第一話 母の命日、お寺で少女?を拾った
9月30日、母の4回目の命日。
夕暮れ時、寂れたお寺の境内に人影はなく、期待していた父親の姿もそこにはなかった。
――16時にお母さんのお墓参りに行きます。待ってます。
無駄になった、メッセージアプリの画面を閉じる。
周防翠 (すおう・すい)は、山門の前で足を止めた。
濃紺の制服の裾をそっと整える。
修道服を思わせる、喉元まできっちり留めた襟、長いスカート。華やかさより節度を優先した、時代錯誤なほど禁欲的な意匠は、旧くから続く名門校らしいと言えばらしかった。
学園では、それが似合うとよく言われる――翠自身も、そう見えるよう努力していた。
女子寮の寮監に外出届は提出してある。母の命日なので、放課後にお墓参りをして、家族と食事をしてくるかもしれない、と。
こつこつと、革靴が石畳を叩く音だけが聞こえる。風の音も木々のざわめきもない、静かな境内。
母に連れられてここへ来たのは、もうずいぶん前のことになる。顔立ちや声は曖昧なのに、手を引かれた時の体温だけは、不思議なくらい記憶に残っていた。
会いたい、と。
その想いが、毎年、靴底を減らしていくみたいに薄れていく、それがたまらなく悲しい。
手水舎の前に立ち、水を汲もうと柄杓を取った、その時だった。
空気が、ぶわりと空間を震わせた。
翠は反射的に顔を上げる。
「……え」
本堂脇の空間が、真夏のアスファルトの熱気の向こうみたいにぐにゃりと歪んでいた。
何もなかったはずの場所が、布を裂くみたいに音もなく開いていく。
重い振動音が響く――足音。
裂け目の向こうからぬっと現れたそれは、人型だった。
むき出しの筋肉を思わせる複雑な曲線。硬質な鋼鉄の装甲板。肉食獣を思わせる獰猛なフォルム。
最近ニュースで見た覚えがある。ここ数年で開発されたという、人型の戦争兵器。たしか、名前は――人型装甲兵器 (オーガ)
人間と同じ態勢で、ライフルを半身に構え。
赤く光る瞳が獲物を狙うように、翠を不気味に見つめていた。
『対象を確認した』
パイロットの声だろうか、妙に滑らかな日本語で告げる。
『周防翠。同行していただきます』
心臓が、嫌な音を立てた。
「……な、に」
ただ何かの非現実的な出来事に、たまたま居合わせた訳ではなかった。
確かに自分の名前を呼んだのだ、それはつまり――目的は自分。
なぜかはわからない。だが、逃げなければいけない事だけは分かる。
だが、足が動かない。
オーガが一歩近づく。石畳がめくり上がり、音を立てて割れる。
『抵抗の必要はありません。危害を加える意図はない』
その言い方が、逆にぞっとした。
『大人しく来てもらいます』
金属の腕が持ち上がる。
――掴まれる。
そう思った瞬間、横合いから銀の閃光が走った。
甲高い衝突音。火花。
瞬間の光景を翠は見逃さなかった。
少女――鋭い眼光に猫のような身のこなし。すさまじい速度で飛来し、オーガに激突した。分厚い刃身の刃物を叩きつけ、つばぜり合いのように肉薄する。
オーガの上体が、わずかに逸れた。
その隙に翠はよろめきながら、数歩後ずさる。
少女は身体を丸めて着地し、その身を起こす――ぞっとするほど、美しい少女だった。
白い肌、現実離れした灰銀の髪。背格好から年も自分よりいくつか下に見える。
手には、少女の腕の長さ程もある片刃の刃物――分厚い刃が、鈍く光低い唸りを上げ振動している。
「下がって」
少女は振り返りもしないまま言った。
『退け――貴様の排除は作戦指示に含まれていない』
言葉も聞かず、少女は大地を蹴る。
オーガの腕部装甲が開き、内部から銃口がせり出した。
轟音――火線が境内を薙ぎ払う。
少女は真横へ跳び、石灯籠の陰へ滑り込んだ。
『ちっ、ジャミングか。照準が安定しない』
少女の細い体のどこにそんな俊敏さがあるのか、銃弾の曳光を潜り抜けて、オーガの膝関節を、その低く唸る刃で斜めに薙いだ。
火花――装甲が悲鳴を上げるが、毛ほどの傷にしかならない。
「っ……硬っ……」
舌打ち混じりの声。
『なめるなよガキが』
その直後、オーガの第二射――マニュアル操作に切り替えた、直接照準。
石畳が砕け破片が飛ぶ。翠は思わず頭を庇った。
少女は咄嗟に回避するが、全て避け切ることはできない。
肩口を掠め、脇腹を裂く。真っ赤な血がびしゃりと石畳に飛び散り、月光を反射する灰銀の髪先が血と泥に赤黒く汚れる。
「っ、ぁ……!」
喉を噛み潰したみたいな、短い悲鳴。
翠の背筋にぞくりと怖気が走った。
恐怖と驚きで麻痺していたが、目の前の少女は、攻撃を受ければ怪我をするし、痛みも感じる、生身の人間なのだ。
しかし少女は退かない、痛みに奥歯をがちがちと鳴らしながら、それでも前へ出る。頬は青白く、呼吸は乱れ、足元は最初よりもふらふらとして覚束ない。それでも死角を縫うように踏み込み、刃を振るう――しかし致命打にはならない。
ふいに、少女のすぐ横の空間が黒く滲んだ。
何もない場所に、小さな穴が開いている――そこから、重たい金属塊が滑り出した。
人間が持つには明らかに不釣り合いな重火器――太い砲身を束ねた艦艇装備用のガトリング砲だった。
少女はそれを、まるで重たいバッグをぶら下げるように両手で持つ。
“異能力者”――八年前の11月。英国に隕石が落ちて以来、世界各地で現れだした超常の力の担い手――翠自信、本物を見るのは初めてだった。
「なに……」
翠の口から、掠れた声が漏れる。
少女はそれに反応する余裕もないのだろう。血に濡れた口元を引き結び、ふらつく足でなお構えようとする。
しかしその一瞬の隙を、オーガは逃さなかった。
巨大な腕が振り抜かれる。
ゴッ、という鈍い衝突音――少女の体がくの字に曲がり、宙を飛んだ。
納屋脇の石壁に叩きつけられ、積まれていた建材を巻き込みながら崩れ落ちる。崩れた石の破片と瓦礫が雪崩れ込んで、その細い体をあっという間に埋めた。
「――っ!」
翠は叫びかけた。
だが次の瞬間には、オーガの銃口が瓦礫へ向いている。
掃射。
轟音、火花、粉塵。
石と木片が跳ね上がり、砕け、煙のような土埃が立ちのぼる。
その下から、どろりと赤黒い血が溢れ出した。
滲む、というにはあまりにも量が多い。瓦礫の隙間から、ぬるりと血が這い出し、石畳の上に重たく広がっていく。
即死――この量の血液が、あの少女の小さな体から失われたとしたら、生きていられる筈がない。いや、それどころか、瓦礫の下。少女だったものははたして今も、人の形を保てているのだろうか。
背筋が凍り、翠の喉が引きつった。
――きっと死んだ。
『脅威排除完了』
オーガがこちらへ向き直る。
赤いスキャン光が、翠の体をなぞった。
『対象、負傷無し。回収を再開します』
足がすくむ。声も出ない。心臓の音だけが大きく耳の奥で鳴っていた。
オーガが一歩、二歩と、翠のもとに近づいてくる。
その背後で、低い唸りがした――重たい回転と駆動音。
オーガが振り返る――翠もつられてそちらを見る。
瓦礫の陰に、少女が立っていた。
ありえない――さっき確かに潰されて、撃たれて、死んだはずだ。
裂けた制服は元通りに、まだ血と泥で汚れているが、露出した肌には深い傷が見当たらない。白く、艶やかで、かえって現実感がなかった。
その両腕で重そうにぶら下げた、巨大なガトリング砲の砲身が、すでに唸り始めている。
「――伏せて」
翠は咄嗟にその声に反応して伏せた。
咆哮――ガトリング砲が火を噴いた。
凄まじい轟音が境内を揺らす。大口径弾がオーガの胸部装甲へ叩き込まれ、金属片を撒き散らしながら抉り進む。巨体が一歩、また一歩と後ろへ押し下げられる。
赤い光が機体の奥で明滅し沈黙した――オーガは石畳へ崩れ落ち、巨体が倒れる衝撃が境内に響き渡った。
静寂が訪れる。
少女はこちらに一歩踏み出そうとして、その場で、ふらりと揺れた。
「あ……」
翠が咄嗟に駆け寄るより先に、少女の膝が折れて倒れ込んだ。
夢でも見ていたのかと思うほど、境内は静かで、派手に砕けたはずの痕跡さえ薄い。
「ちょ、ちょっと!!だ、大丈夫!?貴女!!ねぇ!!」
少女を抱き起こす――それは驚くほど軽かった。
熱があるのか、額が少しだけ熱い。呼吸は浅い。肩口には血の跡がべったり残っているのに、裂けたはずの傷は見当たらない。
意味が分からない。
怖い。
けれど置いていけるはずもなかった。
震える手でスマートフォンを取り出す。
連絡は、救急や警察ではなく、まず家令へ――それは翠自身に刷り込まれた、条件反射に近い習慣だった。
ツーコールで家令が出る。
「わ、わたしです」
『――……お嬢様。どうなさいましたか』
壮齢の落ち着いた声。だが、ほんの一拍だけ返答が遅れた。家令にしては珍しい。
「へ、変なものに、ロボットに襲われて、人が、倒れてて……異能力者、だと思う、見るのは初めてだけど、多分」
慌てて説明しようとするが、うまくまとまらない。
家令は動揺することなく、ただ何かを計るような沈黙だけが数秒続く。
『場所は――まだ、お母様のお墓にいらっしゃいますか』
怪我も安否も確認しない、明らかに不自然な返答だった。
けれど、そこに引っかかる余裕はなく、翠は聞かれるまま「そうよ」と答える。
――短い沈黙。
『今から迎えを出します。警察には連絡なさらないでください』
「どうして」
『いいですから。指示に従ってください。学校にはこちらから連絡します』
「でも、――」
『――お嬢様』
一段、強く冷たく、翠の言葉を制するような口調。
それ以上の問答は受け付けないという合図だ。
「わかった…」
そして通話は一方的に切れた。
胸の奥が冷たくなる。
家令があんな言い方をする時は、だいたいろくでもない。
数分後、黒塗りの車が来た。
運転手は何も聞かなかった。
ただ、後部座席に横たえた少女を見て、一瞬だけ視線を曇らせたきり、何も言わなかった。
寮監は、予想に反してあっさり通してくれた。
「お友達ですか?」
「……はい」
苦しい嘘だと思いながらも、翠は頷く。
「母のことで少し話をしていたら、ショックを受けてしまったみたいで……泣き疲れて眠ってしまって。連絡先も分からなくて、一人にはできなくて……」
自分でも苦しい言い訳だと思った。
けれど寮監は、翠と、その肩に寄り掛かったまま眠る少女を見比べて、深くは追及しなかった。
「お父様からもご連絡をいただいています――」
「ありがとうございます」
「改めて事情をお聞きします」
胸の奥に、また薄い寒気が走る。
父は、やはり何か知っている。
だが今は問い質せない。翠は少女を抱え直し、自室へ急いだ。
ドアを閉めた瞬間、全身から力が抜けた。
個室のベッドにそっと少女を寝かせる。幸い翠の部屋のベッドは、諸事情から一つ空きがある。
規則の厳しい学園らしく整えられた白いシーツが、血と泥で汚れそうだった。
――このままにはしておけない。
翠は洗面器にぬるま湯を張り、タオルを濡らした。
「……ごめんね」
眠ったままの相手に一応そう断ってから、制服のボタンを外す。
近くで見ると、少女はますます綺麗だった。睫毛が長く、鼻筋が通り、眠っている顔だけ見れば、年相応のあどけなさすらある。
肩口の泥を拭う――手が止まった。
傷がない。
あれほど深く抉れていたはずの腕に、かすり傷ひとつ残っていない。白く、滑らかで、最初から何もなかったみたいな肌。
「――どういう…こと?」
恐ろしくて、でも目が離せない。
スカートの裾にも泥がついている。少しためらいながら布を持ち上げて、翠は息を呑んだ。
見慣れない下着。
黒の、ぴたりとした、多分ボクサーパンツ?
そして、その中央の不自然な膨らみ――………ん?
頭の中が真っ白になる。
「…………え」
もう一度見る。
見間違いではない。
心臓が、変な音を立てた。
ベッドの上では、自分を助けてくれた“少女”が、何も知らない顔で眠っている。白い頬も、長い睫毛も、ほどけた灰銀色の髪も、どう見ても綺麗な女の子なのに。
翠の手から、濡れたタオルが落ちた。
ぺちゃん
小さな音が、やけに大きく響く。
その瞬間、眠っていた相手の睫毛がかすかに震えた。
「……っ」
翠は息を止める。
目を開けたら、何を言えばいいのか。
あなたは誰で、どうして自分を助けたのか。
あのオーガはなんだったのか。なぜ傷が無いのか。
何一つ分からないまま、ただ一つだけはっきりしていた。
――母の4回目の命日、日常が終わった日に、私は女装少年を拾った。




