶋すみれが飛び降りた7階建てのビルの屋上まで走り続けた。
自分のどこにこんな体力があったんだろうと信じられないと思いながらも階段を駆け上がり勢いよく屋上に出る扉を開けた。
もう日が沈み辺りはすっかり夜になっていて、この日は天気も悪く星も見えない空のせいか、真っ暗な屋上に保は何の気配も感じる事が出来なかった。一瞬の絶望感の後、屋上の角に携帯画面の光がうっすら見えた。しかしすぐに光がうっすらしか見えなかったのが、画面の上に何かが乗っているからだと気づき、数歩近づいた所でそれが人の手だという事がわかった。
桐嶋すみれだ。桐嶋は携帯の上に手を置いたままボーッと空を見つめ座っていた。
保は生きてたという安心感から、一気に自分の喉のからさと呼吸の苦しさが襲ってきた。無理もない、こんな全力疾走したのは何年前の話しだろう。両足も震えて足を前に出すのにも重さを感じながら、ゆっくり一歩ずつ桐嶋すみれの元に近づいていき、手の届く所まで来たら桐嶋の後ろに座った。
「桐嶋さん」呼吸が整う前に声をかける。「宮木さん……ケーキ屋行ってないですね、」桐嶋は意外と落ち着いた様子だった。「えっ?」「あそこのケーキ屋今の時期はモンブラン置いてないですよ。」しまった、何で咄嗟にモンブランと言ってしまったんだろう。無難に必ずあるであろうショートケーキで良かったじゃないかと後悔した。「あぁー、えっとごめん、今度必ず行くよ。」
保のミスのおかげで一瞬だけ桐嶋に笑顔が生まれた。「ありがとうございます。宮木さんがずっと話してくれてなかったら、私は今頃きっとこのビルの下に、、、もうダメかもしれない私。また同じ事すると思う。」桐嶋は声を震わせ泣きながら話した。保は桐嶋の肩にそっと手を置いた。
「死にたくないよ」その言葉を最後に桐嶋は泣き続けた。その姿を見た保は決断をし、左ポケットに入れていたあるスイッチを押した。
「大丈夫だよ。君を助ける」
総士は自宅の定位置ともいえるお気に入りのソファに座りこれもまたお気に入りのホットコーヒーを飲んでいた。
総士の部屋には普通の電気の他に各部屋にランプのような物が壁に取り付けられている。
普段は光もついてなく、ただのオブジェのように見えるが、突然全ての部屋のランプがオレンジ色の光を放ち点滅し始めた。このランプは唯一この世で保だけが持っているスイッチを押すと反応するようになっている。ある知らせの為のスイッチだった。総士はいたって冷静な様子で、まだ一口しか飲んでいないコーヒーを置き部屋を出た。
保は桐嶋が落ち着きを取り戻すまで黙って側にいた。
しばらく泣き続けていただろう、泣き疲れたのか突然スイッチが切れたように冷静さを取り戻した。
「すいません、もう大丈夫です。帰れます。」ゆっくり立ち上がった桐島に、保つも立ち上がり「桐嶋さん、あなたを苦しみから解放する事ができます。僕を信じてその場所に行きましょう。」桐嶋は驚いたように振り返り涙で腫れた目で保の顔を見つめた。「私を、、、救う?どこへ?行くんですか?」訳がわからないといった顔の桐嶋に対し保の顔は自信に満ちた顔で笑顔だった。
2人のいたビルから15分程歩き狭い路地裏をしばらく歩いた先は、高い壁の行き止まりだった。「宮木さん行き止まりですよ?いったいどこに行くつもりなんですか?」不思議そうに聞く桐嶋に、「着きました。ここです。」保はそう言うと壁の端っこにある少しのくぼみに指を置いた。すると壁の下側が動き出し、人が1人入れるほどの穴が開いた。穴の中は暗いが、よく見るとうっすらと下へ向かう階段が見えた。
驚いた桐嶋は「なんですかこれ!?どこなんですかここは!?」と保へ問いただす。保は冷静に「桐嶋さん、驚かせてすいません。あまり詳しい話しは出来ないのですが、僕を信じてください。この先にあなたを救う事ができる奴がいます。」
「奴?誰かいるんですか?この中に?」これまで保を信頼していた桐嶋だが、変な想像をしてしまい保への疑心と、自分はどんな事をされてしまうのだろう、まさか人身売買!?などといった恐怖が襲ってきた。「無理です。帰ります私。もう大丈夫なんで!」早くこの場を離れなくてはと素早く振り返り来た道に戻ろうとする桐嶋に、保が強い言葉で呼びかける。
「誰が!誰があなたを救えるんですか!?」桐嶋は保の声に足が止まった。「桐嶋さん、僕は看護士です。追い込まれた人をたくさん見てきました!その中には、、、もう会えない人も、、、」保は言いかけそうになった言葉を伏せ、言葉を選んだ。「僕から見たあなたはもう、限界です。自分で行動をコントロール出来なくなっている!明日もし玲奈さんに会っても正気でいられますか?」玲奈という言葉に桐嶋はビクッとした。「玲奈・・・」桐嶋の呼吸が早くなっていく。
玲奈の名前を出すのは少し乱暴だが保の作戦だった。冷静な状態の女性が男と2人でこんな暗闇の穴の中へ入るなんて、拒絶しない方がおかしい。ましてこの先にもう1人いるとなったら生きて帰れない姿も想像するだろう。桐嶋には悪いが、保はわざと桐嶋に考える余裕を与えないようにした。
保はゆっくり桐嶋に近づく。桐嶋は肩で呼吸をし、震えている。そんな桐嶋に保は優しく「大丈夫です。信じてください。明日からあなたは幸せに生きていける。」
まだ少し落ち着いていない状態の桐嶋を支えながらゆっくり穴の前まで歩き、先に桐嶋から階段を下ろさせた。10メートル程下ると階段が終わり、目の前に扉があった。保は桐嶋への確認はあえてせず迷わずその扉を開けた。
すると、薄暗くて全体はわからないが、感覚でここは広い空間だという事がわかった。桐嶋が保へ声をかけようと思った矢先、電気がついた。
空間全体を照らす光ではないが、ここがしっかりコンクリートで作られている部屋という事はわかった。また桐嶋が話そうとする前に、奥から人が歩いてくるのが見えた。顔がしっかりわかる距離まで来た所で、「初めまして、桐嶋すみれさんですね。」桐嶋はやっぱりいたのは男かと心の中で思ったが、不思議と直感でこの男に敵意を感じなかった。
保を信じているからだろうか、一言だけだがゆったりとしたこの男の口調のせいかはわからなかった。どうにせよここまで来たらもう逃げられそうもないと桐嶋は覚悟を決めていた。
「はい、桐嶋すみれです。なぜ私を知っているんですか?あなたは誰ですか?」気付けば冷静さを取り戻していた桐嶋が男に向かって言った。
「白雲総士といいます。保の友人です。あなたの事は保から聞いていました。」桐嶋は保の顔を見て「宮木さんの友達?なんで私の話しを?」保は桐嶋の方を見ずに何も言わなかった。
「桐嶋さん、保が私に話しをしていたのはあなたの助けになりたかったからです。それほどあなたは今追い込まれている状態です。このままだと最悪な結果を招くと判断したからここに連れてきてもらった。保はそういった人を見る事に関してはプロだ。お許しください。」
桐嶋は信頼してた保に騙された気持ちになってショックをうけた。「だからって、、、だったら最初からそう言ってくれてれば、、、」「それは出来ないんです。あなたを救う為の手段は今の時代では合法ではない。道徳や倫理に関わる方法なんです。」
桐嶋は驚いた「なんですかそれ!違法って事ですか!?私に何しようと!?」総士は冷静に即答した「記憶を消します。正確には海馬を操作し桐嶋さんにとって嫌な記憶のみを消します。他の記憶が消える事はないので今まで通り生きていけます。ご安心下さい。」「ご安心て、、、出来ないですよ!海馬を操作って、消したい記憶だけ消すなんて事本当にできるんですか!?聞いた事ありませんよそんなの!そもそも医者なんですかあなた!?なんで病院でなくこんな所で!」「落ち着いて桐嶋さん。」保が興奮している桐嶋の肩に手をかけるが、桐嶋はその手をすぐに振り払った。
総士は冷静に返答を続ける。「出来ます。確実に。そして私は医者ではありません。なので病院を持っていませんし、表でこの治療をしていたら大問題になって医者だとしても医師免許剥奪されますよ」と笑った。
「ちょっと待って……医者じゃないって!意味わかんないです。そんな人に私の手術を任せるなんて、、、無理です。帰らせて下さい。あなたの事もここの事も誰にも言いませんから。」桐嶋はここを出たらすぐに警察に電話しようと思った。
「ここを出てどうするんですか?ハッキリ言いましょう。このままだとあなたは死ぬ。数日後かもしれないし明日かもしれない。きっとまたあのビルの屋上に行く。ビルを避けても他の方法を選ぶ。無意識に・・・。無意識だから防げないんです。今回保がいたのは奇跡です。そう何回も奇跡は起こらない。」桐嶋はゆっくり保の顔を見た。
「いいですか。この衝動は誰にも予測できないんです。だから警察に頼ろうが医者に頼ろうが無理だ。根本から取り除かないと桐嶋さんを救う事は出来ない。」
桐嶋に恐怖感が襲ってきた。この場にいる事ではない。ここへ出てからの自分の未来がリアルに想像できたからだった。総士の言っている事になる。自分は自殺すると想像できてしまった。
総士は話しを続けた。「私ならあなたを救えます。正確には、私が操作するこれなら。」そういうと総士はスイッチを押した。すると薄暗かった地下室が眩しいほど明るくなり、桐嶋は眩しさに目をつぶるが、徐々に明るさに慣れてくると、目の前に180℃に広がる大型のスクリーンがあり、その前には透明な球体があり、中には椅子が1つ見えた。桐嶋は不思議な感覚になり興奮と恐怖感を忘れ穏やかな気持ちになった。とても優しく包まれるような不思議な光だった。「これは?」桐嶋が小さく呟く。
「バブルです!」総士はすぐに返した。「このバブルが、あなたを救います。」「バブ、、、ル?」総士は説明を続けた。「桐嶋さんはあの球体の中にある椅子に座って頂くだけで結構です。するとこのスクリーンに桐嶋さんの記憶が大小様々な大きさの泡のように映し出されます。あ、ご安心下さい。泡に映ってるのは断片的な記憶の一瞬だけなので、桐嶋さんの記憶を全て覗ける訳ではありませんので。」理解がついていけなく、はぁ、、、とだけ返す桐嶋。「その泡の大小は記憶の強さに比例しています。尚且つ記憶の良し悪しは泡の色で違いがでます。その泡の解析をこちらでします。」と総士が指差す方を見ると、色んなグラフや数字が動いている画面がある。
「こちらで知りたい泡を選ぶと、ここにその記憶の日時や場所、幸福度などが数値化、グラフ化され記憶に対しての重要度がわかります。」
桐嶋は開いた口が閉じずに呆気に取られている。「そして、消したい記憶の泡を見つけ出し、このスイッチを押すと、、、パンッとその記憶だけを取り除く事ができます。泡が弾けるように一瞬でなくなります。」
「凄い、、、そんな事が本当に、、、でももし違う泡を消してしまったら?なんなら全部消したらこれまでの人生全て忘れてしまうって事ですか?」桐嶋が問いただす。
「大丈夫です。このバブルは悪い記憶しか消せない設定になっていて、それも消せる泡の大きさも決まっているんです。その基準以下の大きさの泡は消せません。その基準というのは、命に関わるかです。その人にとって命に関わる記憶かどうか、、、」
「そんな事までわかってしまうんですか、、、信じられない、、、」
まだ半信半疑な桐嶋に保が声をかける。
「僕もなんです。」「えっ?」「僕も総士に、このバブルで記憶を消してもらっています。そのおかげで今こうして元気に生きていけてます」驚いた顔で保を見て、「そうなんですか!?どんな記憶を?」「それは教えてくれません。それに、教えられても思い出す事は出来ないと思います。その間の記憶は本当に何も思い出せないんです。でも僕はそれで良いと思っています。」そう言うと保は総士に笑みを向けた。総士はそれに対し軽く頷いた。
「そうなんですか、、、記憶を、、、」深く考えている様子でいる桐嶋を2人は見守った。数分の時間が流れた後、桐嶋は決心を固めたようで「お願いします!私の記憶を消して下さい!正直まだ少し怖いですけど、、、私生きたいです。以前の自分に戻りたいです!」強い意志を感じられる言葉に、総士は一言だけ返した。「わかりました。あなたを救います。」
準備と気持ちを整える時間を設ける為、処置は1時間後に開始する事にした。その前に総士からバブルの説明を受けて教えられた事は、桐嶋の嫌な記憶を消すという事は消す寸前までの時間、つまりここにいるこの時間も忘れるという事。この場所も総士の事も思い出す事はないという事だ。そして、保と会ったのは入院中だけという事は保の事も忘れる事になるという事を言われた。
2人は処置までの1時間楽しい話しばかりをした、、、。そして時間になり、「宮木さん、本当にありがとうございました。宮木さんがいてくれなかったら、私は、、、。私は宮木さんの事を忘れてしまいますが、宮木さんに出会えた記憶は本当にかけがえのない記憶です。どうかお元気で。」桐嶋は涙を堪え保に最後の言葉を伝えた。「うん、僕は桐嶋さんの事を忘れません。必ず。これからは嫌な事を忘れ、素敵な人生を送ってください。」保も涙を堪えた。
「桐嶋さん、こちらに。」総士に呼ばれ、桐嶋はバブルの球体の中に入り、椅子に座った。すごく全身を包み込まれるような感覚になりとても気持ちが良い椅子だ。桐嶋は一瞬で眠ってしまいそうなこの椅子に座り、総士へも感謝を伝えた。「白雲さん、ありがとうございました。短い時間ですが、お世話になりました。本当にこれは人を救える最終手段かもしれません。私は白雲さんに感謝しております。私のような人を、、、救ってあげて下さい。」総士は優しく頷いた。
「それでは始めますね。」桐嶋も頷き、総士は球体の外に出た。総士がスイッチを押すと球体の入り口が塞がれ、本当に泡の中に入り込んだように球体に虹色の膜が張られ、下から無数の泡が溢れ出し桐嶋を包み込んだ。桐嶋は一瞬驚いたが、この泡に包まれる不思議な感覚がとても心地良く、だんだんと眠くなり、やがて深い眠りについた。
桐嶋が眠りについて束の間、総士が見つめるスクリーンに大小様々でそれぞれに色も違う無数の泡が出現した。泡1つ1つの中に桐嶋の姿がうっすらとだか確認する事が出来る。これが桐嶋すみれの海馬にある記憶の全てだった。
「保、ここからは僕の仕事だ。」「わかった。頼んだぞ。」そういうと保は扉を出た。親友の保といえども人の記憶を覗き見するのは許されなかった。
総士はコンピューターに大きさと色、記憶の期間を入力し、泡の選別をした。残った泡つまりこれが桐嶋を苦しめた記憶だった。その泡は真っ黒で他の泡より何倍も大きい泡だった。
総士はその泡を取り除いた。総士にとっては簡単な作業だが、他の者がやるにはとても訳が分からない数式を打ち込まないといけなく、操れる物ではない。そもそも、このバブルという装置は総士にしか反応しないのだ。
それが何故かは総士自身にもまだ分かっていない。
1時間が経った。桐嶋は球体の中でまだ眠っている。バブルの泡に包まれると早くても12時間は目が覚めないのだ。総士は外で待機している保を呼んだ。
「終わったか!今回は時間かかったなぁ」「あぁ、少し慣れない事をした。消した記憶以外はとても幸せな時間だったらしい。」保は安心した顔をした。「そうか。それなら良かった。これからは大丈夫そうだな!」
「あとは任せた。色々上手くやってくれ。」「へぃへぃ」
そう言うと保は桐嶋を抱え永杜病院へ向かった。
翌朝桐嶋が目覚めると永杜病院の病室だった。桐嶋は14時間眠っていた。状況を飲み込めない桐嶋は驚いたが、女性の看護士に貧血で倒れたと伝えられ、すぐに退院出来ると伝えられ病院を出た。
自分がどこで貧血を起こしたのかいくら思い出そうとしても思い出せずにいると、「桐嶋さん!」と呼び止める声が聞こえた。桐嶋が振り返るとそこにいたのは、生活安全課の児玉だった。「桐嶋さん、お身体は大丈夫ですか!?私その後事故の原因を調べまして赤羽玲奈の妙な噂を聞き、事件として捜査できるかもしれません!」児玉は少し興奮気味に桐嶋に伝えると、「事故?事件?玲奈が?どういう事ですか?玲奈が何かしたんですか?」と不思議そうな表情をした。その反応に児玉は驚いた。「えっ?だって、、、えっ?」児玉の方が状況が読めないといった様子だ。
そこへ慌てて保が駆けつけてきた。「児玉さん!ちょっとこっちへ!」児玉の腕を強引に引っ張り桐嶋から遠くへ離れた。「桐嶋さん!もう大丈夫です!」保は笑顔で桐嶋へ手を振った。咄嗟の出来事に桐嶋は「あっ、、、!」としか言えず、保は遠くへ行ってしまった。
桐嶋から離された児玉は、保に掴まれた腕を振り払い「ちょっと!ちょっと!なんなんですか!?」と保に怒りをぶつけた。「すいません。すいません。」と児玉に頭を下げ保は説明をした。
「桐嶋さんは今自分の中で記憶の改ざんをしている状態です。」「記憶の改ざん?」「はい、事故の事を完全に忘れています。それは桐嶋さん自ら行った防御反応みたいなものです。嫌な記憶を忘れて、前に進もうとしています。ですので事故に関する話しはしないであげて下さい。このまま思い出さない方が彼女の為なんです。」「記憶を忘れた?事故の事だけ覚えてないという事ですか?そんな事あるんですか?」「希にそういった事もあります。強く忘れたい記憶。それが生きていくのに邪魔をするのであれば、そこだけ切り取って記憶を消したんです。泡を割るようにパンッと、、、。それも人間の生きる力なんです。」「泡を割るように、、、そんな事が、、、でもあの事故は赤羽玲奈のせいで起こった事故なのかもしれません!そしたら赤羽玲奈を罰しなくては根本の解決にならないかと!」保は首を横に振り「桐嶋さんはそれを望んでいないでしょう。それが望みなら記憶を消さずに戦っていたはずです。これが、、、彼女が選んだ幸せなんです。」納得のいかない表情を見せながらも児玉は反論する事はできなかった。
保にもう桐嶋には近づかない事を約束し児玉は病院を後にし、保は大きく息を吐いた。「ふぅー、これが1番大変なんだよなぁ」と呟いた。
保は桐嶋の親にも事前に、児玉と同様の内容を伝え、事故の事を話さないようにと約束をした。
それでも学校内の友達や教師に伝える事は難しく、そこは桐嶋の友情関係に期待するしかなかった。だが、保の期待以上に桐嶋すみれは良い人間関係を築いていたらしい。
桐嶋が学校に行くと、数人の友達が寄ってきて心配そうに声をかける。「すみれー!大丈夫なの!?もう元気なの!?もう心配させないでよー!」桐嶋は事情が分からず驚いた様子を見せ「えっ、あっ、うん、大丈夫だよ、元気元気!ところで私ってなんかあったの?」次は友達の方が驚いた様子を見せる。「えっ!覚えてないの!?事故にあって入院してるって聞いてずっと心配してたんだから!」ビルから飛び降りたという事までは生徒に知れ渡ってないようで、学校側は事故にあったという事だけで話しを伝えていたようだ。
教師にも桐嶋の親から保に言われた内容を伝え、娘には自分がした行動の事を聞かないようにと約束したようだ。桐嶋すみれは周りの人間に恵まれていた。桐嶋自身も自分が思い出せない事に対してそこまで悩む事なく「そうなんだ!全然思い出せないけど、私元気だよ!」と笑顔を見せた。元々桐嶋は前向きでサバサバした性格なのだろう。これが本来の桐嶋すみれだ。
引きずる性格は男の方だ。保は休日に総士を呼び出し、1人で行くと思い出して味がわからなくなりそうだと言って、桐嶋に教えられたケーキ屋に付き合わせた。
「なにが悲しくて男2人でケーキ屋に行かなきゃいけないんだよ。」総士は全然乗り気ではなかった。「いいじゃないか!たまには俺に協力してくれよ!」保は男1人で入る勇気の方がなかったようだ。
今時のお洒落な外観ではないが、中に入ると優しい甘い匂いがしてきて、不思議と懐かしく感じる温かい店だ。保は桐嶋らしい店だなと思った。
総士はミルフィーユを、保はショートケーキを注文し店内にあるイートインスペースに対面に座った。「やっぱりなんか気持ちわりぃな、、、」総士はこの状況から早く抜け出したかった。
「ん、美味いぞ!たまにはケーキも良いな!なっ!」保は何も気にしてる様子はなく楽しそうだった。そこへ3人組の女子大生が入ってきた。
「あっ、まだあった!私ショートケーキ!」「えーそしたら私はどうしよっかなー」総士は若い女子にこの状況を見られるのは恥ずかしいと思い下を向いた。保は気にする様子もなく目を向けると、3人組の1人は桐嶋すみれだった。保は思わず声をかけそうになったが、桐嶋はもう自分の事を忘れていると思い出し、声が出る寸前でやめた。
ケーキに集中していると、「宮木さん!?」驚いた保は目を丸くして顔をあげる。桐嶋が声をかけてきたのだ。「宮木さんもここのケーキ屋知ってたんですね!?あっ、私もショートケーキです!ここのショートケーキ最高ですよね!」宮木はこの状況の方が理解出来ないでいた。
「えっ、、、なんで、、、あっ、うん、美味しいよね、、、」「この前、児玉さん?でしたっけ、大丈夫でした?お知り合いですか?宮木さん走ってすぐ行っちゃったから。」「あっ、あーあれね、大丈夫大丈夫!気にしないで!」保は笑ってごまかした。
「すみれー!早く行こー!」桐嶋の友達が入口から呼んでいる。「あ、じゃぁここで失礼します!」と保に言い、総士の顔を見て一瞥して友達の元へ向かった。総士の事は本当に忘れているようだ。「ちょちょちょちょちょっ!なんで!?」保は興奮して総士へ問い詰める。総士はその慌てる保が面白かった。
「ハハハッ、まさかこんな所で出くわすとわ!桐嶋の記憶の選別をしてる時、事故前後の記憶は黒く大きい泡だった。黒い泡はその人にとって消したい記憶の色だ。でもその黒い泡の中に1つ黄色がかった泡があったんだよ。黄色はその人にとって楽しかった記憶の色なんだ。泡が混じっている場合本来ならそれも一緒に消えてしまうんだが、、、でないと記憶の辻褄が合わなくなってしまうからな。」保は難しい顔をしながら聞いている。
「だが、少し賭けだったが黄色の上っ面部分だけ残せないかやってみたんだ。今の感じを見たら成功したみたいだな。あの子の記憶の中には、お前とリハビリをしてた記憶は消えている。が、お前の名前と、会話をしたという事の記憶は残った。ほんのわずかな時間のだけどな。絶望の中でもお前と話していた時間はよほど楽しかったんだろう。」
保は泣きそうになった。「お前って奴はぁ〜!だからあん時少し時間かかってたんだな!言ってくれよぉ!」「成功する保証もなかったからな。にしてもお前、、、本気か?」「なにが!?ちげーよ!そんなんじゃない!けど、良かった、、、ありがとな!」保はもうすでに少し泣いてた。
「本気になんのはあの子が卒業にしてからにしろよ。」「だから違うって!お前ってほんとバブル絡んでる時と全然違うよな。表と裏の顔ありすぎだぞ。」ケーキ屋で大人の男2人が楽しそうに笑い合っていた。他からどう見えてるのかなんかもう気にしなくなっていた。
その日の夜、総士は1人でバブルの球体の中に座っていた。裏の顔か・・・表と裏があるとしたら保といる時の俺は全て表の顔だ。裏の顔といえば、、、保も知らない今の顔だ。
総士はスイッチを押す。球体の入口は塞がれ総士は泡に包まれた。しかし、桐嶋の時と1つ違う事がある。総士を包む泡は全て黒い泡だった。それは桐嶋から取り出した桐嶋すみれの泡だった。総士は自分の海馬に桐嶋の記憶を入れたのだ。これは保も知らない禁断の行いだった。
総士は小刻みに震え頭が割れそうな痛みに耐えた。泡が全て消えると、総士はゆっくりと目を開けた。「そうゆう事か。」総士は少し笑った。
総士は桐嶋が飛び降りた理由を全て知ったのだ。
桐嶋すみれは成績は常にトップクラスでお手本のような優等生だった。目立つようなタイプではないが、周りからの信頼も厚くいつも桐嶋の周りには友達が集まっていた。赤羽玲奈とも最初は仲が良かった。
赤羽は桐嶋とは真逆のタイプで親は大手会社の重役で見た目も派手でいつも高級ブランドを身につけているいわゆる金持ち令嬢だ。それでも桐嶋は赤羽に嫌悪感はなく友達の1人として付き合っていた。
だがそれも最初の1年だけだった。2人が2年生になった頃にはいつも自分より成績が上で家も普通で見た目も地味な桐嶋を、なぜ周りは慕うのか。自分は常に誰からも憧れの存在になり自分がこの大学の中心にいる存在だと、、、そうなる予定だったはず、、、
やがて赤羽にとって桐嶋すみれは最も邪魔な存在になったのだ。3年になり、とうとうその嫉妬が爆発した。
純粋で信じやすい桐嶋をはめるのは簡単だった。ある日赤羽は桐嶋に近づいた。「すーみーれ、ごめんちょっと私急用が出来ちゃってすぐに帰らなきゃいけないの、この封筒を坂田先生の引き出しに入れといてくれない?」「えっ、いいけど、、、先生の引き出し勝手に開けちゃっていいのかな?机の上に置いといたらダメなの?」「大丈夫大丈夫、先生には引き出しの中に入れておくって言ってあるから!それに、、、この中身、、、絶対他の先生に見られちゃいけないやつで、、、察してくれる?」桐嶋は少し考え「えっ!?えっ!?そういう事!?」赤羽は照れたような演技をして頷いた。
「玲奈ってもっと違うタイプかと思ってた」「ちょっと!どういう意味よ!」2人はいたって仲の良い女子友だった。「アハハ、変な意味じゃないよ!坂田先生、優しいもんね!わかった!ちゃんと入れとくね。」赤羽は心の中でホント疑う事をしない女めと余計腹が立った。「ありがとうすみれ、今度お礼するね!よろしくね!」と桐嶋に封筒を渡した。
桐嶋は自分の用事を済ますと、職員室に誰もいない事を確認し、坂田の机の前に立ち「玲奈も可愛い事するんだなぁ」と引き出しを開けた瞬間、「オイっ!何してるんだ!」急な怒鳴り声に桐嶋は驚きを隠せなかった。怒鳴った人物は坂田だった。「桐嶋!お前なにやってるんだ!「あっ、いや、これ玲奈に頼まれて、、、先生に。」「お前それ!」坂田は封筒を桐嶋から取り上げ、中身を出した。ごめん玲奈、、、バレちゃった、と心の中で赤羽に謝罪した桐嶋は坂田が封筒から出した中身に目を疑った。
「なんだーこれは!」坂田が桐嶋に見せている中身は、これから始まる期末試験の問題用紙だった。桐嶋は頭が真っ白になった「えっ?なんで?」と呟く事しかできなかった。
「桐嶋、これは大問題だぞ!……!………!………!」坂田が何か怒鳴っている事はわかるが、何を言ってるかは桐嶋の頭の中には入ってこなかった。後日しっかり話しをするという事で、その日は帰された。桐嶋は訳が分からず呆然と立ちすくした。
玲奈に騙された、、、?坂田もグル、、、?それだけはわかった。でもなぜ自分?桐嶋にとって赤羽はいつもお洒落でキラキラしている手の届かない存在と思っていた。自分なんかに嫉妬してるなんて夢にも思ってなかった桐嶋には理由がわからなかった。
翌日桐島が学校に行くと、周りの自分を見る目が昨日までと明らかに違う事にすぐに気がついた。仲の良い友達が桐嶋に近づいてきて慌てて携帯をみせる。そこには昨日自分が坂田の机の引き出しを開ける瞬間、坂田が問題用紙を掲げている瞬間が鮮明に写っていた。桐嶋にとって不利になる部分だけを切り取って編集された動画だった。
「すみれ、違うよね?なんかの間違いだよね?」心配した顔で桐嶋を見つめる友達に桐嶋は呆然とし何も答えられなかった。突然猛烈な吐き気が襲ってきて桐嶋は口を押さえ走りだし校門を出ても走り続けた。
我慢の限界まで走り続け、そこがどこかは分からないが脇の草むらに嘔吐した。桐嶋は無意識に涙が溢れ出てきた。
「なんで、、、なんで、、、なんでなんでなんで!」草むらに手を打ち続け泣き崩れた。誰の事も疑う事をせず、真面目に綺麗なレールの上を歩いてきた人生の桐嶋には初めての経験、感情で、とても耐えられなかった。ここから桐嶋すみれの地獄が始まった。
その日以降桐嶋は学校には行かなかった、それどころか部屋からも出なかった。心配した母親は学校に電話して何があったのか問い詰めた。学校側の返答はあの動画のままを説明された。それでも母親は自分の娘に限ってそんな事する訳ないと娘を信じ続け、父親も学校には行かなくていい、もう辞めようと、すみれに話し続けた。
頭ではわかっているそんな両親を裏切りたくないと。
毎日のように友達も桐嶋の家を訪ねては、その日の授業の内容が書かれたノートを母親に渡し続けた。これまで桐嶋すみれがどう生きてきたかがわかる、信頼が簡単に崩れる付き合いをしてきてない事がわかった。
そんな周りの努力もあり、桐嶋は少しずつ前向きになり学校へ行くと言い出すまで回復した。赤羽に対しても憎むどころか、ちゃんと話してみようと、話せば理由があるんじゃないかと、どこまでもお人好しだった。
だが、そんな桐嶋の勇気は、別の方向へ向けられてしまった。勇気を出した日、それは桐島があのビルから飛び降りた日だった。
その日これまでの休んでた分の教科書やノートが大量にありパンパンに詰まったリュックを背負って学校へ向かう途中、まさかのタイミングで赤羽玲奈を見つけてしまった。
まだ気持ちを作っていなくて桐嶋の心臓は激しく鼓動した。赤羽の横にいる女が後ろにいる桐嶋に気付き赤羽に声をかける。赤羽が振り向き桐嶋を見て笑った。
ゆっくりと近づいてくる。「すみれー、元気だった?ありがとうねちゃんと約束守ってくれて。」桐嶋は呼吸が整わないが必死で声を振り絞った「玲奈、、、なんでか、、、聞かせて、、、私悪い事、、、した?」赤羽は真顔になり桐嶋を睨み目の前まで顔を近づけてきた。
「はっ?悪い事?してるよ。今もしてんじゃん。」「えっ、、、?」「存在しちゃってるじゃん、オマエ」桐嶋の思考が止まった。その後も笑いながら何かを赤羽は話しているが、モヤッとした物体にしか見えない。何も聞こえない。その後もどのくらいの時間そこに立っていたかわからない。桐嶋にはもう自分のコントロールが出来なくなっていた。その後ビルの屋上にいた。
2度目も同じような展開だった。赤羽に会い、「なんで生きてんだよ?死ねよ!死ね!死ね!死ね!消えちまえよ!」と罵られ思考が止まった。総士は改めて保の存在があって良かったと保に感謝した。
この桐嶋の記憶はもう総士の頭の中にあり、想いの強い部分を断片的に思い出す事が出来る。しかし1度入れた記憶は2度と取り出す事は出来ず一生総士の海馬に残る事になる。そうして総士の海馬には何人もの辛い記憶が刻まれているのだ。
桐嶋の記憶を取り出してから1ヶ月が経った頃、総士の携帯が鳴り保からだった。普段の総士はなかなか電話に出ず、気が乗らなければ出ない時もある。
が、この日は出る事にした。保が興奮した様子で話し出す。「もしもし!大変だよ!また飛び降りだよ!」「落ち着け。まさか桐嶋が!?」保は深呼吸して落ち着き、「いいやそれが、、、あの赤羽玲奈だ。」「赤羽玲奈って、あの子の事故原因の?あいつか?」「そうなんだよ!なんであいつが、、、」「まさか桐嶋が、、、」「いや!それはない!さっき児玉さんが来てさ、まずその怨恨を疑って桐嶋さんのアリバイを確認した所、桐嶋さん今家族旅行で海外にいるらしい。だから桐嶋さんには絶対に無理みたいだ!」保は安心した様子で言った。
「まぁ、あの子にはもう桐嶋に対する恨みの記憶はないからな。旅行をしてなくてもその心配はないだろう。」「そうだよな、、、じゃぁやっぱり自分からなのか、、、」「でっ?容態は?死んだのか?」「いや意識不明の重体だが、一命は取り留めてるよ。だけど、あれは足に後遺症が残るかもな、、、」
総士は保に聞こえない程に呟いた。「フッ、しぶといな。」「えっ?なんだって?」「いや、理由はわからんがまぁ因果応報じゃないか。当然の仕打ちだろ。」「まぁそうだけどさぁ、、、どんな奴でも患者だからな、必ず救うよ!」といい保は電話を切った。「正義感の強い奴だ。」
保の正義感と自分の正義感は別物だと総士は思った。
赤羽玲奈が飛び降りる3日前。
総士は電気もつけない部屋でパソコンを打ち続けていた。総士のPCスキルは大企業のセキュリティレベル以外のハッキングなら難しくない程だった。
赤羽に金で買われた教師の坂田。坂田のパソコンをハッキングすると数人の生徒との関係写真が出てきた。「こういう奴はコレクションのように残しとくんだよなバカが。」他にも闇カジノに出入りしている証拠が出てきた。「終わってるなコイツ。」
翌日学校中に坂田の裏の顔が知られ、即解雇、後に教員免許剥奪、警察の取り調べを受けている。
赤羽玲奈。赤羽の携帯をハッキング。すると桐嶋が職員室で坂田の机の引き出しを開ける動画を大事に取ってある。「こういうバカはなんで証拠を残したがるんだ。」この動画の赤羽の声だけを残す。ご丁寧に自分で自白してくれている。「はっはっはっ、これであんたも終わりだよすみれ。馬鹿正直な性格でいてくれてありがとう。」
念には念をで坂田とのLINEも抜き取り、坂田を金でゆすり、桐嶋を陥れる為の2人のやり取りもしっかり残っていた。
翌日坂田同様、学校中に赤羽の裏の顔が知れ渡った。1つ違うのは赤羽の場合、裏の顔と思う生徒はいなかった事だ。誰もが赤羽ならやりかねない、想像つくといった声が多かった。
赤羽玲奈は親にも見放され、プライドの高い赤羽は自分が後ろ指さされる苦痛に耐えきれず学校を辞めた。
全てを失い気付くとビルの屋上にいた。
そして赤羽が屋上のふちに立つと、後ろからフードを被った黒服の男が近づいてくる。
「誰っ!近づかないで!」赤羽が男に向かって叫ぶが男はそのまま赤羽に近づいた。赤羽の側まで近づくと男は何かを呟いた。
「…………」その言葉を聞いた後、赤羽は自らの意思で飛び降りた。
男に何を言われたかは赤羽にしかわからない。
海馬の中に眠る記憶しか・・・
バブル 1話完




