第ニ話 少女ではなく少年だった
翠は、息を止めたままベッドの上を見つめていた。
白いシーツ、泥と血に汚れた制服。
その中で眠る、ぞっとするほど綺麗な顔と、幻想的な灰銀の髪。
そして、その顔には似つかわしくない、黒いボクサーパンツの膨らみ。
「…………」
頭が真っ白だった。
この後どうすればいいのだろうか、固まってしまう。
その時、ベッドの上の睫毛が、また小さく震えた。
翠の肩が跳ねる。
少女の長い睫毛がゆっくりと持ち上がった。
現れた瞳は、蜂蜜を垂らしたような透明な琥珀色。
数秒、目が合った。
それから、視線だけをゆっくり下へ落とした。
自分の乱れた制服。
外されたボタン。
持ち上げられたスカートの裾。
「あ…」
次の瞬間、その“少女”は猫みたいな速さで上体を跳ね起こした。シーツを引き剥がし、裾を押さえ、ベッドの上を後退る。壁際まで下がり、背をぶつけるようにして止まった。
「見た?」
寝起きで掠れた声。
翠は我に返ったように顔を上げた。
「ち、違……っ、ご、ごめん、違うの、あの、泥だらけで……その、汚れてて……」
「…?」
それは、“何を話しているか”よりも、相手の表情や感情を注意深く探る反応。
冷静にならなければ。むしろ混乱しているのは相手の方だ。
見た?――翠は、彼女(彼)がした質問を心の中で反芻した。
努めて冷静に、翠は口を開いた。
「――見た、って何を?」
「どこまで」
「――どこまで?えっと下着、まで、かな?」
言った途端、相手の眉がぴくりと動いた。
けれど、それだけだった。怒りも悲鳴もない。
ほんのわずかに目を伏せて、唇の端を引き結ぶ。
「そう…」
ぽつりと落ちた声は、さっきより低かった。
翠は、どうしていいか分からず立ち尽くす。
「でも、別に、からかうつもりとか、そういうのじゃなくて……本当に、汚れてたから。手当てしなきゃって……」
「手当て?」
なにそれ?とでも言いたげな、まるで言葉の意味を理解していない様子だった――翠も返答に困る。
「怪我、してたから。すごく。撃たれてたし……その、血もいっぱい……」
言いながら、翠の視線は自然と相手の腕へ落ちた。
白い――滑らかで、信じられないほど綺麗な腕だった。銃弾で抉られたはずの傷も、瓦礫に潰された痕も、どこにもない。
その視線に気づいたのだろう。
相手は自分の腕を見下ろし、それから、すぐに袖を引いた。
「……見たままだ」
「見たままって……」
翠は思わず一歩詰め寄った。
「見たまんまじゃ分からないわよ。あんなに血が出てたのに、なんで傷がないの? あれ、何だったの?あのロボットは何?どうして私の名前を知ってたの?」
一気に言葉が溢れた。
家令も、何かを知っているようだった――ということは父親も同じだ。
誰も何も教えてくれない。
目の前のこの子だけが、唯一の手掛かり。
「あなた、誰なの」
その問いに、相手は少しだけ目を細めた。
答える気配はなかった。
むしろ、今度は逆に翠を観察するような目つきになる。
「――周防翠」
「え?」
「データと照合…本人で間違いない」
会話が成立しない――翠はぐしゃぐしゃと自分の頭を掻いた。さらさらの髪が乱れる。
「ああ、もうっ…!」
相手は低く息を吐く。
「ここは学校?」
「寮よ」
翠は不機嫌そうに答えた。
「女子寮?」
「そうだけど」
そこまで言って、翠は眉を寄せた。
「いや、そうじゃなくて。質問してるのは私」
「知ってる」
素っ気ない返事だった。
だが、そのくせ相手は壁際から動かない。
襲いかかろうとしているわけでもないし、部屋の出口を確認して、どう動けばいいのか、などと計算しているようにも見えない。
むしろ、妙だった。
戦っていた時の獣みたいな鋭さが、まるでない。
代わりに、何か別の……。
翠はそこで気づいた。
――なんというか、どちらかというとこれは、困っている…?
正確には、どう振る舞えばいいのか分からず、固まっているといったところか。
「……あなた」
慎重に、翠は声を落とす。
「もしかして、何かされると思ってるの、私に」
「何か、とは」
「例えば、警察に突き出したり、ひどい事したり、急に大声出して叫んだり」
「……するの?」
短い問い返しだったが、警戒心が丸見えだった。
あれだけ強かった訳だし、男なのだからと、その可能性を考慮していなかった。
「いや、しないけど」
反射的にそう言ってから、翠は少しだけ言い直す。
「いや……その、私、あなたをここに運んだの。放っておけなくて」
「…………」
「だから、少なくとも今すぐ警察に突き出したりはしない。たぶん」
「たぶんって何」
はじめて、少しだけ人間くさい反応だった。
翠は小さく息を吐いた。
「だって、まだ何も分からないもの。あなたが何者で、あれが何で、どうして私を助けたのかも」
答えず、相手はただ、じっと翠を見ていた。
その視線が妙に真っ直ぐで、翠は落ち着かない。
敵意とも観察とも、少し違う。
顔色を窺っている。
その気配に気づいて、翠は少しだけ眉を寄せた。
「……なによ?」
「怒っていないの?」
「え?」
「見たんだろ。下も。なら、普通、怒るか、気持ち悪がるか、叫ぶ」
「……それは」
翠は言葉に詰まった。
気持ち悪い、とまでは思わなかったが、驚いたのは本当だ。頭もまだ追いついていない。けれど、それより先に来たのは、訳の分からない出来事に巻き込まれた恐怖と、血だらけになりながら目の前で自分を助けてくれた、その光景の方だった。
「……叫んでないでしょ――まだ」
「まだということは、いつか叫ぶの?」
「だから、それは、私だって整理できてないの!」
思わず語気が強くなる。
相手はびくりと肩を揺らした。
翠は自分の声に、自分で少しだけ顔をしかめた。
「――ああ、もうっ、ごめん」
調子が狂う。
あれほど強くて、見たところ、中等部の女子の制服までどこからか手に入れて着用している。
ここまで度胸のある人間は、ふつうもっと不遜で堂々としているものではないか。
すると相手は、少し間を置いてから、小さな声で言った。
「………別に、大丈夫だ…」
返ってきた声が予想以上に小さくて、それが余計に、翠を困らせた。
数秒の沈黙の後、翠は床に落ちたタオルを拾う。
洗面器の水はもう少し冷めていた。
「……名前」
ベッドの端に座り直して、翠は言った。
「あなたの」
相手は視線を逸らした。
答えないかと思ったが、やがて、ばつが悪そうに口を開く。
「アイリス」
「アイリス……」
女の子みたいな名前だな、と思った。
もちろん口に出すことはしないが。
「本名?」
「さあ」
「さあ、って」
「わからない」
投げやりというよりは、どこか空虚な返事――隠しているわけでもなく、それ以外答えようがない、といった様子。
翠はそれ以上追及することができなかった。
「……アイリス」
「何」
「今夜は、ここにいて」
言ってから、自分で驚いた。
だが、口にした以上、引っ込める気にはなれなかった。
素性も知れない相手、しかも男を寮に置くなんて、正気とは思えない。
それでも、今この少年を廊下へ放り出していいとは、どうしても思えなかった。




