第四話 歪なアイリス
目が覚めた時、窓の外はもう朝の光に白んでいた。
十月の朝の空気は少しひんやりとしていて、翠は布団を肩まで引き寄せた。
このまま眠っていたい、いつものように。
――けれど、
血の海、戦闘、獣機、灰銀色の髪の少女――アイリス。昨日の光景が一気に脳裏へ蘇る。
夢じゃない――そう思って身を起こし、反射的に隣のベッドを見る。
――いない!!
慌てて体を起こした翠は、部屋の隅に立つアイリスを見つけた――壁際へ寄り、部屋の中央をきちんと空けて、呼ばれるまで動かない使用人みたいに控えている。
けれど、屋敷で見慣れたそれとはどこか違う――優雅さも、余裕も、気品もない、ただ何か言われるまで、そうしているだけのように見えた。
「……何してるの」
「起きるのを待っていた」
平坦な返事だった。
「なんで」
「勝手に動くと怒るかと思って」
翠は一瞬、言葉に詰まった。
朝の光の中で見るアイリスは、昨夜よりもさらに年下に見えた。あれだけ血まみれで獣機と戦っていた相手と、どうしても同じ人物には思えない。
「別に……顔を洗うくらいは勝手にしていいわよ」
「洗った」
「え」
翠の疑いの視線が洗面台へ向く。
タオルも濡れていない。ハンドソープも恐らく使っていないだろう。ましてや棚の上にある洗顔をこの子がわざわざ使うとも思えない。
「どこで拭いたの?」
アイリスは無言で、自分の身体へ視線を落とす。
見れば服の一部が濡れていた。どうやら、服でそのまま拭いたらしい。
「ハンドソープは?」
アイリスは少しだけ首を傾げた。
「使うの?」
「使うわよ」
「毎回?」
「毎回」
思わずきっぱり言い切ると、アイリスは小さくうなずいた。
「わかった」
からかいでも何でもなく、本当に知らなかった声だった。
翠は眉を寄せたままベッドを下りる。
「……今日は、部屋から出ないで」
言いながら制服に手を伸ばす。
だが、その背後で、アイリスは静かに言った。
「それは無理」
翠は振り返った。
「は?」
「八時半までに中等部の職員室に行かないといけない」
数秒、翠の思考が止まる。
「……何言ってるの」
「今日が転入初日」
「は?」
「今日から通うことになってる」
翠は完全に固まった。
昨夜、母のお墓参りに出かけて、死にかけた。
助けてくれたとはいえ、アイリスは恐らく“異能力者”――つまり翠から見れば、非日常側の人間だ。
“異能力者”の多くは、国家に保護されているか、そうでなければ犯罪組織や犯罪に加担している人間も多いと聞く。
しかも、女だと思っていたら男で――そんな名前も素性も怪しい相手が、翌朝には当然のような顔で「今日から一緒に学校に通う」と言う。
「ちょっと待って」
ようやく声が出た。
「何それ。意味が分からない。転入って何?どこに?」
「この学校」
「そりゃそうでしょうね、あんな制服着てたんだから――ってそうじゃなくて」
思わず声が大きくなる。
「なんで、そんなことになってるのって聞いてるの!
保護者は?書類は?どうやって転入できるの?」
「たぶん、問題ない」
「たぶんで済む話じゃないのよ!」
アイリスは少しだけ目を逸らした。
本人もよく分かっていないまま、誰かに騙されでもしているのだろうか。
「……とにかく、八時半までに来いって言われてる」
「誰に」
「学校の人」
「名前は」
「知らない」
「知らないわけないでしょ!」
「ほんとに知らない」
翠は額を押さえた。頭が痛い。
寝不足のせいだけじゃない。
この少年とは、昨夜からずっと、常識と会話が噛み合わない。
「……いや、違う。そこじゃない――」
言ってから、一拍置く。
「男でしょ、あなた」
アイリスはまばたきを一つした。
「うん」
「うん、じゃないのよ!」
翠は思わず一歩詰め寄った。
「中等部って女子だけなの。分かってる?女子だけ!
共学なのは高等部だけなの!なのに何で中等部に転入できるのよ!」
「外から見れば分からない」
「そういう問題じゃない!」
「でも、たぶん大丈夫」
「何を根拠に!」
「今まで大丈夫だったから」
そんなところで自信を発揮されても困るのだ。
何をどうすれば、そんな経験則が生まれるのか分からないが、少なくともこの少年の中では、成立しているようだ。
「……じゃあ、もしバレたら?」
翠は低く問いかける。
アイリスは少し考えるように沈黙して、それから言った。
「その時はその時」
「バレたら、それで終わりだとでも思ってるの?」
「翠には関係ない」
「んな訳ないでしょ!」
「……?」
昨日、翠はアイリスを一晩匿ってしまっている。寮監にも友人だと説明した。
アイリスは、よく理解していない様子だが、今さら「知りませんでした」は、通らない。
しかし、このまま一人で放り出して良いとも思えない。
胸の奥で、苛立ちと諦めがぐしゃぐしゃに混ざる。
「はぁぁぁぁー………ったく。
もし何かあっても、私は知らなかった、で通すからね。
早く支度しなさい」
長大なため息をついて、やっと絞り出した声は、思ったよりずっと低かった。
「…え?」
アイリスがまばたきする。
「え?じゃないわよ、あなた一人だと不安だから、私がついてくって言ってるの」
「なんで?」
「なんでもよ。その代わりあなたが男だってことも、転入がどうなってるかも、私は知らなかった。いい?」
「うん」
「だから、とにかく余計なことは言わないで」
「分かった」
「ぜんぜん分かってるヤツの顔じゃないのよ」
翠は深く息を吐いた。
もうここまで来たら、どのみち引き返せない。
昨日のことも、こいつに聞かなければいけない――唯一の手掛かり。
それに、また、いつ襲われるかもわからない。
あの時、あの獣機のパイロットは、確かに翠の名前を呼んだ。
その事情を父親も秘書さえも、恐らく知っていて、その上で誰も助けようとはしてくれない。
最悪だ――暗鬱とした気持ちになる。
「着替える」
翠は短く言った。
「その間、洗面所に入ってて。良いって言うまで明けちゃダメだから」
「見ないよ」
「信用してない」
「知ってる」
そう返されると、余計に腹が立つ。
翠はアイリスに、クローゼットの奥にしまってあった少し小さめの制服を押しつけた。
「それ。昨日のままじゃ無理でしょ」
「これ、私服じゃない」
「知ってるわよ。見れば分かる」
アイリスが受け取ったのは、翠の中等部の頃の制服。
たまたま昔の制服が残っていたからよかったものの、そうでなければ朝からもっと面倒なことになっていた。
「……着るの?」
アイリスが訊く。
「着るしかないでしょ。八時半なんでしょ」
「うん」
「なら急いで」
アイリスは制服を持って洗面所へ。
粋はそそくさと着替えて、部屋の鏡の前に移動する。
鏡の前で身支度を整えながら、自分の顔を見る。
ひどい顔だった。目の下が少し暗い。髪も微妙に跳ねている。
しかも傍には、昨夜拾った得体の知れない美貌の少年――いや、外から見ればもう美少女と呼ぶしかない何かが隣にいる。
笑うしかない。
「……終わったわよ」
そう言うと、遠慮がちに洗面所の扉が開かれた。
アイリスは、きちんと中等部の制服を着ていた。
喉元まで詰めた襟。長めのスカート。修道服のような、禁欲的で控えめな意匠。
それが信じられないほど似合っていた。
ぞっとするくらいの美人――誰がどう見ても、中等部の少女にしか見えない。
それに、似たデザインの制服を着ている筈なのに、なぜかアイリスの方が女の子らしく見える。
背だって自分の方が高く、胸だってかなりちゃんとある。プロポーションにはそれなりに自信はあったが、アイリスの方がなぜか色気があるように見える。
認めたくない敗北感が、なんだか癪だった。
「……何?」
アイリスがいぶかし気に問いかける。
「何でもない」
「なにか言いたそうな顔をしてる」
「してない」
「してる」
そのやり取りが少しだけ自然で、翠は自分で自分に腹が立った。
何でこんな相手と、普通みたいな会話をしているのだろう。
「いい?」
翠はわざと強い口調で言った。
「外ではあなた、私に話しかけすぎないで。必要以上に近づかない。昨日のことも言わない。男だってことも絶対に言わない」
「うん」
「あと、その返事やめなさい。軽い」
「分かった」
「……本当に分かってる?」
「翠が困ることは言わない、わかった」
その言い方に、翠は一瞬だけ黙る。
困ることは言わない――それは正しい答えのように思える。
でも同時に、ひどく危うい、どこか自我のないただ従順な答えのように思えた。
アイリスのその危うさを、翠はこの半日で感じ取っていた。
「それも違う」
翠は小さく言った。
「違うけど……今はもうそれでいい」
鞄を手に取り、ドアを開ける。
廊下は、朝の支度の音で満ちていた。遠くで笑い声がする。洗面所から戻る足音。階下では朝食の片付けをする気配もする。
いつもの朝――その中へ、翠は足を踏み出した。
アイリスも一歩遅れて続く。
鍵を閉める直前、翠は一度だけ振り返る――昨夜まで、自分一人の部屋だった。
「……行くわよ」
そう言うと、アイリスは小さくうなずいた。
「わかった」
二人で廊下を歩き出す。
すれ違った寮生が、まず翠を見て、それから後ろのアイリスに気づき、目を見開いた。
驚くのも無理はない。あまりにも整いすぎた顔だった。
朝の廊下。窓から差し込む光の中ですら、どこか浮世離れして見える。
「……誰、あの子」
「中等部?」
「すごい綺麗……」
ひそひそ声が、すぐ後ろから聞こえる。
翠はこめかみを押さえた。
――バレない。
確かに、外見だけなら絶対にバレないだろう。
「言っとくけど」
前を向いたまま、翠は低く言う。
「本当に、私は知らなかったで通すからね」
「わかった」
それきり、アイリスは何も言わない。
ちゃんとついてきているのか気になって、翠は思わず足を止めた。
振り返ると、アイリスがあどけない顔でこちらを見つめていた。
実家で昔飼っていた、もうこの世にいない犬を思い出す。
あの子も、こんなふうにいつも自分を見上げていた。
命令を待っているのか、甘えているのか、何かを期待しているのか。
翠は視線を逸らし、もう一度歩き出した。
寮を出ると、10月の朝の空気は冷たく澄んでいた。
古びて重たい校舎の上に、薄い青空が広がっている。
八時半まで、あと少し。
翠は、アイリスを連れて寮を出た。




