第三十六話 灯の正体
翌朝、沈遙は宿の食堂で記録帳を開いていた。
昨夜の出来事を整理しているのである。
古い渡し場。
夜だけ現れる灯。
そして布切れ。
どれも些細なことだ。
だが気になった。
「まだ考えてるのか」
趙万が椀を片手に座った。
「少し」
「幽霊じゃなかったんだろ」
「それは間違いありません」
沈遙は答えた。
「人がいました」
「だったら本人に聞けばいい」
趙万は当然のように言った。
沈遙は思わず笑った。
確かにその通りである。
昼過ぎ。
沈遙は布切れを持って河岸へ向かった。
昨日の船頭たちも協力してくれることになった。
「あの辺りの商人なら分かるかもしれねえ」
船頭の一人が言う。
河岸には多くの商人がいた。
魚を扱う者。
塩を運ぶ者。
布を売る者。
沈遙は布切れを見せながら話を聞いて回る。
すると一人の老人が足を止めた。
「それなら見覚えがある」
老人は布を指差した。
「川向こうの農家がよく着てる布だ」
沈遙は顔を上げた。
「農家ですか」
「ああ」
老人はうなずく。
「向こう岸にも村はある」
「だが正式な渡し場は遠い」
沈遙は柳月と顔を見合わせた。
何か見えてきた気がした。
その日の夜。
沈遙たちは再び渡し場へ向かった。
昨夜と同じ場所で待つ。
しばらくすると、やはり灯が現れた。
今度は近付く。
慎重に。
音を立てないように。
やがて人影が見えた。
三人いる。
灯を持っているのは老人だった。
隣には若い男。
そして荷を抱えた女。
「やはり人ですね」
沈遙が呟く。
その時だった。
女がこちらに気付いた。
小さな悲鳴を上げる。
若い男が慌てて前へ出た。
「待ってください」
沈遙は両手を上げた。
「怪しい者ではありません」
「十分怪しいだろ」
趙万が小声で言った。
沈遙は聞こえないふりをした。
老人はしばらく警戒していたが、やがてため息をついた。
話を聞くと、事情は意外なものだった。
彼らは向こう岸の農家だった。
収穫した野菜や卵を町へ持ち込み、生活の足しにしている。
だが正式な渡し場を使うと遠回りになる。
しかも利用料も掛かる。
そこで昔使われていた渡し場を密かに利用していたのだ。
「それだけですか」
沈遙は思わず言った。
老人は苦笑する。
「それだけだ」
「だが役人には怒られる」
なるほど。
だから夜だけ動いていたのか。
幽霊でも密輸でもなかった。
生活の為の苦肉の策だった。
柳月が腕を組む。
「賢いと言えば賢い」
「怒られると言えば怒られる」
趙万も頷いた。
「生きるのも楽じゃねえな」
老人は苦笑した。
沈遙はしばらく考えた。
規則だけを見れば褒められた話ではない。
ばれれば処罰だってあり得る。
だが彼らは決して金持ちではない。余裕などない。
少しでも暮らしを楽にするために工夫していた。
それだけだった。
帰り道。
川の音を聞きながら沈遙は歩いていた。
「報告するのか」
柳月が尋ねる。
沈遙は少し考えた。
そして首を横に振る。
「私の仕事は不正を調べることではありません」
「それに」
「何だ」
趙万が聞く。
沈遙は川面を見た。
「人がどう生きているかを見ることの方が大事な気がします」
趙万は笑った。
「変な役人だな」
柳月も笑う。
沈遙も少しだけ笑った。
川の上を風が吹き抜ける。
幽霊の正体は人だった。
そして人の事情だった。
旅に出てから、そんな話ばかり増えている気がした。




