第十話 不気味な英国人
休日にアイリスを街へ連れ出す羽目になったのは、単純に、あの子の着る服がほとんどなかったからだ。
それだけならまだよかった。
問題は、中等部のクラスで「誰が買い物に同行するか」のじゃんけん大会が開かれ、勝ち抜いた四人が当然のようについてきたことだった。
しかも代表とやらが高等部の教室まで来て、「私たちにもお供を」と深々と頭を下げたのである。
当然、学園での私は、そんな少女達の切実な願いを、断るわけにもいかず――他家の子女をお預りするならと、結局家から車を出してもらい、側付きの女性まで付いてきた。
家の車が停まったのは、高級店やブランドショップが連なる一画だった。
秋の陽射しは明るいのに、空気は乾いていて、通りを抜ける風が思ったより冷たい。
ショーウィンドウには落ち着いた色味の服が静かに飾られ、行き交う人々もみな隙のない身なりをしている。
見たところ、表通りの路面店には同世代の姿はほとんどない――買い物をする場所を、少し間違えたかもしれない。
けれど下級生たちは気にした様子もなく、こういう場所に生徒同士で来ること自体がもう楽しいらしい。しかも相手はアイリスだ。あれこれ選んで着せてみたくて仕方がないのだろう。
そして当のアイリスは、店に入るなり、さっそく下級生たちに取り囲まれていた。
「これ、絶対お似合いです」
「待って、その前にこっちも見てください」
「アイリスさん、こういう色もすごく映えると思うの」
「お願いです、一回だけでいいので着てみてくださいっ」
ほとんど着せ替え人形だ。
本人は本人で、やや困ったような顔をしながらも、嫌とは言えないらしい。次から次へと差し出される服を、おとなしく受け取っている。
店員まで、うっすら微笑ましいものを見るような顔をしていた。
翠は少し離れたところからその様子を眺めていたが、やがて小さく息をついた。
自分が横から口を挟んだところで、収まるものでもない。むしろ自分がいるせいで、あの子は余計に気を張るだろう。
幸い、家の者も店内に控えている。
「……ちょっとだけ外の空気、吸おうかしら」
店の外へ出ると、秋の乾いた風が頬を撫でた。
急に頬が冷え、それがなんだか気持ちよくて、翠は小さく息をつく。
人通りは絶えないのに、通りは比較的静かだった。
ほんの数分でも、外に出て正解だったかもしれない。
そう思った、その時だった。
「失礼」
低く、落ち着いた、男の声がした。
反射的に振り向く。
そこに立っていたのは、三十前後の、見覚えのない外国人の男性。
背が高く、茶色がかった上質なスーツを無造作に着こなしている。癖のついた栗色の髪をきちんと撫でつけ、眼差しはやさしく、どこかの映画からそのまま出てきたような、どこまでも洗練された英国紳士、という言葉が似合う男だった。
ただ、その佇まいには妙な隙のなさがあった。
「……はい」
翠は、自分に話しかけられているのだと判断し、警戒を滲ませつつ外行きの声で応じた。
男は端正な顔に、薄く笑みを浮かべた。
「はじめまして、私はエドワード・エインズワースと申します。以後お見知りおきを」
名乗りながら、わずかに頭を下げる。
礼儀としては完璧だったが、翠は、自分の中での警戒度を引き上げた。
「周防翠さん、でよかったかな」
男の声には、耳に触れるたび静かな存在感がある。
「なぜ、そう思うんですか?」
「ああ、いや。
君のお父上、周防氏には、いつも仕事でお世話になっていてね」
翠の背筋に、ひやりとしたものが走った。
「……そう、でしたか」
「突然声をかけてしまって申し訳ない。
だが、少しだけ、君と話がしたくてね」
声色はどこまでも穏やかだが、逆に警戒心を逆撫でする。
「いつも父がお世話になっております」
翠もまた、形通りに頭を下げた。
確かに、外務省の高官である翠の父には、国外の知人も多い。
だからと言って、その親族である翠に対して、こんな街中で、しかも初対面で声をかけてくるなど、明らかに不自然である。
ただ、万が一本当に父の関係者であった場合、こちらが先に礼を失するわけにはいかない。
そのうえで、笑顔は崩さないまま言う。
「どういったご用件でしょうか。今家の者を呼びますので」
家の者が近くにいる。その存在を、わざと相手に示した。
エドワードは、へえ、というように目を細めた。
「しっかりしているね」
「父にも、よく言われます」
エドワードは、ふと視線を横へ流した。
その先では、ちょうどアイリスが、下級生の一人にカーディガンを肩からあてられているところだった。
「アイリスは元気にしているかい」
ぞっとして、言葉が喉に張りついた。
「……元気、とは」
「ちょっとは人間らしい表情をするようになったじゃないか」
その言葉に、全身の毛が逆立つような感覚を覚えた――噴き出しそうな怒りを自制して、押し黙る。
アイリスがどんな人生を送ってきたかは知らない。
だが、碌なものではなかったはずだ。そんなことは誰が見ても分かる。
あの子の過去について、何かを知っているのか、なにかの形で関わっていたのか。どちらにしろ、あんな子供を、たった一人放っておける大人に、翠はなんの信用も尊敬も置けないことだけは確かだった。
「おや、何か気に障ったかな。
ああ、彼に絆されでもしたかい」
あえて挑発的な口調を選ぶその男を、しかし今度こそ、刺し貫きそうな怒りで見つめる。
しかし男は、気にした様子もなく続ける。
「知りたくはないかい?あの子がどんな人生を歩んできたのか。
君に何を隠しているのか。あの子の秘密を。」
声は柔らかい。口調も上品だ。
なのに、言葉だけが、するりと薄い刃みたいに入り込んでくる。しかし――
「まぁ、君も年頃だ。
そういう意味で手元に置きたいだけなら、やめておきたまえ」
「どういう意味ですか」
「ふむ、日本語ではどういう表現だったか。
愛玩用、とでも――」
――ぱしんっ
沸騰しそうな怒りにかられ、ほとんど反射的に、翠は男の頬を打った。
街行く人がこちらに好奇の視線を向けてくる。
「……父のご関係の方であっても、その言い方は失礼ではありませんか」
「そうかい?」
「あなたが何を知っているのかは存じませんけれど、あの子はちゃんとうまくやっています。困っていることがあれば、こちらでなんとかします。
放っておいてください」
自分でも驚くほど、はっきりした声が出た。
翠はガラス越しに店内の様子をちらと見た。
店の奥、試着室の閉じられたカーテン脇で、アイリスのクラスメイトたちの邪魔にならないよう控えていた側付きの女性と目が合った。
動きやすい黒のパンツスーツをきちんと着こなした、周防家の側付き――槙村由香だった。
さすがに声は届かないが、そもそも、どこの馬の骨とも知れない男と店先で向き合っていれば、周防家の側付きが見過ごすはずもない。ましてやこれだけの騒ぎになればなおさらだ。
翠は表情を崩さないまま、ほんのわずかに視線を動かした。それだけで意図は伝わる。
槙村はすぐに店員へ軽く会釈し、静かな足取りで店の外へ歩いてくる。
エドワードは、悪びれもせず肩をすくめた。
「手厳しいな」
「あたりまえです」
――その時だった。
「お嬢様!」
店から出てきた槙村は、静かな足取りで歩み寄ると、翠とエドワードのあいだに、自然な動作で割って入った。
「失礼ですが、どのようなご用件でしょうか」
声音は低く、礼儀正しい。
だが明確に、接触を遮断する声だった。
エドワードは「ああ、これは失礼」とでも言いたげに微笑み、胸元から薄い革のケースを取り出した。
そこに収められたIDと身分証らしきものを、槙村にだけ見せる。
翠の位置からは見えない。
ただ、それを見た瞬間、槙村の顔色が変わった――青ざめたと言ってもいい。
目元が硬くなり、呼吸が一拍だけ止まる。
それでも彼女はすぐに表情を整え、静かに一歩下がった。
その態度は、ただ相手の肩書きに驚いたというよりも、もっと別の――まるでそれが自らの落ち度であるかのような、不自然な振る舞い。
「……た、大変失礼いたしました」
その言葉に、翠の心臓がどくりと鳴る。
「槙村?」
「いえ、お嬢様」
けれど槙村は何も説明しなかった。
それが余計に気味が悪い。
エドワードは、何事もなかったようにケースをしまう。
「気にしないでほしい。こちらが無作法だっただけだよ」
そう言ってから、翠へ視線を戻した。
「今日のところはこれで失礼するが――」
静かな微笑み。
なのに、その言葉だけが妙に粘ついて耳に残った。
「いずれまた、近いうちに」
どこか芝居がかった優雅さで一礼して、エドワードは人混みの方へ去っていく。
翠はその背を睨みつけたまま、しばらく動けなかった。
「槙村、あれは何?」
「…申し上げられません」
「は?」
「お嬢様、申し訳ございません。
私の判断で、勝手にお嬢様にお伝えすることはできません」
繰り返す声は、いつもより硬かった。
翠はさらに何か言おうとして――
「翠!」
はっとして振り向く。
いつの間にか、アイリスがすぐ傍にいた――その表情には明確な焦りが滲んでいる。
さっきまであれほど賑やかだった下級生たちは、少し離れた場所で、気まずそうにこちらを窺っている。
「あの男――」
アイリスは翠ではなく、去っていく男の背中を見つめていた。
目に見えて顔色が悪い。
やはり、あの男となにか関係があるのだろう。
「何を話した?」
感情の乏しい琥珀色の瞳が、翠にはどこか不安げに揺れているように見えた。
何か自分の致命的な秘密が、漏れたのではないかと心配でもしているのだろうか。
翠は、アイリスの肩へそっと手を置いた。
「なにも。あんたは気にしなくていい」
「なにも、って――でも」
「いいって言ってるでしょ」
少し強い口調で言い含める。
「変な大人に絡まれただけよ。もう終わったから」
できるだけやわらかく言い直す。
けれど、アイリスの表情は晴れなかった。
「…そういうことじゃ」
言いかけて、口をつぐむ。
きっとこの子が私に言いたい“本当の何か”は、言えないのだと、翠は理解した。
余計に詮索する気持ちにはなれない。そんなことは聞かなくたっていい。
「大丈夫よ」
背中に手を添えてぽんぽんと叩くと、アイリスは困ったみたいに目を伏せ、それでもそれ以上は反論はしなかった。
その時、翠は見てしまった。
少し後ろに控えた槙村が、アイリスに向けた視線を。
あからさまではない。
けれど、隠しきれない嫌悪の情がそこにはあった。
まるで汚らわしいものでも見たような、薄く冷たい目。
翠の中で、何かが切り替わる。
槇村のその視線に、翠の怒りが膨れ上がる。
「……何?」
驚くほど、冷たい声が漏れた。
槙村が、はっとしたように顔を上げる。
槇村が向けたあの視線の意味――ほとんど素性も知れないアイリスに何故?そしてアイリスの何に対して、あのような視線を向けることができるのか。
あのエドワードとかいう男と、槙村のやり取り。
母の命日だったあの日、家令は翠に、警察には言うなと強く言い含めた。
つまり、父親も、家も、あの日の出来度について、何よりアイリスについてなにかを知っている。
「何か文句があるのかしら」
「お嬢様、私は――」
「――黙って。聞きたくない」
小さく息を呑む気配がした。
槙村は一瞬だけ黙り込み、それからきっちりとした態度で頭をさげた。
「そのようなつもりはございませんでした」
「いいえ、嘘よ」
きっぱりと言い切る。
普段、こんな風に誰かに食ってかかるなんて、翠はほとんどしたことがしない。
ただ気が立っているのか、今はどうしても引くことができなかった。
「……失礼いたしました」
槙村は、それ以上言い返さなかった。
ただ一礼して、きれいに引き下がる。
沈黙が落ちる。
少し離れたところで、下級生たちが息を潜めている。
街の休日のざわめきだけが、場違いなくらい明るく耳に入った。
やがて、翠はふっと息を吐いた。
「服を見ないとね」
「…すい?」
「このまま帰ったら、あんた着るものないわよ」
アイリスは、きょとんとして、一拍置いてこくりと頷く。
「そう。わかった」
それから翠は、まだ不安そうな顔をしている下級生たちを手招きすると、努めて明るい声で言った。
「ごめんね。ほら。次、行きましょう」
「は、はいっ」
「す、すみません……」
「アイリスさん、こ、こっちです……!」
取り繕うように、わっと空気が戻る。
まだぎこちない輪の中へ戻っていくアイリスの横顔を、翠は黙って見送った。
翌日。この日のことは、ある不名誉な噂となって学園中へ広まった。
内容はこうだ。
周防翠には別れた恋人がいた。
その男が、アイリスや中等部の後輩達との買い物の最中に現れ、復縁を迫ってきた。
周防先輩は、しつこく食い下がるその男に、平手打ちを一発くれてやり撃退した。
なお、その周防先輩に振られたその男は、超がつくほどの美形で、外国人で、しかも年上の大人の男性だったらしい、と。
あの時の微妙な空気は、そういう事だったのか。
思春期の女の子達の想像力は恐ろしい、と翠はひとりごちるのだった。
読んで頂きありがとうございます。
好みを詰め込んで書いている作品なので、もし少しでも刺さったり、続きが気になったら、ブックマークや評価など頂けると励みになります。




